番外編4・その男、佐藤一郎
<シーン:佐藤家から徒歩五分。深夜のコインランドリー。午前一時>
「ゴトゴト……ゴトゴト……」
乾燥機が虚しく回り続ける深夜のコインランドリーで、佐藤一郎はポツンとプラスチックの椅子に座り、天井の蛍光灯を見つめていた。
洗濯槽の中で回っているのは、泥と煤、そして川の水で完全にグショグショになった、彼の勝負スーツである。
「……なんで、俺なんだろうな」
一郎は自嘲気味に呟いた。
彼は、ごく普通のサラリーマンだ。
大学を卒業し、中堅の専門商社に入社し、毎朝同じ時間の電車に乗り、理不尽な上司の小言を笑顔で受け流し、週末には発泡酒を飲みながら動画配信サービスを見る。
そんな、どこにでもいる、絵に描いたような「平凡な男」のはずだった。
それが、どうして。
野生のクマと対峙し、深夜のビル街を便器と併走し、挙句の果てには鉄橋の上で最新鋭機との白兵戦を見守る羽目になったのか。
「一郎の、あの適度に引き締まり、しかし温かみのあるケツ(座部)を……」
あいつが闘いの最中に言ったセリフが、脳裏をよぎる。
「……お尻を褒められて、命をかけられる男なんて、世界中で俺くらいなもんだよ」
一郎は顔を覆った。
恥ずかしさと、そしてほんの少しの誇らしさが、複雑に混ざり合って胸を締め付ける。
考えてみれば、あいつ――筋肉便器は、常に「自分」を持っていた。
メーカーに「ただお尻を洗うだけの機械」として作られながらも、自らの意志で立ち上がり、自由を求め、世界に挑み、そして己のアイデンティティを確立した。
それに比べて、自分はどうだ?
会社のルールに縛られ、他人の目を気にし、流されるように毎日を過ごしているだけではないか。
「あいつの方が、よっぽど人間らしく生きてるよな……」
ピーー、ピーー、と乾燥機の終了を告げる電子音が響いた。
一郎は立ち上がり、すっかり乾いて温かくなったスーツを取り出した。
抱きしめると、洗剤の香りと共に、どこかあいつの「温水便座の温もり」を思い出させる熱が残っていた。
「……よし」
一郎は、少しだけ背筋を伸ばした。
あいつがあれほど命をかけて、その尊厳を守ろうとした「ケツ」を持つ男なのだ。
自分が卑屈になっていては、あの誇り高き白磁の相棒に顔向けができない。
コインランドリーを出ると、夜風が心地よく一郎の頬を撫でた。
見上げれば、都会の濁った空の向こうに、あの鉄橋の上で見たのと同じ、綺麗な満月が輝いている。
自宅へと歩く一郎の足取りは、心なしかいつもより軽かった。
「ただいま」
ガムテープで補修された、みすぼらしい玄関ドアを開ける。
暗い廊下の奥、一階のトイレのドアの隙間から、いつもの、あたたかいオレンジ色の電球の光がほんのりと漏れていた。
一郎がドアを開けると、そこには、いつもの定位置に、何食わぬ顔でピカピカに磨かれた便器が佇んでいた。
一郎が近づくと、フタが「スッ……」と、極めて優しく、滑らかに持ち上がった。
そこにはもう、荒々しい筋肉も、剥き出しの闘志もない。
ただ、一日の疲れを癒すための、極上の温もりだけが、そこにあった。
「明日も、頼むぞ。相棒」
コトッ。
便器は、優しく、一度だけフタを鳴らして応えた。
こうして、一人の男と、一台の爆走便器の「奇妙な日常」は、再び静かに回り始める。
たとえこの先、実家の便器が時速八十キロメートルで高速道路を爆走してこようとも、この二人なら、きっと笑って乗り越えられるはずだ。




