第1話 史学者ヒスト
この国において、歴史を調べることは、禁忌とされている。
奴隷の少年は処分されかけたところをとある青年に拾われるが、その青年の職業は、教会に知られれば確実に浄化対称になる、史学者だった。
「…あれは?」
そう眼鏡を掛けた青年が視線を向けた先にいたのは、メイドに手首へと繋がれた鎖を引かれる、痩せぎすの少年だった。ああ、と先程まで青年と会話していた中年の男…この屋敷の主人は、その視線の先を追う。男の意識が向いていることに気づいたメイドが足を止めた。
男が、小さく舌打ちをする。事前に、他の道を通るよう、指示しておくべきだった。これは、男の落ち度だ。
「…先週買ったんだがな…処分予定だ」
「分解ですか?」
「売れるほど健康体か?」
そう返した男を一瞥してから、青年はその少年に歩み寄り、眼鏡を外してその顔を覗き込んだ。青年の淡い色の髪は荒れており、同じ色の目に光は無い。白い服は薄汚れているが、この屋敷のものではない。買ったときの、そのままの服装か。他にもいくつか術の痕跡が見られたが、特に目立つそれの原点、首に刻まれた、紋様のようにも見える傷跡は、確かに、この男による所有印だろう。
「…お前、読み書きは」
しかし少年は、それが自身に掛けられたものだとは気がつかなかった。「お前だよ」と革靴で脚を蹴られて、初めて、その対象が自分であることを知った。
漸く、少年の意識が青年に向いた。少し癖のあるこげ茶の髪は男性にしては少し長く、背の高い少年からは、丁度目元が見えづらい程度だった。白いシャツの上から、髪より濃い色のベストを着用している。胸元に、細い金属のチェーンに掛けられた、黒い石の装飾がされた眼鏡が揺れていた。袖の下に埋もれた、ファスナーがついた黒革の手袋と、左耳に揺れる白い石が、どこか印象的だった。
「…読み、なら……」
そうおずおずと返した少年に、「…まあ妥協点だな」と青年は呟く。そして、どこか嬉々とした様子で男を振り返り。
「伯爵、今回の依頼料、これでいいですよ」
「…正気か?」
「まさか」
どこか飄々とした態度で、青年は言った。
「前にも言ったでしょう、人手が欲しい」
「…もっとまともなものを用意する」
男が顔を顰めた。しかしその男の善意に、青年は平然と返す。
「いいえ。馬鹿なほうが裏切られずに済むでしょう?」
「…限度があるとは思うがな」
そう言いつつも引き下がった男に対し、青年は「交渉成立ですね」と飄々と、しかしどこか幼くも感じられる様子で笑った。流れるように、黒に包まれた右手を、少年に向かって伸ばす。それに少年は身を強張らせた。
一瞬感じた、手袋越し体温は柔らかく、どこか恐ろしかった。
バチン、という破裂音と同時に、メイドの持つ鎖が壊れる。少年の首に痛みが走った。衝撃により床に崩れ落ちた少年の首に重ねて刻まれたのは、別の紋様。
「…相変わらず、気味の悪い魔力だな」
「どうも」
青年は男の皮肉に、眼鏡を戻しながら生返事をした。それに男は、「…初めて奴隷に同情しそうだ」と眉を顰める。
青年は、それを無視し、少年に向かって手袋越しの右手を差し出した。
少年が青年を見上げる。角度のおかげで漸くはっきりと見えたガラス越しのその目は、髪よりも暗い、濃い茶色をしている。少年を見下ろすそれは一見優しく細められているようで、逃れられないと錯覚するほど、冷ややかであった。
「俺はヒスト。今日からお前の飼い主だ、ノベル」
ノベル、と名付けられた少年の目に映るその青年ヒストは、何かを救う神のように、或いは悪魔のように、いっそ禍々しいほど美しい顔で微笑んだ。
