01
『お母さまっ、お母さまっ』
泣きそうな表情のイオを母であるベレンガリアはきょとんした顔で見つめる。
『あら、なぁに?私の可愛いペリドット』
『…侍女が私の靴を、隠してしまったの…!ずっと探し回っているけど、見つからないの…!足も痛いし、たすけて、お母さまっ』
『―どうして私が助けなければならないの?』
『…あ、え、だって…』
『あなたはこの国の王女でしょう?この国で一番えらい女の子よ?それなら何とか出来るでしょう?』
―あの時の母の表情をイオは忘れた日などない。
あの時から母に縋り付く回数は次第に減っていった。母に助けを求めることを諦めた。
母はあの時、一度でも私を見ていただろうか。
どんよりとした曇り空がエルドラド王国を覆っていた。王城の自室で第一王女イオ・プリマベラ・エルドラドは趣味である刺繍をしていた。刺繍を施しているのは明らかに小さなドレスだ。
傍らに控えていた第一王女付き侍女長のイザベラが声をかけた。
「紅茶はいかがですか、王女殿下」
「…いただいてもいい?イザベラ」
「すぐにお持ちいたしますね」
静かな午後だった。カチャカチャとイザベラが茶器を動かす音だけが聞こえる。
「綺麗な刺繍ですね。小鳥ですか」
イオがドレスに施しているのは小さな青い小鳥だ。
「…モネは小鳥が好きだから。気に入ってくれるかしら?」
「きっとモネ王女殿下も気に入りますわ」
「それなら、嬉しいのだけど…」
穏やかな会話に水を差すように部屋の扉を叩く音がした。
イザベラが扉を開けると国王付き侍従が恭しく一礼する。
「イオ王女殿下、国王陛下がお呼びです」
「…お父さまが…?」
「支度が出来次第、執務室に来られるようにと」
父が自分を呼ぶなどおよそ数ヶ月ぶりではないだろうかとイオはほんの少しだけ不安を覚える。父は自分に興味の欠片もない。自分に会いに来るのもいつもついでとでも言わんばかりに母を伴っていた。
「…いきなり押しかけて、そのようなこと」
イザベラが抗議の声をあげるがイオがそっと手で制す。
「いいの、イザベラ。…わかりました、支度が出来次第、伺いますとお父さまにお伝えしてくれる?」
イオの背中から腰にかけて下ろされていた流れるような髪が結い上げられていく。
この国では珍しい月光のような髪は母譲りの銀髪だ。
自室用の緩いドレスを脱いでイザベラの選んだドレスが着せられる。今日のドレスはラベンダー色の生地に銀糸の刺繍とダイヤモンドが施されたものだ。長袖のドレスから唯一華奢な肩だけがチラリと見えていた。
「今日もお美しいですわ、王女殿下」
『美しい』のひと言がイオは素直に喜べない。
成長するに連れて母と瓜二つになっていく。鏡にうつる自分の顔が好きになれない。母譲りの銀髪、透き通るような白い肌、橄欖石のような薄緑の瞳。
「…お母さまに、似てる…?」
イオがイザベラの方を振り返る。困ったような泣きそうな顔をしていた。
「殿下、殿下は王妃陛下とは違うのですよ。私は心の底から殿下が美しいと思っておりますわ。それにほら、」
イザベラがイオの肩に手を添えて、鏡の方へ顔を向かせる。
「お母上とは違いますわ、殿下の瞳はペリドットのようでしょう?王妃陛下はこんなにお優しい目はしていませんわ」
イザベラは優しい。イザベラだけがイオに優しい言葉をくれる。
「でも…私は、好きになれないの」
ぽつりとイオは鏡に映る自分の姿をみて呟いた。
父がいる執務室の扉がいつもより大きく冷たく感じた。執務室の前は幾度となく通っているというのに。
執務室の前を警備している衛兵が警戒を解き、扉を開ける。
「…殿下、私も」
イオが後ろから着いてこようとするイザベラのドレスの袖を軽く掴む。
「…いいのよ、イザベラ。ここにいて?きっと、お父さまのことだもの、すぐに用は済むと思うの」
