序
灼熱が地獄を具現化する。
破壊の波動が周囲全てを終わらせていく。
砕けていく屋敷、壊れていく大地、悲鳴を上げ許しを請うのは世界の声か。
無造作に腕を薙ぎ払うだけで、紫電が空中に奔る。放たれた衝撃波が崩れていく屋敷を更に破壊していく。そんな竜巻のような災厄の中心で、舞うように、踊る様にその災厄に立ち向かう男の姿があった。和仁である。灼熱と暴風と稲妻が支配する地獄よりも地獄らしいその場所で、未だ一撃の被弾なく、戦況だけを見れば優位に戦いを進めている。
その在り方を相対する災厄であるところの瑞葵は、熱帯びた瞳で見つめる事で自身の意を示していた。
ただひたすらに美しい。
どこまでも力が強い事に起因する大自然の雄大さに対する感動ではなく、それとは真逆の、精緻に積み上げられた工芸品、芸術品に抱く感動を瑞葵は抱いている。その感動は毎回抱く物ではある。和仁の戦いを見た回数は彼女自身それほど多くはない。自身が竜の意識に呑み込まれたとき、彼の師との戦い、彼の友たる黒い騎士との決闘、自らの母と行った契約戦。そして今回のリターンマッチ。都合五度。されどその度に新たな感動を抱くのだ。
「ああ、これが人類の極致。人型の最終」
ダイヤモンドなどを研磨するブリリアントカットを初めて見た時の感動のように。計算され尽した究極は、確かに心を強く打つ。憧れて、手に入れたくて、何より壊したくなる。壊れる瞬間のその儚い美しさに恋焦がれてしまう。きっと彼が朱に塗れて散る瞬間はとても美しいのだろう。その不敵に笑う表情が死の恐怖に引き攣る瞬間は、何よりも甘美なものなのだろう。とても見たいと瑞葵は心の奥底で願っている事を自覚している。そしてそれを和仁が気付いている事にも。だからこそ、彼は不敵に笑うのだ。
「は、未だ熟せず。悪いな拙い技で」
この程度で満足なのかと。
未だ足りぬこの程度を究極とは、なんて下らない事を言うのだと。
それが、彼女の奥底にある願望を最も刺激する言葉だと知っている。
永劫の果てにいずれ付く決着を未来へと投げて、彼女に飽きられないために足掻くのだ。
「彼女思いだろ? ここまで尽くす男もそうはいないぜ?」
「ひどい男じゃない。私がこれほどまでに焦がれているのに。その答えを絶対にくれないんだもの」
「辿り着いてしまえば、お前飽きるくせに」
「果てに至ってしまえば、後は貪ってあげるのに」
「ぬかせ」
「堕ちてもいいよ。君となら私も獄門の果てにこの首を捧げるから」
妖艶な笑み零す瑞葵に、和仁は呼吸を一瞬忘れた。余りにも甘美な地獄への誘いだ。輪廻の果てまで互いに喰いあう様に、互いに互いを思い続ける事を彼女は願っている。それを肯定すれば、瑞葵は彼を間違いなく受け入れて輪廻より外れることを肯定するだろう。解脱と呼ぶにはあまりにも畜生めいた輪廻からの脱却。罪深く、意義などなく、ただ悦楽の為に愛欲の為に。そして、それでもいいと彼女は本気で思っている。世界に価値などなく、森羅万象において価値あるものは目の前の男だけだと、本気で信じている。
その様が、あまりにも無残だからこそ、和仁は拳を握ることを止めなくなった。
世界を知れ、などと知ったかぶりをして説教をするつもりはない。そもそも自身の見識がそれほど広いなんて勘違いを和仁はしていない。そんな彼ではあるが、今の状況は間違っていると否定する程度の感性はあった。自身の世界に埋没することが無意味だとは言わなくとも、自身の世界のみに耽溺することを是とは出来ない。だから。
「さあ、構えろ。堕ちる事願わず。英傑たる雄として、今一度お前に答えを刻もう。それがお前の本当の願いだと勝手に信じて、身勝手に答えてやる」
「ひどい男」
「何を今更」
そんな和仁の言葉に瑞葵は笑みをこぼした。
妖艶な笑みではなく、蠱惑的な笑みではなく、どこか苦笑染みた母性感じさせる笑み。
放つ炎は煉獄のそれ、抜く爪は凄絶に至り、しかし乞う願いは乙女に過ぐ。
龍が舞う。彼に曰く英傑たる雄に対して。肉を変質させ、体を変形させて、更に怪物へと近づくままに。
