大精霊域の好々爺
デルライラムの家の庭先で、少年と老人は話し込んでいた。これから向かう場所の危険性について、その場所へ何故、行かなければならないのか。その、理由を知るために――。
「お前が向かう場所、大精霊域ってのは、一言で表しゃぁ、危険地帯だ。命を失う可能性も低くねぇ」
アイシャから聞いていた話だと、精霊は便利な道具みたいなイメージしかなかったせいか、その言葉に疑問が生まれる。
「どういう事ですか? 精霊って誰かにマナを与えられて具現化するしもべの様な存在なんじゃ……?」
老人は頷きながら、認識を改める言葉を並べて行く。
「精霊魔法で使役される奴ぁ、そうだ。だがな、精霊にも野生とでも呼ぶのか。自然発生的にマナを持ち、暴れ回る個体が出たりすんのさ。昔、森の外で目にした事があるが、特定の属性の力を持ち、実体化して周囲のあらゆるモノを敵視する、そんな破壊の権化みたいなモンでな。あれには肝を冷やしたぜ。そん時ぁ、何とか難を逃れたがな……」
老人ははるか遠くの記憶を甦らせる様に、宙を見つめた。
そんなに危険な存在なのか? 大精霊域にもそんな奴が?
「おっと、話が横道に逸れたな。まあ、大精霊域にいる奴らはまた別よ。危険なのにかわりはねぇがな」
ここでデルライラムは眉間の皺を更に深くし、真剣な面持ちに変わる。
「大精霊域、あそこにいる奴らはな……。実体化こそしてねぇが、おぼろげにでも自我を持ってんのよ。それの何が危険なのかって思うだろう? ありゃ――、ヒトにとって、天敵とも呼べる存在よ。肉体を持たない奴らは俺たちに満ちる生命力に焦がれ、奪い取ろうとして来る。こいつの意味が分かるか?」
単純に考えれば、生命力を吸われて命を落とすと言う事か?
「奴らはな。肉体に憑依して、命そのものを枯らすのよ。憑かれちまった奴は身体の自由も効かず、奴らの傀儡になっちまう。そうなりゃ終わりよ。なんせ、死ぬまでそのままだからな……」
まるで悪霊みたいだな。精霊と言うと神聖なイメージがあるが……。
「だがな、憑かれて生還した奴も数える程だがいんのさ。実際に目にした者、文献に記された者、そこの違いはあるが――。そいつらは皆、魔法使いとしての能力が格段に向上していた。何故かって? もう気付いてるんじゃねぇか?」
自身の霊体の不都合な事実と照らし合わせて考える。力が強くなるには幾つもの手段があるのだろうが、持っているエネルギーの総量や質が変わらないのなら、それを伝える効率が問題になる……?
まさか――!?
「導管が――強化されたって事ですか?」
老人は力強く頷いた。
「そうだ。生き残った連中の霊体を詳しく調べたら、皆、憑かれる以前よりも導管が太く、もしくはより細部に至るまで精緻に伸び、マナをより効率よく伝えられる様になっていた。もう、分かるな? お前には、導管が通ってねぇが、精霊に憑かれれば、開通する可能性が高ぇのよ。非常に危険な方法だがな……」
想像して身震いする。憑かれると命を吸い尽くされてしまうのに、それをしないと魔法は使えない? どうすれば生還できるのだろうか?
「生還方か……。そいつぁな。俺にも分からねぇ……。憑かれた連中の証言じゃ、五感も奪われた状態で、無我夢中で頭ん中で喚き続けていたら突然、五感が戻って生き残ったとかで、要領を得ねぇ記録しか残ってねぇのさ」
老人は目を閉じ、心を鎮める様に、長い息を吐いた。そして再び目が開かれる。
「知り合ったばかりとは言え、お前みてぇな、若ぇ奴を、そんな場所に送ろうってんだ。こっちも正気じゃいらんねえわな……。だからよぉ。俺からはこれ以上は何も言わねぇ。こっからはお前が自分の意思で決めるんだ」
心を落ち着ける様に、深く息を吸い、両目を閉じる。
瞼の裏の闇の中には、鮮やかに様々なイメージが現れては消えて行った。
危険な力の幻影、そして死地からの生還。
移り変わる光景の中で、一つだけ確かで変わる事のないモノがあった。
それは――。
「俺は――大精霊域へ行きます……。幾つも約束をしてしまったし、果たせないと情けないですよね……。ははっ」
初対面の老人に彼女への想いを告白した気がして、照れくさくなり頭をかく。
「何よりも俺は――彼女を守れる力が欲しい。そのためにならどんな困難にも立ち向かい、必ず打ち勝ってみせます」
