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洋館


 彼女に手を引かれるまま歩いていくうちに、見慣れているはずの道の輪郭が次第に曖昧になり、いつ曲がったのか、どの角を通ったのかという記憶がすり抜けていき、気がつくと、街の端に取り残されたような場所に、一軒だけ、時間の流れから切り離された建物が立っていた。古びた洋館だった。外壁はくすんだ白をしているはずなのに、長年の湿気と風雨に晒されて灰色に沈み、ところどころに黒い染みが広がっている。その染みは単なる汚れというより、内部から滲み出してきた何かが固着したようにも見え、窓枠は歪み、ガラスはわずかに波打って、外の光を素直に通さず、どこかで屈折させている。庭は手入れがされておらず、枯れかけた草が中途半端に残り、地面は湿っているのに水の気配がなく、踏み込むたびに靴底に柔らかい抵抗が伝わってきた。


 門は錆びついて半開きのまま固定されており、彼女はそれを押し広げるでもなく、当然のようにその隙間を通り抜け、私も続いた。門を越えた瞬間、外の空気とわずかに違う匂いがした。古い木材と、長く閉ざされた空間特有の湿り気、それに混じって、言葉にできない甘さがかすかに漂っている。


 玄関の扉は重く、彼女が押すと鈍い音を立てて内側へ開いた。中は薄暗く、外からの光が細く差し込むだけで、空間全体がくぐもった色に沈んでいる。靴を脱ぐ場所も曖昧で、床板はところどころ軋み、歩くたびにわずかに沈む。壁紙は剥がれかけ、下地の模様が露出しているが、その模様が偶然のものとは思えないほど絡み合い、どこを見ても視線が引っかかる。


 「どうぞ」


 彼女は振り返り、あの微笑を浮かべたまま言った。その声は、この家の中では少しだけ吸い込まれるように弱くなっていた。


 中に入ると、誰の気配もなかった。家具はある。ソファも、テーブルも、本棚もある。だが、それらは使われているというより、長いあいだ置かれているだけのようで、生活の痕跡が希薄だった。埃は完全には積もっていないのに、触れられた形跡もない。時計は壁にかかっているが、針は動いていない。音がないのに、完全な静寂でもなく、家全体がかすかに呼吸しているような、低い気配だけが漂っている。


 「他の人は……?」と私は聞きかけたが、言葉は途中で途切れた。


 「いないよ」


 彼女はあっさりと答えた。「私だけ」


 その言い方には、寂しさも誇張もなく、ただ事実を述べているだけの平坦さがあった。


 彼女に案内されて通された部屋は、窓が一つだけあり、そのカーテンは閉じられているのに、どこからか柔らかい光が滲み込んでいた。テーブルを挟んで向かい合うように座ると、彼女はしばらく私の顔を見ていた。その視線は、教室でのそれよりも近く、逃げ場がなかった。


 「さっきの、びっくりした?」と彼女は言った。


 私はうまく答えられず、曖昧に頷いた。


 「でも、いいでしょ」と彼女は続けた。「ちゃんとできたし」


 “ちゃんと”という言葉が、何を指しているのか分からなかったが、否定することもできなかった。


 それから、なぜか自然な流れで、未来の話になった。誰が切り出したのかも曖昧なまま、もしこのまま時間が続いたら、どこに行くのか、何をするのか、どんな風に生きていくのか、そんな話を断片的に繋ぎ合わせていく。彼女は時折頷き、時折微笑みながら聞いていたが、自分のことを語るときになると、どこか言葉を選んでいるようでもあり、あるいは最初から決まっている台詞をなぞっているようにも見えた。


 「ずっと一緒にいられたらいいね」と彼女が言ったとき、その声は先ほどよりも少しだけ深く、この家の奥の方から響いてくるように感じられた。


 私は「うん」と答えたが、その言葉がどこまで自分のものなのか、少しだけ分からなくなっていた。


 彼女は、少し黙ったあと、ふっと息を吐いた。


 それから、あの微笑を保ったまま、ほんのわずかに首を傾げる。


 「でもね」と彼女は言った。


 その「でも」は、さっきまでの会話を切り離すように、妙にくっきりとしていた。


 「付き合うには、最後の試練があるの」


 部屋の空気が、ほんのわずかに重くなる。


 彼女はテーブルの上に置いた自分の手を、ゆっくりと裏返した。掌がこちらを向く。


 「難しくはないよ」と続ける声は優しいのに、その優しさがどこか均一で、揺らぎがない。


 「ちゃんとできれば、ずっと一緒」


 彼女の指先が、わずかに動いた。


 招くように。

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