産み落とされるように尾が生えた。魔力が集う事で翼が生えた。牙は揃い、龍鱗は鎧のように瑞葵を守る。自身の身を掻き抱いた。内に籠る様に、変質していく自分の姿に耐えるように、生まれてくる赤子のように、そして咆哮が響き渡る。世界が揺れて紅蓮が世界を灼く。縦に割れた竜眼が和仁の視線と絡み合った。
爆熱を身に纏って、死するに足る破滅を具現化してなお彼女の願いは変わらず。ただ己を己として見てくれる人に自分の全てを捧げたいなどと。そしてそれに応じる和仁の答えはいつだって同じだ。彼女を助けたその時から、彼女に交際を申し込んだあの時から変わる事なく。
紅蓮が収束して放たれるドラゴンブレス。
先ほどの一撃とは違い、タメをもって放たれたその一撃は、直撃すれば人の形を残さず蒸発するであろう熱量を秘めたままに和仁へ向かう。いなす事も、ギリギリでかわす事さえ許さないそれを間髪入れずに背後へ回り込むことで余裕をもって彼は躱して見せた。
視線が絡む。
視界がゆがむ。
龍種相手に視線を合わせるという失策。それを、自らの意思だけで振り切って、拳を振り切った。
神代の魔眼を気迫をもって受け流すという無謀ともいえる対処に、苦笑を隠せずそれでもそのくらいはやってのけるだろうと頷いたまま、和仁の一撃を受けて瑞葵は吹き飛ばされた。その勢いのままか壁に直撃。その衝撃で崩れ落ちる壁に生き埋めにされた。
大地が燃え尽きる。
そんな錯覚を起こさせるほどの熱量が唐突に発生し、周囲の瓦礫を一欠けとて残さず消し飛ばした。一筋の傷も、僅かな汚れさえなく、ただあるが儘の美しさを見せつけるように瑞葵はその場に舞い戻った。骨を砕いた手ごたえはあったのに、それを欠片も見せることなく、痛みをまるで表に出すことなく、ただ喜悦の感情に染まる顔に、和仁は苦々しく言うしかなかった。
「成程、怪物だな」
「ええ、勿論。貴方の望んだ、貴方だけの怪物よ」
「別に俺はお前が怪物であってほしいと願ったつもりは無いけど?」
「願わなくとも燻ぶっていた癖に。その身に宿した力振るわずしてどうするの」
「どうするなんて言われてもな。振るわずに済むのなら、振るわない方が良いに決まってると思うけど」
「嘘つき。身に着けた力が如何に偉大でも、それを振るう場所が無ければ無用の長物に過ぎない。それを看過できる程、君は大人じゃないでしょう?」
「一理はある。見解の相違を拭えはしないけどな」
その言葉に瑞葵の視線に乗る険がますますきつくなった。
そんな彼女の視線をどこ吹く風と受け流して、再び最初の構えを取り直す。その構えを瑞葵は破れない。その構えを突破できず、ただ手綱はめられた馬のごとく力の向きを制御され尽しているのが今の現況だ。それを突破する方法はそれほど多くはない。瑞葵とて極上を越えたレベルの暴れ馬だ。渾身を振り絞り、暴れて見せれば、極上のカウボウイの手綱捌きでさえ振り切れると思っている。しかし、訳知り顔に言葉を紡ぐ和仁の言葉を聞きたいと思った。
「見解の相違、ね。自分の事をを語らない貴方が、珍しい事に教えてくれるのかしら?」
「珍しい事にお前が聞いてきたことだ。答えないのは不義理だろう?」
「まあ、そもそも私、誰かに声をかけて質問すること自体初めてだからね」
「そんなんだから友達いないんだよお前」
「貴方は?」
「恋人は友達じゃないだろ」
「そう。なら、別に必要ないんじゃないかしら。私、貴方だけでいいもの」
「お前のその言葉は男として冥利に尽きるんだろうがな、それ派だけでは駄目ってことさ。かつて自分で言っただろうに。男なんて星の数ほどいる。その星の幾らかでも見たのかお前?」
そう言って和仁は構えのまま瑞葵へと一歩大きく近づいた。灼熱宿す彼女に一歩近づくという事は、死へと一歩踏み出すことに相違ない。熱を帯びて下がる事のない彼女のテンションを鑑みれば、ここで二人相討つことさえ自らの望みとしかねない。それでも、彼は憶すことなく彼女へと近づいて見せた。
瑞葵は答えない。そんな彼女を見透かすように和仁は肩をすくめた。
「だからお前はヒトの心が解らない」
「……そうね、人の心を悟る事は出来ても理解することはできないから。……私は怪物だから」
