冷月
考えていても刻限が近づくだけだ。おもむろに手を伸ばし彼女からパジャマを受け取る。そして、やる事はひとつ。ここは思い切って――!
だが、その考えは既に読まれていた。彼女は素早い動きで寝室のドアへと向かい再び魔法を掛けてしまった!
「ふふぅん。カイトったら今、パジャマを持って向こうの部屋に逃げるつもりだったでしょ? そうは行かないんだからぁ」
んなぁ!? な、何でこの部屋での着替えにそんなに拘るんだ!? 男の着替えなんて見て楽しいのか? そ、それに俺の裸なら治療する時に見たはずだ。彼女は一体、何を考えて――。
「ふふぅん。ほんとは着替えを私が手伝ってあげようと思ってたのに、カイトったらつれないんだからぁ」
そんな事されたら心臓が爆発するだろ!?
「だって、脱いだ服を床に散らかしちゃうのも嫌でしょ? 私に渡すのが自然だと思わない?」
それならベッドの端を借りれば一人でも出来るはずだ! そう主張する。
「それは、そうかも知れないけど……。もうっ! カイトはなぁんにも分かってないよっ!」
彼女は頬を膨らませて部屋の隅を向いてしまった。
だが、すぐに声の調子が切り替わり言葉を続ける。
「あ、そうだ。明日、川に行って洗濯と食器洗いを済ませて来るつもりだけど、カイトも昼間に汗だくになってたから、今きてる服も洗った方がいいよねぇ?」
そう言ってこちらを振り向く。
あぶねぇ!? 着替え始める所だった。油断も隙もないな。
「ふふっ。そんなに警戒しなくてもこの部屋には二人きりだよぉ?」
何か釈然としないな。彼女を疑っている訳じゃないが、今日いちにち見て来た彼女は俺に対してこんな態度を取っていただろうか? 妙に好意的というか……。
「ふふっ。私、今はとっても気分がいいんだよっ。……だって昨日は死にかけてた人がこんなに元気になって。それにね。人とこんなに話たり一緒にご飯を食べたりしたのもすっごく久しぶりなんだよ?」
「ずっと独りだったから」小さく続けられた言葉は聞き取る事が出来なかった。
「だからぁ、これから待ってる初イベントもすっごく! 楽しみでもう待ちきれないんだっ!」
んん!? 黙って聞いてたけど、最後に何か不穏な言葉があった様な……? そうだ! 初イベントって何だ!?
「少年とは言ってもね。男の人と一緒に寝るのなんて百八年も生きて来て初めてなんだよぉ? 何だか心が高揚してくるの」
そう言った彼女の顔はランタンの光に照らされてとても艶っぽく映った。
その言葉で余計に意識してしまい、顔がのぼせた様に熱くなってくる。か、彼女の初体験を奪ってしまうのか!?
どどど、どうする!? パジャマを持つ指が震え出す。やばいな。今ので一気に意識が変わってしまった。恥ずかしい所じゃなくなって来たぞ。
俺は明日、無事に朝を迎えられるのだろうか?
「はい、お話はおしまいっ。またあっちを向いてるから早く着替えてね。もうベッドの端を着替え置き場に使ってもいいからっ」
出来るだけ音を立てない様に、震える指先を動かしていく。視線が彼女の後姿へと引き寄せられ、緩やかな衣服で隠された女体のおうとつが形成するラインを自然と探してしまう。目を逸らし必死に見ない様に堪えるのが精一杯だ。
着替えながら見てたらまた邪な想念が呼び起こされるに違いない! 触らぬ神に祟りなし。
しばらくして何とか無事に着替えを終えた。途中で匂いを嗅いでみたが、やはり木の匂いと言うか、タンスの匂いがするな。
準備は出来た事を彼女に伝える。
「もういいの? なんだかすっごく時間がかかってなかった……? 音もあんまりしなかったし……」
息を殺して必死に着替えてた何て言えないな。
「さっきの話だけど。カイトの服を洗ってる間に私のパジャマをずっと着ててもいいよ? どうせこの辺りに他に人なんていないしね」
んん? 明日は明日で外を歩いてみたいからパジャマで待ってるのもなぁ。ここは丁重にお断りするか。
「いいけど、明日になって服が臭くて着られないとか言わないでねっ」
ここでアイシャは怪しげな視線をこちらに送って来て、両手を招き猫の様に構えてポーズを取る。
「ふふふ。パジャマ、お揃いだねっ」
もう、そういう意識する様な事ばっかり言うんだから……。
「じゃあ寝よっか」
ここでひとつはっきりさせとかないといけないな。そう、それは――!
「お、俺は! ベッドで一緒には寝られない!」
アイシャは驚きの顔に変わり、その後、こちらを咎める様な表情になる。
「むぅ。今更なに言ってるの!? じゃあ何処で寝るつもりなのかなぁ?」
床を指さし、ここに毛布でも敷いてくれればそこで寝ると宣言する。
「ダメだよっ! そんな寝方じゃちゃんと疲れが取れないもんっ!」
いや、ベッドで一緒じゃ一睡も出来なくて回復どころじゃなくなるだろ!?