玄関口に立つメイドから上着と帽子を回収し屋敷を出たヒストは、ノベルを連れたまま馬車に乗り込んだ。ノベルはその座席に座ることを躊躇したが、ヒストに指示されてその対面に座る。
「お前に教養が無いと仮定して説明するが、」
ノベルの困惑に気づいていないのか、若しくは気に掛けるつもりすらないのか。ヒストは、そう、前置きした。
「俺は史学者をしている。簡単に言えば、歴史を調べる仕事だな」
ただし、とヒストは口角を上げた。
「この現代において、歴史を知ることは禁忌とされている」
ヒストが優雅に微笑む。やはりその表情はどこか胡散臭く、ノベルは内心で恐怖を感じた。この青年が今何もしてこないからと言って、今後、酷いことをしてこないとは限らない。ローゼ伯爵の元には1週間ほどしかいなかったが、奴隷を買う人の中には、それらを痛めつけることを趣味とするような者だっている。
「お前には俺の助手をしてもらう。詳しくは知らなくていい、俺の指示に従え」
そう言い、無言のままのノベルを数秒見つめて。
「…ノベル、自由な発言を許可する。質問はあるか」
「…あの、旦那様は」
「名前でいい」
そう、ヒストは訂正した。
「最初に名乗っただろう。ヒストだ」
「…ヒスト様は」
「様はやめろ」
「……ヒストさんは、どうして僕を買い取ったのですか?」
ノベルが問う。
「ローゼ伯爵にも言っただろ、人手が欲しかった」
「そうだとしても、伯爵様のおっしゃったとおり、僕は使えません」
「馬鹿なほうが使い勝手がいい」
「ですが…」
「それとも、お前の脚のことか?」
言われ、ノベルは息をのんだ。それを気にすることなく、伯爵も不良品を掴まされたな、などとヒストは笑う。
「気にするな、肉体労働は無い」
目を細めるヒストに、ノベルは何かを言いかけたが、それが音を成すことは無く、静かに「はい」と返した。
「それと、貴族との関わりもない。ローゼ伯爵は例外だが、基本、貴族からの依頼は受けていないからな。余程のことがない限り、お前の元の所有者に会うことは無いと思うが」
ヒストは、そう言った。恐らく、ノベルに対する配慮よりも、魔力を使って服従させたはずの奴隷を所有している、ヒスト自身を詮索されることは無い、という意味で。
「ほかには?」
「…いいえ」
それに、再びヒストは目を細めて笑った。怯える様子が面白かったのか、若しくは、ノベルが何を問おうとしてやめたのかを、気づいていたのかもしれない。
少なくともそれから会話が進むことは無く、ヒストは手帳を取り出して、何かを記入していた。その間ノベルはすることもなく、ぼんやりと、描くように綴られる異言語を眺めながら、ヒストの話をかみ砕いた。
先程ヒストは、この国において、歴史を知ることが禁忌であると言った。
その程度の常識なら、ノベルだって知っている。この国の宗教が、古い歴史の介入を嫌うらしい。詳しいことは知らないが、数年前、何かの伝承を代々唱えていたために、教会により一族ごと浄化された使用人を見たことがある。
しかし、何故そんなこの国において、ヒストは史学者をしているのか。恐らく偽名であるそれは、その立場があってのことだろう。
ノベルは、自身の首に指を這わせた。そこにある傷跡に、ぞっとする。
つい先刻、所有印を刻まれた瞬間の、鋭い刃物でなぞられるような熱が、まだ脳裏に焼き付いていた。
この世界において、通常、貴族以外で魔力を持つ人間は保護の為教会に送られ、そのまま生涯を終える。目の前のこの男は、果たして、教会から逃げ出してきたのだろうか。それとも、何らかの理由で教会への登録がされていないのか?