「違う。お前が人の心を理解なんてしなくてもいいと、自ら断じて捨てたからだ。自分で目を閉じちゃ星なんぞ目に入るわけないだろうに」
和仁はそう言って鋭い視線を瑞葵に向けた。彼女は何も答えない。何か言葉にしようともがいても、喉は引き攣り、望むべく音を出せなかった。彼の言葉が間違っていたからではない。その言葉が予想外だったからではない。自覚していた悪癖を、知ってほしくなかった人に知られていた絶望感が、彼女の全身を痺れさせる。
「そ……そんなことは……」
かつてなら。和仁に敗北する前の彼女なら。その言葉を聞いて、それでも笑って見せることができただろう。悠然と超越者の笑みを浮かべて、それがどうしたのと言い切ることができたのだろう。だが、彼に敗れて、彼と共に日常を過ごした彼女には、その言葉は重くのしかかる。
「で、でも、それは……」
言い訳さえ出てこない。
自ら望んだことを、自ら踏みにじる行為。そうであることを理解しながら、どうしようもないと切り捨てた事に対する罪悪感が彼女を苛む。望んだはずなのに、世界の広さに触れられる機会に目を輝かせていたはずなのに、結局彼女は彼女のまま変われずに、腐敗するが如くに淀んでいただけだ。
仕方がない。
仕方がない事なのだ。
龍と人では相容れない。生命としての質が、格が、在り方が、何もかもが違いすぎて、類似点を見いだせない。理解できない。解らない。意味不明。あまりにも低いレベルで争い合う無意味さ、届かぬ理想に手を伸ばす事さえしようとしない志の低さ。唯一理解できるのは、何かに執着するその感情の動きだけ。そして理解できるが故に嫉妬する。
あれは優秀だ。
あれは秀逸だ。
あれは人の枠組みのみならず、如何なる領域においても至高の評を得る為に鎬を削るであろう最優だ。故に嫉妬はしても理解はできる。しかし、それ以外について理解ができない。それ以外についてその答えに至る理屈が許容できない。愚かなるかな我が学友。無知蒙昧なるかな級友。触れ合えば触れ合うほどに損感情を抑えられない。
無為なるかな、無意味なるかな、無様なるかな。
和仁以外の人間に瑞葵は生きている価値を見いだせない。そんなはずはないと否定しようにも、目の前の愚か者共が和仁と同じ種である事さえ耐えがたい程に、吹き散らして皆殺してやりたいほどに、抱く殺意を我慢することを強要する程に、彼らは愚かしい。あの神の雛型も、あの悪魔の残影も、手慰みに招いた弟子共も、全てが全て愚かしい。一つの学期という区分を終える前に彼女はそう結論付けた。
「全てに価値はない。目に見たもの、星の数ほどの男、広いはずの世界、望んでいたはずの外は余りにも無価値で、私が欲しいと願ったものは結局あなただけだった」
そう言った彼女の全身が揺らぐ。
身に纏う衣が揺らめくように彼女の体に巻き付いて、そのままゆっくりと一体化していく。艶やかな肌を覆うは金属のような光沢を持ちながら、生物の一部であることを忘れない生まれついての鎧。龍鱗を纏い、吸血鬼の母譲りの翼を広げ、天に向かって吼え猛る。
世界がひび割れる。
そんな錯覚を抱かせるほどの咆哮。纏う魔力は余りにも禍々しく。放つ鬼気は呼吸さえ許さない。宿した眼光は、射すくめられるだけで心臓を止めかねない。龍として、超越種として、人類に対する天敵として、絶対的な悪の光輪を戴くものとして、彼女の全霊が世界を破壊する。
大地揺らぎ、海は干され、天は割れる。
あらゆる事象を死に傾けさせる彼女を見て。和仁は大きくため息をつくしかできなかった。
それは、死に向かって挑むことを強要された男の悲哀などでは間違っても無い。
それは、絶望的な状況下を越えるために呼気を整えたのでも無く。
それは、どこにでもある恋人の無茶ぶりにいつだって答えざるを得ない男の、幸せなため息。
「本当に男冥利に尽きるが……な」
和仁は心底嫌そうな顔でそう言った。
貴方の事が大好きで、貴方以外に全ては無価値。その無価値が私の、私の見つけた唯一の星に触れるというのなら、無価値一切を滅ぼそう。そんな結論に至った困ったちゃんを止めざるを得ない、彼女に惚れぬいている心を持て余しながら。