ここは譲れない……! 男としては一緒に寝たい気持ちはある! だが、それは自制心がなさすぎる!
「はあ。仕方ないなぁ……。素直になればいいのに、変なとこで意地っ張りなんだから、カイトは」
折れてくれたのか? ふう、ようやく安心して眠れそ――。
その時、彼女の指先が蝶の様に、宙を揺らめき光る鱗粉を散らす。
何だ? 何が起――。
のわあああ!?
突然、強烈な力で引っ張られた様に、ベッドへ顔面からダイブしていた。体重を受け止めた構造が激しく軋む音が響く。ど、どうなって!?
「もう、カイトが意地っ張りだから、ちょおっと乱暴な方法を取っちゃったよ。えへへ」
魔法なのか!? うぐぐぐ、身体がベッドに沈み込んでいく。う、動けない。
「ふふぅん。風と土の精霊に頼んでベッドに運んでもらったんだぁ。ふふっ。これで一緒に寝られるね?」
潰れそうなんだけど……? うぐ! は、鼻と口が塞がれて息が……! このままベッドに埋まってそこが俺の墓になるのか?
「ああ、ゴメンね? もう魔法は解いたから動けるはずだよっ」
両手を突っ張って一気に身体を起こし、彼女に疑問の視線を送る。
アイシャは困った様に、両手を振ってみせた。
「もう、そんな顔しないの。女の子の方から一緒に寝ようって誘ってるのに、いつまでも承諾しないからだよっ」
俺が悪い事になるのか?
「ね、カイト? 信じてるからね?」
彼女はランタンの明かりを消し、ベッドへ腰かけた。
月明り程度の闇の中で鼓動が少しずつ踊り出すのを感じる。
アイシャの白い肌と金の髪は薄明りの中でも輝いている様に見えた。
「ふふっ。暗くなっちゃったから良く見えないかもしれないけどぉ。これが何か分かるかなぁ?」
彼女の細い指先には何かの葉っぱらしき物がつままれていた。
何だ? 何かの薬草……?
アイシャはそれを風に乗せる様に、左右に振ってみせた。微かに嗅いだことのない匂いが漂う。
「これはねぇ。トパス草って言ってね。これを口に含んで噛んでると手指の震えが止まって弓で狙う時の正確性が増すんだよっ」
へえ。そんな草があるのか。ペンタゼミンみたいな? 彼女もハンターなら常用してるのかもな?
「ハンターのおやつ。なんて言われてる薬草なんだけどぉ。ちょっぴり甘くて不思議な味がして、口の中がさわやかな清涼感に包まれるんだ。まあ効能は一種のお薬みたいなものだね。でもぉ、服用しすぎると中毒症状が起きて一日中めまいが続いたりするんだよぉ。」
ふむ。薬に副作用はつきものか。
「ふふぅん。これをねぇ。カイトが裏切った時はぁ、水と草木の精霊の力で絞ってエキスをいっぱい注入しちゃうよっ! 直接、血管にねっ」
んなあ!? な、何いって……!?
「カイトはぁ。私と一緒に寝ても絶対えっちな事なんてしないってぇ。信じてるからね? じゃあおやすみぃ」
「ふわぁ」小さなあくびの音が聞こえたと思ったら彼女は遠慮なく俺の隣に横になり、既に寝息を立て始めていた。それにつられて倒れ込む。
うおおおおおお!? 全然しんじてねぇ!? 信じてないよねそれぇ!? お、俺は――中毒患者にされてしまうのかぁぁぁ!?
いや! 諦めるのはまだ早い! 鉄の意志を持ってこの難局を乗り切れば……!
「うぅん。カイトのバカァ。えっちぃ」
寝たばかりでもう寝言か!? しかもまた罵倒されてるし……!?
すぐ隣から顔や首筋に息を吹きかけられる。
前言撤回だ……! こ、こんな状況にいつまでも耐えられる訳がない……! うおれの理性よ! 今こそ、その真の力を見せてくれぇぇぇ!
息を! とりあえず息を避けるんだ! 少し下にずれれば当たらないはず……!
音を立てない様に、必死に身体をくねらせベッドの下部へとずれて行く。が、そこには新たな罠が待ち受けていた。
しまったぁ!? ここだと『豊かな実り』が目の前に見えるじゃねぇか!?
彼女が横向きに寝ているためこちらに突き出された実りは鼻先を掠めそうな位置にあった。
ふごぉ!? た、谷間の匂いを嗅ぎてぇぇぇ!? 両側から手で押さえて間に鼻を突っ込みてぇぇぇ!? 悶々としながら目の前の闇のわずかな濃淡の違いを見つめる。ごくり。あ、あそこは色が一段と濃くなって筋の様な闇が出来ているな、恐らく、谷間だ……。朝に経験した感触を思い出す。あ、あれをもう一度、体験できるのなら――命など!
吸い寄せられる様に手をのば――くあああっ! し、鎮まれ俺の右手よ! 動きそうになった右の手首を左手で必死に押さえ制止する。冷静になれッ!! これには命が懸かっているんだぞ!?
生きてさえいれば、いつかまた経験できるかもしれない! その機会を待つのが賢明な判断だと思わないか!?
