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安宿(やすやど)  作者: ウィリアム輝夫
ノート 3
71/91

メソポタミアの黄金 1


 最初の夜、晴夫はやけに機嫌がよかった。仕事終わりだというのに足取りが軽く、まるで何かを隠している子どものように先を歩いていく。連れてこられた店は薄暗く、扉を開けた瞬間に空気が変わった。香辛料と油の匂い、その奥に乾いた土のような気配が混じっている。壁には見慣れない文字が並び、飾りというには妙に整いすぎていて、読めないはずなのに目が引っかかる。席に着くと、低い音の音楽が床から響くように流れていた。夏子はメニューをめくりながら、なぜか少しだけ懐かしい気分になっている自分に気づいた。来たことがあるはずはないのに、知っている気がする、その曖昧さが気持ち悪くもあり、同時に心地よくもあった。晴夫はやけに自信ありげにメニューを覗き込み、こちらの反応を楽しんでいるようだった。


「ここ、前から気になってたんだよ」

「急にどうしたの、こんな店」

「なんかさ、普通の店じゃない感じがいいだろ」

「普通じゃないって、ちょっと怖いんだけど」

「怖くないって、ほら、落ち着くだろ?」

「……落ち着く、のかな」

「だろ?こういうの好きだと思ってさ」

「好きっていうか、なんか変な感じ」

「変?」

「うん、知らないのに、知ってるみたいな」

「それ、いいじゃん」

「よくないよ、ちょっと不気味」

「不気味って言うなよ、せっかく連れてきたのに」

「ごめん、でもほんとにそう感じるの」

「じゃあ、食べたら変わるって、ここは料理がすごいらしいから」

「何頼むの?読めないんだけど」

「ラムと、あとこれ、煮込みっぽいやつ」

「適当じゃない?」

「いいんだよ、こういうのは直感」

「直感って……外したらどうするの」

「外さないよ、たぶん」

「たぶんって言ったよ今」

「まあまあ、任せてよ」

「はいはい」


 やがて料理が運ばれてくると、皿の上には見慣れない色と形が並び、湯気の中に濃い香りが立ち上った。ナンをちぎると指に油が絡み、思ったよりも重たい。夏子は一口食べて、思わず動きを止めた。舌に触れた瞬間、味が広がるというよりも、何かが“染み出してくる”ような感覚があった。香辛料の奥に、乾いた土、鉄のような苦味、そして言葉にできない古さがある。


「どう?」

「……変」

「またそれ?」

「違う、さっきの変とは違う」

「どう違うの」

「なんていうか……昔の味がする」

「昔って、どこの」

「わかんない、行ったことないのに」

「じゃあ想像じゃない?」

「違うと思う、なんか、思い出してる感じ」

「思い出すって、こんな味を?」

「うん……変でしょ」

「まあ、変だけど、面白いな」

「晴夫はなんとも思わないの」

「うまいな、くらいかな」

「それだけ?」

「それだけ」

「ほんとに?」

「ほんとにって何だよ」

「なんか、平気すぎない?」

「平気って」

「こういうの、普通もっと驚かない?」

「そんな大げさなもんでもないだろ」

「そうかな……」


 夏子はもう一口食べると、今度は少しだけはっきりと何かが浮かんだ気がした。それは景色でも記憶でもなく、ただの断片のようなもので、乾いた大地と、低い建物と、人のざわめきが一瞬だけ頭の奥に触れて消えた。


「ねえ、今、なんか見えた」

「見えた?」

「うん、一瞬だけ」

「どんな」

「街みたいな……でも知らない場所」

「それ、完全に想像だろ」

「そうかもしれないけど、でも勝手に出てきた感じ」

「へえ」


 晴夫はそこで少しだけ視線を逸らした。その仕草が妙に引っかかる。


「なに、その反応」

「いや、別に」

「別にじゃないでしょ」

「気にしすぎだって」

「ほんとに?」

「ほんとほんと」

「……まあいいけど」


 そのとき、店の奥で、何かが一瞬だけ鈍く光った気がした。金属のようでいて、光を弾かない、不思議な光だった。夏子は思わず目を向ける。


「今、見た?」

「何を」

「あそこ、奥」

「何もないけど」

「いや、光った」

「照明じゃないの」

「違う、もっと……変な光」

「気のせいだろ」

「気のせいかな」

「たぶんな」

「……ねえ、この店、本当に初めて?」

「初めてだよ」

「嘘じゃない?」

「なんで嘘つくんだよ」

「だって、なんか知ってるみたいに見える」

「そんなわけないだろ」

「……そっか」


 晴夫は笑ってナンを口に運ぶ。その笑い方が少しだけ固く見えたことに、夏子は気づいたが、何も言わなかった。料理の味はさらに濃くなり、口の中に残り続けるようになっていた。そして、その夜、店を出たあとも、夏子の舌にはずっと、あの“昔の味”が残り続けていた。

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