メソポタミアの黄金 1
最初の夜、晴夫はやけに機嫌がよかった。仕事終わりだというのに足取りが軽く、まるで何かを隠している子どものように先を歩いていく。連れてこられた店は薄暗く、扉を開けた瞬間に空気が変わった。香辛料と油の匂い、その奥に乾いた土のような気配が混じっている。壁には見慣れない文字が並び、飾りというには妙に整いすぎていて、読めないはずなのに目が引っかかる。席に着くと、低い音の音楽が床から響くように流れていた。夏子はメニューをめくりながら、なぜか少しだけ懐かしい気分になっている自分に気づいた。来たことがあるはずはないのに、知っている気がする、その曖昧さが気持ち悪くもあり、同時に心地よくもあった。晴夫はやけに自信ありげにメニューを覗き込み、こちらの反応を楽しんでいるようだった。
「ここ、前から気になってたんだよ」
「急にどうしたの、こんな店」
「なんかさ、普通の店じゃない感じがいいだろ」
「普通じゃないって、ちょっと怖いんだけど」
「怖くないって、ほら、落ち着くだろ?」
「……落ち着く、のかな」
「だろ?こういうの好きだと思ってさ」
「好きっていうか、なんか変な感じ」
「変?」
「うん、知らないのに、知ってるみたいな」
「それ、いいじゃん」
「よくないよ、ちょっと不気味」
「不気味って言うなよ、せっかく連れてきたのに」
「ごめん、でもほんとにそう感じるの」
「じゃあ、食べたら変わるって、ここは料理がすごいらしいから」
「何頼むの?読めないんだけど」
「ラムと、あとこれ、煮込みっぽいやつ」
「適当じゃない?」
「いいんだよ、こういうのは直感」
「直感って……外したらどうするの」
「外さないよ、たぶん」
「たぶんって言ったよ今」
「まあまあ、任せてよ」
「はいはい」
やがて料理が運ばれてくると、皿の上には見慣れない色と形が並び、湯気の中に濃い香りが立ち上った。ナンをちぎると指に油が絡み、思ったよりも重たい。夏子は一口食べて、思わず動きを止めた。舌に触れた瞬間、味が広がるというよりも、何かが“染み出してくる”ような感覚があった。香辛料の奥に、乾いた土、鉄のような苦味、そして言葉にできない古さがある。
「どう?」
「……変」
「またそれ?」
「違う、さっきの変とは違う」
「どう違うの」
「なんていうか……昔の味がする」
「昔って、どこの」
「わかんない、行ったことないのに」
「じゃあ想像じゃない?」
「違うと思う、なんか、思い出してる感じ」
「思い出すって、こんな味を?」
「うん……変でしょ」
「まあ、変だけど、面白いな」
「晴夫はなんとも思わないの」
「うまいな、くらいかな」
「それだけ?」
「それだけ」
「ほんとに?」
「ほんとにって何だよ」
「なんか、平気すぎない?」
「平気って」
「こういうの、普通もっと驚かない?」
「そんな大げさなもんでもないだろ」
「そうかな……」
夏子はもう一口食べると、今度は少しだけはっきりと何かが浮かんだ気がした。それは景色でも記憶でもなく、ただの断片のようなもので、乾いた大地と、低い建物と、人のざわめきが一瞬だけ頭の奥に触れて消えた。
「ねえ、今、なんか見えた」
「見えた?」
「うん、一瞬だけ」
「どんな」
「街みたいな……でも知らない場所」
「それ、完全に想像だろ」
「そうかもしれないけど、でも勝手に出てきた感じ」
「へえ」
晴夫はそこで少しだけ視線を逸らした。その仕草が妙に引っかかる。
「なに、その反応」
「いや、別に」
「別にじゃないでしょ」
「気にしすぎだって」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「……まあいいけど」
そのとき、店の奥で、何かが一瞬だけ鈍く光った気がした。金属のようでいて、光を弾かない、不思議な光だった。夏子は思わず目を向ける。
「今、見た?」
「何を」
「あそこ、奥」
「何もないけど」
「いや、光った」
「照明じゃないの」
「違う、もっと……変な光」
「気のせいだろ」
「気のせいかな」
「たぶんな」
「……ねえ、この店、本当に初めて?」
「初めてだよ」
「嘘じゃない?」
「なんで嘘つくんだよ」
「だって、なんか知ってるみたいに見える」
「そんなわけないだろ」
「……そっか」
晴夫は笑ってナンを口に運ぶ。その笑い方が少しだけ固く見えたことに、夏子は気づいたが、何も言わなかった。料理の味はさらに濃くなり、口の中に残り続けるようになっていた。そして、その夜、店を出たあとも、夏子の舌にはずっと、あの“昔の味”が残り続けていた。




