斎木梛 文武の事情
「ほれっ、起きんか。今日は入学式であろうが」
このお爺さんが日の出とともにやや乱暴の気味で眠りを覚ますのも故のないことではありません。日中は鼎の霊魂とかかりきって、夜は常世に近い夢に落ちる姫子に連れられる周から、少しでも常世の影響を除いてやりたいとする優しさでした。夜闇を裂いて現世を照らす曙光こそもっとも灼かな明かりなのですから。
頃は4月になって、鼎の寝具はもう寝間にありません。古いしきたりはその期間を三月と定めていて、その三月が過ぎた今も鼎の魂が現世に留まっている様子は、前例のない異常を告げています。
ふつう、自我を取り戻した魂は自らのかけらを自然と引き寄せるはずでした。霊脈の通り道にある斎木梛の屋敷は目立ちやすく、鼎にとってはもっとも思い出深い自宅なのですから、どこかで迷うとも思えません。考えられるのは、鼎自身が戻るのを拒んでいるか、周が別人のようにしてしまったか、
何者かが斎木梛 鼎の魂を捕らえて離さないかですーー。
「お狗かお狐の仕業でしょうか?」
文武もいよいよ何者かの意図を考えざるを得ませんでした。念頭に浮いたのが生きた人間ではなく、神使霊獣というのが斎木梛家らしいところです。しかし、狛犬や稲荷として祀られている天狗や妖狐の祟りは、神隠しや狐憑きと呼ばれるものです。命は絶対に奪われませんから、鼎が霊魂となるはずもありません。
「人の仕業ですか」
やはりそうとしか考えられません。
「恐らくな。文武よ、わしらは揃って周の健気な姿を見守ってきたわけだが、どこか呆けておったな」
「……ええ」
文武は一つ長いため息をつくと立ち上がります。常日頃の仏像のような半眼は、眦から引き締まり、微笑も消えていました。こんな顔色は近頃まったく見せなくなったものです。
「気をつけろ。お前もわしも歳をとった。あの頃のようには動けんぞ」
「屋敷の護りをよろしく頼みます」
この国の常世と関わり続けてきた斎木梛家……千年にも及ぶ歴史の中には、人に仇なす怨霊との遭遇が何度もありました。長い長い時間をかけられるなら鎮められます。でも、怨霊の出現が都の中心部であったり、被害が大きいと判断される場合は払わねばなりません。
今でこそ仏のように温厚で、どこに嫁しても恥ずかしくない花嫁修業を積んだ姫子さえ補える隙もない良き夫、そして良き父の斎木梛 文武ですが、かつては何事もなく鎮められる霊魂さえ払ってきたような横暴な時期がありました。
屋敷の畳廊下が、そこを歩む文武の心情を音にして表しています。みしっ、みしっ、と。三ヶ月前、七十年振りに開いた表口から流れ込んで、物の紛失や奇妙な物音とを繰り返すイタズラ盛りの無数の霊魂たちは息を潜め、斎木梛家に長年通う家政婦は、その聞き覚えのない足音に不審者の侵入を心配したほどでした。そこに一つの電話が。
電話を受けた家政婦の血相を変えて文武の元へ駆け込んできました。
「だ、旦那さまっ、警察の方からで、あ、周さんが入学式の帰りに車にはねられたと……」
文武の眉間に皺が寄り、目が見開かれました。家政婦はひっと小さな悲鳴を上げ、屋敷内にいた霊魂たちは竦み上がって半開きの窓へと殺到しました。すると、窓は風もないのにばりばりと音を立てて揺れ動き、ついには内から外へ向かって弾け飛んでしまったのです。
斎木梛 文武……人ならざる者との戦いにさえ飽きてやっと心を改めたような、絶対に敵に回してはいけない男なのでした。