「…わかりました。でしたら何を話したか私に教えてくださいませ」
「もちろんよ」
イオは部屋に入りドレスの裾を持ってお辞儀をする。
「お父さま、お呼びでしょうか」
「…あぁ」
父である国王は机から顔を上げない。今も視線は手元の書類に向けられたままだ。およそ数ヶ月ぶりに娘が会いに来たというのに顔も見ない。
「お父さ、」
「お前にはライネル帝国の皇帝に嫁いでもらう」
「は、え…?」
聞き間違いだろうか。父は今なんと言った?ライネル帝国に嫁げと言ったのか。
「仰ってる、意味が…」
「そのままの意味だ。ライネル帝国の皇帝と我が国の王女が婚姻を結ぶことで両国の平和的な関係を強固とするためだ」
ありえない話だと頭が追いつかない。ライネル帝国はこの国とは比べ物にならないほど、大陸一の軍事力と文化的発展を遂げる大国だ。その皇帝と婚姻など遠いまた夢の話だとそう思っていた。
「…急なお話で、理解が」
「これは王命である。覆ることはない。」
「わ、わたしに、大国の皇后など務まるはずが」
「務まるか務まらぬかはどうでもよい。お前はただライネル帝国に嫁げばよいのだ」
有無を言わさぬ父の言葉に身体が震えそうになる。
「で、ですがお父さま、私は、皇帝陛下のお人柄も、よく知らないのですよ…?」
「これは所詮、政略結婚に他ならない。人柄など知る必要もあるまい。王女たるものそんな事も分からんのか」
声が出なくなりそうだ。息の仕方を忘れそうな程にイオの頭の中は混乱していた。
「…っ、お、お母さまは、このことは、ご承知なのですか…?」
「王妃は喜んで賛成してくれた」
「……そう、ですか」
父が手に持つ書類を机に無造作に置く。それ以上の会話は不要だ、早く出て行けと言わんばかりだ。イオは静かに執務室を出ていった。
執務室の扉が締められるのとほぼ同時にイザベラが駆け寄ってくる。
「王女殿下、おかえりなさいませ!…陛下はどのような要件だったのですか…!?」
イオはうまく口が開けない。唇を小さく開けたり閉じたりを繰り返してようやく口を開く。
「…イザベラ、わたし、お嫁に行くの…」
そのひと言しか言えなかった。
「どうしてしまったの?可愛いペリドット」
イオは部屋に戻り呆然と椅子に座っているだけだった。その様子をどこからか聞きつけて部屋にやってきたのは母である王妃ベレンガリアだった。甘ったるい蠱惑な声を出しながらベレンガリアはイオに近づく。視界の端で豪奢なドレスが揺れる。イオと瓜二つと言われた美貌があった。瞳の色だけがイオと違い薄いグレーの瞳だった。
「お母さまは、私がライネルの皇后になれると、本気で、思ってるのですか?」
なれるわけがない。大国の皇后を務めるほどの度胸なんてそんなものない。
「簡単なことじゃない。あなたはライネルに行けばいいだけよ?」
「皇帝陛下が私なんか相手にするわけないですわ。愛されもしないのに、嫁ぐ意味なんて、」
ベレンガリアが首を傾げる。その顔にはわけがわからないという表情が浮かんでいる。
「意味?意味ならあるわ。あなたが帝国に嫁いだ、その事実だけでライネルとエルドラドの平和的関係が強固となったと言えるのよ」
そうか、これは所詮政略結婚だ。そこに情はない。イオの意思など入る隙なんて無いのだ。
「それにね、イオ。愛されるかどうかなんて関係ないわ。あなたは帝国の皇后としてただいればいいの。愛されなくたってあなたはきっと大切に扱われるわ、大事な大事な平和の象徴ですもの」
ベレンガリアはイオの頬に手を添えて俯く娘の顔を上げさせる。
「大丈夫よ、イオ。知ってるでしょ?皇帝陛下は私の従兄弟よ。シャルールはあなたを大切に扱うわ。綺麗なドレスをたくさん仕立てましょうね、シャルールに嫁ぐのにふさわしいように」
母の笑みがイオにはひどく不気味に見えた。
母にとって私は帝国に贈る綺麗な人形でしかないのかもしれない。