ノベルがローゼ伯爵に買われる前の主人も、そしてローゼ伯爵も貴族であり、当然魔力を持っていたが、ヒストのそれは、異質だった。これを、ローゼ伯爵は「気味の悪い」と形容した。
いっそ、あのままローゼ伯爵に処分されてしまいたかった。
ヒストが手帳にペンを走らせる、その微かな音が、やけに大きく聞こえた。
数時間をその状態で過ごした。御者が馬車の扉を開くと、ヒストは慣れた様子で降りた。戸惑うノベルには荷物を押し付けて、その場を離れる。ノベルは慌ててその後を追った。この時ノベルはまだ知らなかったが、そこは王都の外れにある14区であり、店や住宅なんかが混ざっていて、問答無用で襲われるようなことは無いが、ヒストのような日陰者が多く蔓延っているような、秩序はあるが法は機能していない地区であった。
その一角である路地、日が落ちかけていることもあってか、やたらと煩い酒場の横、3階建ての建物にヒストが入る。その後にノベルが続くと、扉を通り抜けてすぐ、窓のないそこは室内灯の為存外明るく、壁一面の書架が目に入った。中央には恐らく応接用のテーブル、それを挟んだソファが2つ、一方は1人用で、もう一方は複数人で座ることができるようだった。奥にあるのは、貴族邸で見かけるような執務用の机。壁が厚いのか、隣の酒場の喧騒は嘘のように、重みのある静けさがそこにはあった。
呆然とするノベルに、ヒストは「こっちだ」と声を掛ける。
ヒストは書架の横の扉を開けた。その先にある階段を上がるヒストを、ノベルが追う。
「1階が事務所、2階と3階は生活スペース。3階に空き部屋があるから、お前はそこを使え」
2階についたヒストは、階上を指さしながら言った。しかしそのままヒストが向かったのは、風呂場。
「あの、ヒストさん…」
「入れ」
ノベルを遮り、荷物を奪うように回収したヒストは、そのままノベルの腰を風呂場に向かって蹴り飛ばした。丁度扉のあたりで、ノベルは足を止める。
呆然とするノベルに、ヒストは眉を顰めた。
「…入り方くらいわかるだろ?」
「…はい」
入り方はわかる。ノベルの困惑の原因は、そこではなく、ヒストの態度にあった。普通はこうではないだろう。奴隷を風呂に入れたり、馬車に乗せるなどしない。
そんなことをノベルが考えていると、それを察したヒストが、「あのなぁ、」とあきれたように声を出した。
「俺が欲しいのは助手だ。お前にはまともに見える努力をしてもらわないと困る。俺の品性が疑われる」
わかったら入れ、と言い放ったヒストは、今度こそ思い切りノベルを蹴り飛ばし、転んだ隙に扉を閉めた。
「……何なんだ、あの人」
呟いた声が虚しく響くのを確認し、ノベルはため息をついた。
とりあえずは、身体に暴力を受ける心配は無いということか。薄い服…というには汚れた布切れを脱ぐと、白い肌にあるのはあざや、切り傷や火傷の痕。
「まともに見える努力」。そう、ヒストは言った。
これらは服で隠れるだろう。生憎1週間前まで売られていた身だ、服で隠せない部分に怪我は無い。
以前、別の主人に、似たようなことを言われたことがある。それは奴隷に犯罪行為をさせるためであり、ヒストが求めていることと同義だろう。もっとも、ヒストの場合は彼自身が犯罪者ではあるが。
水で汚れを洗い流す。右脚の大腿がやけに痛んだ。
これのせいで前主人に売られて、ローゼ伯爵に買われた後に、ここにいる。
もう一度ため息をついて、ノベルは風呂場を出た。その先に置いていたはずの服は見当たらず、代わりにタオルと、綺麗に畳まれた服が置かれていた。
「…あの、ヒストさん、衣類は…」
少し声を大きくして扉の向こうに話しかけると、どこか離れた場所から「置いただろー」と返ってきた。いつの間に出入りしたのか。
それらを手に取ると、白いシャツと、黒いスラックスだった。ノベル自身が瘦せているため多少不格好ではあったが、裾はちょうどよかった。
脱衣所を出ると奥の部屋への扉が開いていた。向かうと、ソファで手帳に何かを書き込むヒストがいた。
「…あの、すみません」
声を掛けると、ヒストはノベルを見上げた。そして、少し目を細め。
「丈は」
「大丈夫です」
「そうか」
