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大遅刻論

村越先生は黒板に「遅刻」と書いたあと、少し間を置いてから、ゆっくりと振り返った。


 「遅刻を単なる規則違反として扱うのは、やや粗雑だね。時間とは何か、という問いに触れずには、遅刻は理解できない」


 教室は静まり返る。先生はチョークを持ち直し、今度はその下に細く線を引いた。


 「たとえば、アンリ・ベルクソンは、時間を量としてではなく“持続”として考えた。時計の針で区切られる均質な時間ではなく、意識の中で流れる、質的に変化する時間だ」


 先生は黒板を軽く叩く。


 「この観点から言えば、遅刻とは外的時間への遅れではなく、自らの持続と他者の持続のズレだ。君がまだ“到着していない”のは、単に場所の問題ではない。時間の編み方が違っている」


 誰かが息を呑む音がした。


 「一方で、イマヌエル・カントは時間を認識の形式と考えた。つまり、我々が世界を経験するための枠組みだ。この立場では、遅刻とは、その枠組みに対する逸脱、あるいは枠の使い方の誤りと言える」


 先生は「遅刻」の文字を指でなぞる。その輪郭が、わずかに揺れたように見えた。


 「では、マルティン・ハイデッガーならどうか。彼にとって人間は“時間的存在”だ。未来へ投げ出され、過去を引き受けながら現在にいる。遅刻とは、単なる遅れではない。“本来性”からの逸脱、あるいは逆に、規則に従うことで失われる本来性の兆候かもしれない」


 教室の空気が、少しだけ重くなる。


 「つまりだね」


 村越先生はチョークを置いた。


 「遅刻とは、時計の問題ではない。君たちが、どの時間に属しているか、という問題だ」


 その瞬間、黒板の「遅刻」という文字が、ほんのわずかに立体を帯びた気がした 


 その立体は、ただの錯覚ではなかった。「遅刻」の二文字はゆっくりと厚みを持ち、影を落とし始める。教室の光源は変わっていないはずなのに、黒板の前だけがわずかに暗く、深くなっていく。


 「時間に遅れる、という言い方はね」


 村越先生は静かに続ける。


 「すでにどこかに“正しい時間”があると仮定している。しかし、その仮定自体が、ひとつの制度なんだ」


 誰かの椅子が軋む。いや、それは音ではなく、空間の歪みのようにも感じられる。


 「もし、その制度から外れたとき——それを遅刻と呼ぶのか、それとも別の到着と呼ぶのか」


「先生」


 その時、私は手を挙げた。


「はい。何?」

「バナナはおやつに入りますか」


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