心を落ち着ける様に深呼吸をしてみるが、鼓動は一向に鎮まる気配はなかった。それと共にとめどない欲望が溢れて来る。
彼女が寝息で動くたびに目の前の山脈も豊かに揺らめき、その艶やかな振動が自身の下腹部を直接、愛撫している様な錯覚を覚えてしまう。意識はその先端を自然と探し出そうとしていた。
くそぉ! ダメだ! 煩悩がまったく払えない! このままでは……!
もう俺は赤ちゃんになる! ばぶっばぶぅ! そうすれば吸いついても誰も文句は言わないはずだ! だ、だが。ノーブラのはずなんだが、先端が中々みつからないぞ……! 砂漠で砂金を探す様な難度だな! 的確に先端に吸いつかなければ、見当はずれの場所に噛みついてしまっては別のプレイになってしまう! ぎょ、凝視するのだ。俺の鑑定眼は暗闇においても遺憾なくその性能を発揮するのだと! 今ここに、証明してみせるッ!!
だが、その時、冷静になれとばかりにある感覚が持ち上がるのだった。
うぐぅ!? は、腹がいてぇ!?
腹部に何本も釘を打ちつけられているかの様に、脈動と共に痛みが波の如く打ち寄せる。
食中毒か!? 思えば朝には異様なモノを食べさせられたしな……。腹を壊していてもおかしく――はっ!? や、やつの祟りかぁぁぁ!? 怨念こもった目をしてやがったもんな……。く、くくく。あの時は、俺の勝ちだと思っていたが、よもやこんな逆襲が待っているとは誰が予想できようか……! ベッドの上で腹を押さえながらくの字に折れる。先ほどの欲望など痛みに全て押し流されていた。は、ははは。こんな状態でも『豊かな実り』の事を考えられたなら、俺も本物になれるのかもしれないが……。無念だが、今の俺には……!
くそぉ! どんどん痛みが強くなるし、べ、便意が!
この家にはトイレの様な場所はなかったな。いや、そもそも近代的なトイレがあるはずはないのだが。隣で安らかな寝息を立てる彼女を見る。……いつも用を足すのは何処を使っているんだ?
いや、美少女はトイレなんていかない!? それか、エルフ自体がトイレに行かないとか!? 何せ美形種族だもんな!
緩慢とした動作で部屋のドアの方角へと転がり見やる。
良かった。さっき魔法で施錠されてたけど、解除されてたみたいだ。
もう外へ出てするしかないな。
音を立てない様に、細心の注意を払いながら起き上がり、床へ立とうとしたその瞬間――。
「うぅん。カイトォ。えっちぃ、行かないでぇ」
最後の言葉に背筋に電流が走る。夢でも、みているのだろうか……?
「大丈夫だよ。俺は何処にも行かない。ちょっと外に用があるだけさ。すぐ帰ってくる」
優しく語りかけ彼女の手を握った。それを眠りながら自然と握り返してくる。柔らかな感触と共に心の中が穏やかな感情で満たされていく。
さあ、そろそろ限界みたいだし早く外に出ないとな……。だが――握り返してきた手が! 離してくれない! な、何故はなさない!? もう安心しただろ!?
うおおおお!? も、もう限界だ! このままでは別の意味で赤ちゃんになってしまうぅぅぅ!? 良いシーンが台無しじゃねぇかぁぁぁ!?
「す、すまない! だが、ここは譲れないんだ!」
力を込めて手を引き抜いた。
幸い彼女は目を覚まさなかった様だ。
すぐさま立ち上がり裸足なのも関係なしにドアへと急ぎ開け放つ。もちろん出来るだけ音は立てない様に注意してだが。
「はっ! もうやばい、やばい。次は玄関を――」
玄関のドアを開けた瞬間、夜空に浮かぶ双子の月を直視してしまった。その姿は日が沈んだ頃に見た、美しいモノではなく、ひどく禍々しく感じられた。まるで空から何かが流れ込んでくる様に。
「うぐっ」
何だ!? 今、心臓を鷲掴みにされた様な不快感が……!? く、くそ、時間がないってのに動けない……! どうなって――。
掛けられた停止の魔法が解けたかの様に、一瞬あとにはいつも通りの身体に戻っていた。
「な、何だったんだ? 今のは……」
思考をする暇もなくまた便意が襲い掛かって来た。
「やばいやばい。どこで――」
辺りは暗く、何処に何があるのか把握しづらい。家の壁沿いに移動した方がいいだろうか?
「そうだ! あの菜園はすぐ隣だったはず、あそこですれば最悪、野菜の栄養になるだろ!」
善は急げだ。
この後のことはよく覚えていない。気が付いた時には、腹痛も治まっていてベッドに腰かけていた。
どちらにせよ事なきを得たと言う事か……。
「さあ、足裏の汚れを払って今度こそ寝るかぁ。ちょっと部屋を汚しちゃうけど、ごめんな」
寝ている彼女に小声で話しかけながら作業を終え、ベッドに再び横たわる。
今度こそ安らかな眠りはもたらされるのだろうか? その答えは今はまだ得られない――。