短い応答のあと、ヒストはソファから立ち上がり、ノベルに「付いてこい」と告げた。向かった先は3階、ヒストは、3部屋あるうちの、右手側に2つ並んだ奥の扉を開けた。簡素なベッドと机のみが置かれている。それを数秒見つめたヒストは、無言のままクローゼットを開いた。中から出てきた女性用の衣類に、舌打ちをし、一度眼鏡を外して、器用にそれらのみを燃やした。
「…この部屋は好きに使っていい。隣は俺の部屋、反対側は物置」
「…あの、先程燃やしたものは」
「好きに使え、ノベル」
有無を言わせぬ圧だった。咄嗟に、はい、とノベルは返す。
だが好きに使えと言われても、今のノベルに持ち物などは無いし、どうすればいいのかわからない。しかし、ノベルが返事をしたこと自体に満足したのか、ヒストは頷いて「行くぞ」とノベルに声を掛けた。
「どこにですか?」
「飯とお前の服」
言いながら階段を下りたヒストは、一度2階に立ち寄って、荷物と帽子を手に取った。帽子を被り、荷物はノベルに押し付ける。
「あの、申し訳ありません」
ヒストの後を追いながらノベルが言うと、またヒストは舌打ちをして、「だから」と声を荒らげた。
「俺の品性が疑われるんだ。お前のことはどうでもいい」
「でも、あの、」
「返事」
「はい」
そんな応答をしながらヒストが扉に手を掛ける。しかし、それを開く前に一度、ノベルを振り返り。
「首元は見せるなよ」
「はい」
それは、所有印を隠せということだろう。
シャツの留め具が一番上まで留まっていることを指先で確認し、ノベルは息をついた。
今度こそヒストが扉を開けると、途端に喧騒が飛び込んできた。視界が電飾に支配されて、それから、既に空が暗いことに気づく。驚き肩を揺らしたノベルを気に掛けることはせず、ヒストは隣の酒場に入った。
「なあ、クロスさんいる?」
手前のテーブル席に座る男たちの集団に、ヒストは声を掛けた。
「いつものテーブルにおるけど…」
そう言いながら顔を上げた眼鏡の男は、品定めでもするかのように、じろりとノベルを見つめた。ノベルが短く息を吸うと、周囲の男たちが笑う。
「…初めて見る顔やな」
「拾った」
「せめて女にせぇ」
「気が向いたらな」
薄い笑みを浮かべたヒストは、男たちの相手もおざなりに店の奥へ向かった。
失礼します、と頭を下げてノベルが離れようとすると、先程の男が、「なぁ?」とノベルに声を掛けた。
「何でしょう…?」
「あいつを裏切んなや」
先程までヒストに掛けていた柔らかいそれとは違う口調に、そして、何よりその内容に、ノベルの喉が、空気の通り抜ける音を鳴らした。
「…はい」
その返事に意味は無い。襟に指を這わせる。この下のこれがある限り、ノベルはヒストを裏切ることはできないのだから。
男たちに対しもう一度頭を下げて、今度こそその場を離れる。ヒストは、店の奥の壁際のテーブル席に…正しくは、その席に座る高齢の男性に向かっていた。男性が顔を上げるよりも早く、ヒストはその対面に座る。少し迷って、ノベルはヒストの斜め後ろに控えた。
「なあクロスさん、仕事頼んでいい?」
「…なんじゃ、坊。また怪我でもしたか?」
「違う、俺じゃなくてこっち」
そう、ヒストはノベルのことは一切見ないまま、その腕を掴んで引いた。
「これの服を仕立ててくれよ。取り敢えず5着」
ヒストが言うと、男性…クロスは、空いているのかいないのかよくわからなかった目を見開き、その視界にノベルを映した。
「…坊も子供を連れてくる年齢か…」
「俺はまだそんな年じゃない」
びしゃりと言い、ヒストはまたノベルに「座れ」と、視線を合わせないまま告げる。遠慮がちにではあるがノベルが椅子に座ったのを確認し、店員に料理を注文した。
「…奢らんぞ」
「俺が払うよ、クロスさんの分も」
「酒持ってこい!」
「なあじーさん、俺現金あんまり持ち歩いてないんだけど」
くすくすと笑ったヒストは、硬直するノベルの耳に口元を寄せた。
「…心配するな。こんなんだが、腕はいい」
「はい」
正直ノベルとしては服など着ることさえできればどうでもいいが、それを言うとヒストの機嫌を悪くしそうであるし、そもそもヒストはノベルが奴隷であると隠したいようなので、短く肯定を返すのみに留めた。
そんな会話をしていると、店員が料理を持って現れる。ヒストはタルトと珈琲のセットを自身の前に、粥をノベルの前に置くよう頼んだ。
