蠱惑の門、そして――絶望の始まり
足先だけにとどまらず、全身の至る所で、何者かがよじ登って来る感触を覚える。剥き出しになった皮膚に、鋭い爪が食い込み、皮を引き延ばす。所々は裂けている様に感じた。
全身を這いまわる気配は、身体を埋め尽くした辺りで、行動を変え、その場で肉に噛みつき始める。鋭い顎が皮膚を裂き、肉を抉る感触に、苦痛と共に、背筋が震える。
お互いに重なり合う無数の何かが、好き放題に肉を噛みちぎり、蠢き続ける。声を出す事も出来ずにそれに耐え続けた。やがて、開いた傷口に取りつき、そこから体内へ侵入しようと試み始める。更なる苦痛と嫌悪とで気が狂いそうになっていた。
「やめ――やめろっ!」
思わず言葉を発してしまい、即座に後悔する。唇に噛みついていた者たちが、開いた口に入り込み始めたのだ。
「うごっ!」
喉へと侵入しようとする何かに、舌や顎を必死に動かして抵抗する。噛み千切った肉片が口内で踊り、腐った生ゴミの様な味が舌に広がる。息も絶え絶えになりながらそれを吐き出そうとするが、入り口に残った連中がそうさせてくれない。同じく噛みつかれたままの手を動かして、無理やり引きずり出すが、手から顔へ飛び移り、堂々巡りの様相を呈し始める。
息が苦しい! 口の中に広がった、悪臭をまき散らす肉片と体液が、喉へと流れそうになるのに咳き込んで抗う。意識は口内での惨劇に集中していて、他の部位には何も感じなくなっていた。
その不自然さに、思考が至った時、全ての気配は消え、またもや静寂が訪れていた。もう、何かが身体中を蠢く感触も残っていない。口元を腕で拭うが、不快な液体は消え失せていて、自らの唾液に濡れただけだった。
「今度こそ――終わったのか……?」
いや、終わってはいなかった。突然、閉じた瞳に明るい光が見え始め、次いでパチパチと何かが弾ける音が鳴る。
「熱っ!」
何だ!? これは――!
気が付けば、身体に火が燃え移ったかの様に、凄まじい熱気を感じ、皮膚が焼け爛れて行く痛みに悲鳴を上げた。
「うああああっ! もう、もうやめてくれっ!」
目の前はどんどん明るくなり、踊る様に、小さな粒が煌めく。その間も身体は焼かれ、人体のたんぱく質の焼けた不快な匂いが漂い始める。手足をばたつかせ火を消そうと試みるが、余計に火勢は増している様だった。
嘘だろぉ。こんな、こんな身体を焼かれる感覚なんて!
経験もした事のない苦痛に、気が狂いそうになる。本当に燃えているのかを確かめたくて目を開けそうになったが、それを指先で押さえて無理やり止める。やがて、全身が炎に包まれたのか、呼吸が出来なくなっていた。
息が出来ない!? 呼吸に必要な酸素が燃えてしまっているのか!
呼吸が出来ない苦しさに耐えながら、静かに、頭の片隅に冷静な思考が芽生える。
おかしい、こんなに息が出来ない程、全身が燃え続けているのに、まだ生きてる。その事実に行きついた時、突然、周囲は真っ暗になり、三度、静寂が訪れた。
だが、それもつかの間、激しい水音と共に、身体は水中に投げ出されていた。冷たい水が体温を急速に奪って行く。
今度は水!? 極端すぎて思考が追いつかないけど、リアリティは薄れて来ているぞ!
水中の暗い暗い、水底へ沈んで行く感覚は、肌を撫でる水圧から伝わって来る。口や鼻から漏れ出す空気の泡もまるで本当にあるかの様に、実体を帯びていた。衣服が水分を急速に吸い、肌に纏わりついて来る。その重く鬱陶しい触感が全身を包む。
閉じた瞳で、水面を探すが、上を向いても光らしきモノは感じず。下を向けば無限の闇が広がっていた。
しばらく沈んでいると、猛烈な水流を感じ、身体が旋回しながら後ろに流れて行く。気が付けば、暗い水の中でもより黒い、何か巨大な影が眼前を通り過ぎていた。
何だこいつ!? 魚!? サメか何かか!?
その影は、しばらく周囲を旋回した後に、より深く潜って行った様だった。そして、猛烈な勢いで、下から吸い込む力を感じた。巨大魚が大口を開いて、こちらを吸い込む姿を想像する。手足を振り回して、上昇しようとするが、吸い込む勢いの方が遥かに強く、全く抵抗できなかった。
まずい! 喰われる!