デルライラムは驚いた様子で目を丸くする。その両手は微かに震えていた。
「そうか、ただのしょんべん臭ぇ、小僧かと思っていたが、いっぱしに男やってやがんな……。行く前に、お前にこいつを渡しておこう」
老人はおもむろに胸元へと手をやり、小さな純白の丸い石がついた首飾りを取り出した。それをこちらに差し出し、それの効力と使うべき場面について語る。
「いいな? なくすんじゃねぇぞ?」
そして老人はこちらに背を向け、片手を上げて見せる。
「さあ、行きな。決意の揺らがねぇ内に……。もう、決まってんだろ?」
肺に一杯に空気を吸い込み、曇りのない、明朗な声で答える。
「はいっ! 行ってきます! ……帰ってきたら、デルライラムさんの事を、師匠と呼ばせてくださいねっ!」
振り向いて駆け出した背中に声がかかる。
「バカ野郎。そういうのは無事けえってから言え」
心の中で師と決めたその人の答えは、どこかくすぐったそうで、面映ゆさを感じさせる、そんな声音だった――。
※ ※ ※
目の前の要石に向き合いながら、幻廊の真珠を握りしめた。
その瞬間――。
周囲の風景が揺らぎ、白と灰の世界へ移り変わって行く。目の前の岩石も森の木々も空も色を失ったモノクロームの世界に存在し、半透明になっていた。
自分の身体も灰色で薄く透けていた。それに、体重をまったく感じなかった。その不気味さに身震いする。
「これが――精霊界なのか? とにかく、要石に触れてみないと、本当に通り抜けられるのか?」
少しずつ手を伸ばす、すると――。
「うわ! ゆ、指先が抵抗もなく埋まった!」
確かめる様に、腕を振りまわしてみるが、何の抵抗もなく要石をすり抜けた。
「これなら確かに通り抜けられそうだ。行くぞ――」
覚悟を決めて、歩みを進める。
身体は吸い込まれるように、要石へ埋まって行き、視界が呑まれても、向こう側が透けていて、変わらない光景を映す。
僅かな時間で、要石を通り抜けていた。
向こう側に出ても、森は全く変わらない気がしたが、そこで握りしめていた、手を開く。
一瞬で、世界には色が戻って行き、自分の身体の重さを感じた。
「ふぅ。何というか……。あまり経験したくない感覚ではあるな。……さあ! 本当の危険地帯に入ったんだ。気を引き締めないと!」
数歩も進まない内に、何かが視界で揺らめいた気がして、その空間を凝視する。
何だあれは――?
何もない様に見える空間に、目を凝らしてみると、何か半透明なモノが幾つも宙を飛び交っている姿が見えた。
「あれが――? 精霊なのか……?」
その声に反応したのか、半透明のそれは俺の周りに群がる様に、集まって来た。
地面ふきんまで降りて来たそれが、不気味な声を発する。
「立チ去レ、ニンゲンヨ……」
片言の発音が不明瞭な言葉が続くが、それは明確な敵意を示している様だった。
「ココハ、巫女ト、ソノ経験者、候補者ノミニ開カレ、ソノ他ノ全テヲ拒ム地……。オ前ノ様ナ者ガ居テ良イ場所デハナイ」
どう考えても、歓迎はされていなかった。いきなり囲まれているのは好機と言えるのか、それとも――。
「約定ヲ違エルカ……?」
その言葉を最後に、精霊たちの雰囲気が変わり、禍々しく燃え盛る炎の様な姿を取る。
「去ラヌノナラバ……。喰ロウテクレヨウゾ! ソノ魂ニ至ルマデ! 一片ノ塵モ残サズ!」
来るか!? これに耐えられなければ、俺は――!
「クアアア!」
一番てまえに居た精霊が、一直線に突っ込んで来て、とぐろを巻く蛇の様に、身体に絡みついた!
「くっ!?」
実体はないと言われていたが、締め付けられた部位に痛みを感じた。もう生命力を吸われているのか!?
「く、くそ! 痛みで、全く動けない……!」
不思議な事に、痛みは感じても、物理的な抵抗はなかった。それでも、苦痛が身体を締め上げ、身じろぎ一つ出来ない。
それだけではなく、痛みは徐々に、身体の内側に浸透していき。内臓を直接しめあげる様だった。
「ぐああっ!?」
激痛で悶え、意識が混濁し始める。
そこへ巻き付いていた精霊が、自身の頭部と思しき場所を俺の頭に重ねる様に近づけた。
「あ、あがっ」
脳を直接いじられる様な不快感に吐き気がこみ上げて来る。
不味い!? これは、想像していた、以上――!