「今日はフルーツタルト、自信作」
「ああ」
短く、どこか淡々と返したヒストに、しかし店員は小さく笑い、その場を離れる。
「…え、っと、ヒストさん…?」
「なんだ、これも食えないか?」
ヒストが首を傾げた。食べることができないわけではない。しかし奴隷にしっかりとした食事を与える人間などノベルの知る限りはいないし、ローゼ伯爵の元では処分予定だった関係上、何かを口にすること自体が久し振りであった。
「…申し訳ありません」
「謝るな」
ぴしゃりと言われ、代わりにノベルは、呟くような声で「ありがとうございます」と言ってからそれに手を付けた。
あたたかいそれはほんのりと甘く、ノベルに困惑と、不思議な安堵感をもたらした。
唐揚げの取り合いをするヒストとクロスを横目に、ノベルはヒストに気づかれないよう、もう一度静かにため息をつた。
何なんだ、この人は。
今までの所有者とは違う。ノベルのことを1人の人間として扱っているようでいて、その実、ノベル自身にはまるで興味がない。
奴隷として今まで過ごしてきた身として、主人や周囲の人間の機嫌を読むのは苦手ではなかったはずだ。しかし、ヒストは、全く掴みどころがない。その行動のひとつひとつに何の意図があるのか。所有者に対する物言いではないのかもしれないが、ノベルの目には、何も考えていないようにも映った。
ノベルが食事を終える頃にはヒストはタルトを食べ終えていて、クロスはもう何杯目かわからない酒を、新たに注文した唐揚げをつまみにしながら飲んでいた。
クロスが酒を飲み終えたタイミングで、店員が席に近づく。
「酒…」
「会計頼む」
クロスを遮ったヒストに、若い店員は小さく笑いながら了承した。
「まだ飲める!」
「なあクロスさん、俺の財布もいたわってくれよ」
冗談か本気か…安物とはいえど即決で奴隷を買いとれる程度、それに対しローゼ伯爵が「もっとまともなものを用意する」と返したあたり相当な依頼料ではあるから、冗談なのだろう。
ともかくそれで引き下がったクロスは、支払いをするヒストを見ることなく、店外へと歩いて行った。
会計を終え店外へ向かおうとするヒストに話しかけたのは、はじめこの店に入ったときにヒストが話しかけた集団のうち1人、大柄な男だった。
「…聞きたいことがあるんだが、いいか?」
それにヒストは、口の端を吊り上げて笑い。
「時間と金は?」
「ああ」
できることなら今すぐ逃げ出したい程度には、ノベルにとって、ヒストの笑みも男の強面も恐ろしかった。
流れるように、ヒストと男は隣のヒスト宅1階の事務所に入る。その後を追いノベルが入ると、ヒストが何らかの術を掛けているのか、それとも単にそういう構造なのか、扉がひとりでに鍵を閉めた。
「ノベル、こっちに来い」
「はい」
ヒストに指示され、ノベルはテーブルを挟んだソファの出入り口から遠い側、ヒストが座る斜め後ろに立つ。
「…ヒスト、それは何だ」
「拾ったって」
聞いてなかったのか?と煽るヒストを気にすることなく、若しくは気にする余裕もなく、男がノベルを睨む。ひっ、とノベルの喉からか細い声が漏れた。
「安心しろ、ラクさんは顔と職業と口調と性格が怖いだけだ」
「全部じゃねぇか」
いや俺はあんたを信用しているよ、と嘘か本当かわからない笑みを浮かべて、ヒストはわざとらしく首を傾げた。左耳のイアリングが揺れる。
「いいから話せよ、何の用?」
男…ラクはノベルの存在に対し不満げだったが、ヒストが「そろそろ飽きるんだけど」と文句を言うと、ようやく口を開き始める。
「王都から郊外まで、人目に付かないルートはあるのか?」
「…何に使うつもりだ?」
「知ったら共犯だからな」
「やめておこう」
俺はあんたらと違って教会行きなんだ、とヒストが薄く笑う。
刑務所に送られるような罪人は…会話の流れからラクもこれなのだろうが、死刑になるようなことは多く無く、場合によっては数日で社会復帰を果たすらしい。しかし、神に反する行動をとった場合は、確実に殺される。ノベルは一度見かけただけだが、生きたまま燃やされていた。所謂、浄化と呼ばれる処刑である。…もし仮にヒストが粗を見せたら、ノベルも同じ運命を辿るのだろう。若しくは、奴隷ということで即刻処分されればいいのだが。