左右の視界の両側から何かが迫り、直後、腹部に鋭いモノが食い込む感覚と激痛が走る。それは、肋骨を貫き、肺やその他の臓器ににまで達している様だった。噛みついた何者かは、頭を振り、身体を引き裂こうとする。
「がぼっ!」
痛い! 身体がちぎれそうだ! でも――!
水中にいるはずなのに、全く息が苦しくならなかった、そして、沈み続けているはずなのに、内臓にダメージを受けた実感がなかった! 幻だ! 幻なんだ!
身体を引き裂こうとする、鋭い牙は一瞬で消え去り、水に包まれた感覚もなくなる。口を大きく開け、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「そういえば、耳に水が入った様子もないな……」
気付けば、身体は試練が始まった時と同じように、床に座り込んでいて、しばらく呆然としていると、声が聞こえた。
「カイト! でぇじょうぶか!? もう苦悶の門は終わったぜ!」
そして、分厚く重い扉が開く音が響き、暗かった眼前が炎の色で照らされた。
そこで、ゆっくりと目を開く。そこには、確かに師の姿が見えた。
「ははっ! よく耐えたな! 本当にてぇしたやつだ、お前は!」
落ち着いて来た所で、身体中に目をやるが、何処にも怪我の類は見当たらなかった。衣服も以前のままだ。噛み跡も、燃えた跡も、水に濡れた痕跡もない。
「本当に……、全部、幻覚だったのか……」
デルライラムが、俺の肩を叩き、健闘を称える。
「そうだぜ、幻だ! ……だが、背筋も凍る様な、恐ろしい幻さ。本当によく耐えたな!」
ここで、デルライラムは肩を落とし、視線を下に向けた。
「……試練を越えたばかりだが、まだ残り二つもある。……お前が今日はもうやりたくないと言うのなら、また日を改めてもいいし、休憩したいなら時間を空けてやるぜ? どうする?」
この時、また調子に乗っていたのかもしれない。
自分の身体をもう一度たしかめ、傷や汚れなどが全くないのを見て、ゆっくりと首を振る。
「続きをやります。……次の段階へ進んでください」
その言葉を受けて、目を丸くしていた。
「いいのか? ……命がかかった試練だ。精神的な疲労も半端じゃねぇだろう。次は、第三の門。更なる危険がお前に襲いかかる。本当に今やるのか?」
少し躊躇したが、ゆっくりと頷いた。
「分かった。……準備するぜ」
そして、また指輪から宝石がひとつ取り外され、残りはひとつとなる。
「第三の門。その名は『蠱惑の門』。苦悶の門と同じく、お前に苦痛を与える何かが現れるだろう。……だが、今回はそれだけじゃねぇ。気を付けろ。お前の知っている誰かに化けた何者かの声が聞こえる。そいつぁ、お前を惑わし、目を開けさせ様とするだろうが、ルールは変わらねぇ。絶対に目を開けるなよ?」
知っている人に化けた声が聞こえる!? それに安心して、目を開けてしまったらゲームオーバーって事か。
またイムイトの牙が、取り出され、もう一度、意志を確認される。
「本当にいいんだな? やるぜ?」
頷きを返した、少しあとに、若干の躊躇を感じる動きで、牙が突き立てられた。目を閉じ、激痛に悶える中で、祈る様な言葉が聞こえた。
「……死ぬんじゃねぇぞ。いや、絶対に生き延びろよ!」
そうして、また扉が軋む音が鳴り、暗闇と静寂がその場を包んだ、はずだった。
「え?」
突如として、目を覆いたくなる様な、明るい光に満たされ、周囲の空間が暗い部屋だった事も忘れてしまう。そこで、聞き慣れた声が鼓膜を揺らすと共に、目の前を何かが覆った。
「だぁれだっ?」
これは、アイシャの声!? はは、こんな所にアイシャがいる訳がない。幻にしてももう少し工夫しろよ。
「ねぇ。カイト。答えてくれないの?」
今朝がた経験したばかりの出来事だな。新鮮味は薄い、記憶の中から選んで再生されているのか?
だが、幻のアイシャはただ話かけて来るだけではなく、目に指をかけ無理やり開けようとしてきた。
「な!?」
それに必死に抵抗しながら、思わず声を上げてしまうと、嬉しそうに言葉が続く。
「ねね? 私、今、裸なんだよぉ? ね、少年? お姉さんの、生まれたままの姿、見たくなぁい?」
誘惑する様な言葉が紡がれ、そして、後ろから抱きしめて来る。首筋に柔らかな膨らみが当たったのを感じ、欲望がむくむくと膨れだして行く。
馬鹿ヤロウ、こ、こここ、こんな幻が裸だったらなんだって言うんだ!? み、見たく何てないぞ! それに、今のアイシャは、俺の事を少年とか呼ばない! リサーチ不足だ! 出直して来い!