「うあああ」
だらしなく開かれた口からは、涎が垂れ下がって糸を引く、目は裏返り、白目を剥き、身体は激しく痙攣し始める。
「待テ、ソヤツノ魂ハ真ニ美味ト見エル、貴様ノミニ与エハセヌゾ……!」
控えていた精霊たちも狂乱した様に、一気に襲い掛かって来た。
群がる幾つもの影が身体を乱暴に通り抜けて行き、そのたびに激痛が走り、飛びかけていた意識を無理やり覚醒させる!
ダメだ……。こんな状態じゃ、もう、数秒も持たない……!
その時――。
その場に居た全ての精霊たちを叱りつける様な明瞭な声が響いた。
「止めぬか! たった一人に大勢で群がるとは、恥を知れっ!」
何だ……? 一体だれが?
その声の効果は一瞬で理解できた。いや、させられた。
俺に群がっていた影は瞬く間に全て離れて行き、周囲の空間を漂っていた。
「がはっ! はぁ、はぁ。た、助かったのか……?」
息もまともに出来なくなっていたが、呼吸は戻り、意識も徐々に回復していた。
口元を拭い、先ほどの声の主を探す。
だが、周囲を見回しても、それらしき影は見当たらない。
「ここじゃよ、ここ。ほれっ。この姿が見えぬのか?」
その声を頼りに、見やった空間には、他の精霊たちより一段と濃い色の不気味な影が漂っていた。こ……いつ。精霊、なのか? 他の奴らと比べると、透明度が低くて、向こう側がほとんど見えない。
「驚いておる様じゃな? しっかし、生身の人間が斯様な場を訪れるとは、まっこと無茶をしよる」
目の前の影は揺らめき、笑っている様だった。
「向こう見ずな者は嫌いではないがの、もうちと考えを巡らせねば長くは生きられぬぞ?」
再び呆然とする俺に、一方的な言葉が浴びせられる。
「のう? もう少しで命を落とす所だったではないか。ん? 聞いておるのかの?」
答えを返せずに居たら、機嫌を損ねたのか、態度が変わる。
「ふぅむ? おんし、言葉が不自由なのか? それとも、儂と話す事などない、か……?」
おんし……?
「呆けよって。……せっかく助けてやったというに、昨今の若人は礼儀を知らぬと見える。ちとお灸を据えてやらねばならぬようじゃな?」
そして、目の前の影も先ほどの精霊たちの様な禍々しい姿に変貌する。
「くふふ。この姿を恐れておるのかの? なぁに、痛いのは、初めだけじゃ、すぐに慣れる。そうすれば、心地よく感じるぞ……?」
精霊たちに弄ばれた後遺症なのか、先ほどから動けずに、ただ聞き流す事しか出来なかった。
「まさに、夢心地と呼んで差し支えなかろうよ……!」
影は無防備な俺の身体を貫いていた。ヒトの姿に変じたそれが、パズルのピースが嵌る様に、身体に覆いかぶさって来る。
ただ、呆然とそれを受け入れる事しか出来なかった。
「歯ごたえがないのぉ。抵抗の一つでもしてみせい。……先ほどのあやつらの行いが、いき過ぎておったか? じゃが――」
冷酷な言葉が続く。いや、声は既に、耳から聞こえるのではなく、頭の中に直接ひびいている様だった。
「おんしの魂は非常に美味と見える。あやつらが乱れ狂うわけじゃ。くふふ、儂らにはもとより理性などひとかけらも残っておらぬがの。儂もそろそろ我慢がならぬ。ちとつまみ食いとしゃれこもうかのぉ……?」
呆然と聞き流すだけだったが、その言葉には少しだけ違和感があった。
理性……?
そこで、シャットアウトされた様に、突然、五感の全てが失われ、暗闇の中に投げ出され、浮遊していた。
「一口だけ、一口だけじゃ。その美味なる魂を儂に味わわせておくれ」
暗闇の中に声が響き、不思議な事に意識が明確になってくる。
「な、何だ!? 何をするつもりだ!? 俺の身体から出て行ってくれ!」
不思議そうな声がこだまする。
「何じゃ、先ほどまでとは打って変わって、歯に衣着せぬ物言いをしよる。儂の接吻にたけり、目覚めてしもうたのかの? くふふっ」
頭の中に響く言葉には全く遠慮がなかった。
「しかしのぉ。味わうのはこれからじゃ。あまりの快楽に達してしまうかも知れぬぞ? おんしもおのこなら、それに魅力を感じぬとは言わせぬぞ?」
訳が分からない。だが、ここでこの場へ来た目的を思い出した。
この状態――、憑依されているのか?
なら、俺の霊体に導管が――?
分からない、だが――。
ここで、何かを見つけたのか、頭の中に響く声の調子が変わる。
「うん? おんし、ここ。心の臓のあたり、何やら厄介な呪いを受けておる様じゃな?」
響き渡る声の問いに導かれ、自分の身体に対する疑問が閃光の様に爆ぜた――。