「運ぶ・逃げる・隠す。どれか、どこからどこかによって、変わるな」
そうヒストが口の端を吊り上げた。悠々としたどこか怪しげな態度に、しかし、慣れているのか、それともその怪しさに気づかないのか、ラクは何も動じることは無い。
「王都3区からの逃げ道だ。見つからなければどこでもいい」
「…脱獄?」
「共犯な」
「やめろ」
軽い会話の後、ヒストはノベルを見上げた。
「ノベル、地図持ってこい。そこの左側、上から2段目」
ヒストが壁の書架を指さした。はい、と短く返事をし、ノベルは指示された箇所を探す。しかし見つける事ができず、時間だけが過ぎていく。
「…使えないな、お前」
文句を言いながら棚に手を伸ばしたヒストに、ひゅっとノベルが息をのんだ。しかしヒストは気にせず、書架の中から比較的薄い冊子をひとつ手に取った。
「なあラクさん、紙でほしい?」
「証拠はいらねぇ」
「だよな」
そう言いながら、ヒストはノベルを無視しラクの対面へと戻る。
テーブルに広げられた地図は、王都の中心である1区から、3区を含めた西側までのものだった。それを指さし、ノベルは口を開いた。
「3区の牢獄を出たとする。そこから1区との区切りになっている森があるだろう、そこに数か所、柊が生えている場所があるはずだ。それらが郊外までの地下通路の目印になっている。嘗て王族が使っていた緊急避難路だが、旧暦終盤に…」
「もういい」
ぴしゃりと、ラクはヒストを遮った。それに気を害したのか、ヒストが眉を顰めた。
「…俺を巻き込むな」
「共犯だろ」
くすくすとヒストは笑う。しかし止められた以上続ける気はないのか、その先を言うことは無かった。
「じゃあここまでな」
そう地図を閉じたヒストを見て、ラクは小切手にいくつかの事項を書き込んでヒストに渡した。
「…ゼロ足りなくないか?」
「成功したら渡す」
そう返したラクに、数秒黙ったヒストは、「まあ、いいけどな」とそれをテーブルに置いた。
そのまま外に出ようとするラクに、「ああ、そうだ」とヒストは座ったまま声を掛ける。
「あんたの上に宜しく言っといてくれ」
そう口角を上げるヒストとは対照的に、ラクは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「…ああ」
それだけを言い、ラクは逃げるように外へと出た。その扉が閉まるのを確認し、「まあ、」とヒストは口を開いた。
「嘗てのクーデターで、殆ど使い物にならないんだけどな」
「…え?」
ノベルが驚いて声を漏らすと、ヒストはいたずらが成功した子供のように笑った。
「まあ、運が良ければ生き残るだろ」
そうヒストは、その疲れを示すかのように、ソファの背もたれに体重を預けた。しかし顔色にはまったく疲れは見えず、その動きもどこかわざとらしい。
「…いいんですか?」
ヒストはラクと知り合いのはずだ。しかも、ラクの上司とも親しいような発言を見せた。それを気に掛けたノベルがそう問いかけたが、ヒストはノベルを見上げ、平然と述べた。
「死んだらその程度だってことだろ?」
そう首を傾げるヒストに、ノベルは、無意識のうちに息を吞んだ。襟の下の傷跡に指を這わせる。血は出ていないが、効力が失われていないその傷跡はまだ生々しく、焼けるような痛みを覚えた。
この人のことを、やはり、理解できる気がしない。
若しくはそれは、理解しないほうが良いという、ノベルの中の防衛本能が働いた結果かもしれなかった。
「…あの、ヒストさん、」
「なんだ?」
自分から声を掛けておいて、ノベルは、何を言うべきか、わからなかった。
先程書架の中から地図を見つけられなかったことを謝るか?それとも、自分を解放するように、若しくはすぐに処分するように懇願するか?
あの、ともう一度呟く。声が震えたが、それにヒストが気を悪くする様子はない。単に、興味がないだけかもしれなかった。
「よろしくお願いします」
そう頭を下げたノベルに、ヒストは聞いているのかいないのか、気だるげな声で「ああ」とだけ返した。
成瀬です。
学生時代歴史が苦手だったので、歴史を学ぶ意義を考え続けた結果この作品を思いつきました。