声を荒げて拒否するが、それが良くなかったのか、雲行きが怪しくなって来る。
「お前の裸になんて興味ないぜ!」
胸に回されていた手に力が入り、きつく締め付けて来た。
「ふぅん。目を開けてくれないだけじゃなくて、そんな事いっちゃうんだ?」
「酷いよ」
「そんな酷い事いうカイトなんて」
「地獄に落ちちゃえ!」
言うものか! アイシャは絶対にそんな事は言わない!
「消えろ! 偽物め!」
その言葉と共に、周囲は真っ暗になり、いつの間にか横になっていて、手足が拘束されているのを感じた。
「何だ!? 両手も両脚も動かない!?」
その暗闇の中で、不気味な足音が聞こえ始める。石の床をゆっくりと踏みしめる一歩と、それに続く床を擦り、引きずる音。そして、高い金属音と暗闇の中に散る光の粒。
それは、片足の不自由な何者かが、金属で出来た物体を引きずる音の様だった。
その音は徐々に近づいて来て、床を引きずられる金属の摩擦音が響き渡る。
何だ……? 一体、何を引きずって!?
音は、近くまで来たところで、聞こえなくなり、しばらくの沈黙の後、かすかに空気が動いた気がした。
そして――!
左足に、感じた事もない強烈な痛みを覚える。
「がああああッ!」
足の中ほどに触れる冷たい何か、噴き出す血がせき止められ自らの身体に降りかかる熱さ。稲妻の様に何度も激しく閃き、脳天を衝く痛みが背筋を駆け上る。鼓動は、急激に早まり、耐え難い苦痛に身じろぎする事も出来ず、悲鳴をあげ続ける。
「ああああ! うああああッ!」
強く噛みしめた歯が口内を傷つけ、血の混じった唾液が零れだす。苦痛でしわくちゃになった顔を涙と鼻水が伝って行く。
「ああ――!」
足が、足がぁ! 耐え難い苦痛に、意識が混濁する中で、冷静なもう一つの思考が、ゆっくりと、目を開けば、今すぐ助かると、悪魔の言葉を囁いて来る。
幻覚は――! 目を開けば、消えるはず――!
あまりにも強烈な痛みに、目を開きたいという、抗いがたい衝動が沸き起こる。
ここで、開けば、全て終わり――だけど、救われる!
意識が飛びそうになる中で、自分が邪神に祈り始めているのに気付いた。
そうか、これが、あの神の力なのか――。
「……耐え、なきゃ……」
そう呟いた時、足の冷たい感触に動きがあり、また足音が、あの摩擦音が響く!
それは、頭の近くまで来て、止まった。
そして、首筋に冷たい何かが当てられる。
「ひっ!」
あまりの恐怖にひきつった声を上げる。
冷たく重い何かが、ゆっくりと首から離れ、振り上げられた様だった。それが、振り下ろされようとしているのか――。
「やめろッ! やめてくれぇ!」
そこで、部屋の空気が唐突に変わり、聞き慣れた声が響く。
「カイト!? でぇじょうぶか!? もう、蠱惑の門は終わったぜ!」
し、師匠――!
もたらされた救いに縋りつく一心で、思わず目を開けていた。
だが、そこに、デルライラムの姿は見えず、静寂と暗闇が部屋を閉ざしていた。
身体を見ても、また傷ひとつなかった。いや、先ほどの痛み自体が、忽然と消え失せていた。
「しまっ――!」
自分の失敗に気付き、自然と漏れ出た言葉を言い終える前に、不気味な声が重なる。
「ケヒヒヒッ! ケヒヒヒヒッ!! 遂に、目を開けたなぁ。開けた! 開けた!」
「ケヒヒヒッ! 数百年ぶりの生きた供物じゃ! 魂の一片までしゃぶり尽くしてくれよう!」
供物だと!? これが、毒の神の声なのか!?
呆然とその笑い声を聞いていると、部屋の様相が変じ、床にめりこむ様に穴が開き始め、身体がそこへ吸い込まれて行く。
「うわあああ!」
完全に、頭まで埋まり、真っ暗で底の見えない穴を見下ろす。
その時、必死に上部に伸ばした手を誰かが握った!
その力強く、温かい感触に、言葉が続く。
「全く、見ておれぬ! 一日に二度も死にかける者なぞ、前代未聞じゃぞ!」
ジジ!? ジジなのか!?
「決して儂の手を離すなよ! 今より彼の神の開く、戦術陣に引き込まれるぞ! おんし一人で入れば、どうあがいても勝ち目はない!」
強く握られた手は離れる事はなく、ふたつの影が、暗い穴の奥底へと落ちて行った――。
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