第6話 その善意、誰の利益ですか
完璧な礼儀は、完璧な善意とよく似ている。
どちらも美しく、どちらも、それだけでは中身を保証しない。
だから私は、お客様を疑うのではなく、確認事項を増やして迎えることにした。
リューデンベルク公爵邸の小書斎で、私は午後の面会に向けた紙を整えていた。
セレスティア・フォン・ローゼンハイム様。
ローゼンハイム侯爵家のご令嬢で、第二王子殿下の新しい婚約者候補と噂される方。
そして、証言は整理して話すように、とリリア様へ助言したと、ご本人の口から名前の出た方だ。
「同席のお知らせは、昨日のうちに届いております」
マルタが書面を差し出した。
先方の同席は、侯爵家の侍女が一名。
こちらは、マルタと、記録を取る公爵家の書記が一名。
当日の同席者を、双方とも事前に書面で知らせ合う。
返書に書いた条件は、そのとおりに守られていた。
礼儀正しい。
申し分なく、礼儀正しい。
「お嬢様は、本日のご面会で、何をなさるおつもりですか」
マルタが遠慮がちに聞いた。
「決めることは、何もありません」
私は即答した。
「今日は、決めない面会です。確認だけをします」
私は紙に、確認事項を三つ書いた。
一つ。リリア様への支援の内容と、その経路。
二つ。その支援に、リリア様ご本人の同意があるか。
三つ。最初の訪問申し込みの時期。
三つ目は、文箱に控えのある小さな未確認事項だ。
侯爵家連名の訪問申し込みの日付は、あの夜会より前だった。
理由は、書かれていない。
「議題のない面会は、たいてい相手の議題で進みます。ですから、こちらの確認事項を先に決めます」
「ご挨拶のご訪問、ではないのでございますか」
「ご挨拶です。先方がそう書いていらっしゃいます」
ご挨拶のために、確認事項一覧を作って待つ令嬢。
我ながら、感じが悪い。
それから私は、机の端の書状に目をやった。
もう一通。
昨日、王宮から届いた、第二王子殿下の御名の書状だ。
リリア様の保護を第一に考えること。
王家の名誉を守ること。
セレスティア様をはじめとする心ある令嬢たちが、リリア様の孤立を防ぐため協力していること。
そして、被害者をこれ以上傷つけないために、私に慎重な態度を求めること。
丁寧な文だった。
ただ、誰が何を決め、誰が責を負うのかは、最後まで書かれていなかった。
この書状の整理は、面会の後に回す。
「マルタ。今日もお願いします。私の味方をするためではありません。私が圧を出していないか、横で見てください」
「承知いたしました」
マルタの返事は、前のときより少しだけ早かった。
役割として受け取ってくれたなら、ありがたい。
約束の刻限ちょうどに、セレスティア様は到着した。
蜂蜜色の髪に、淡い色のドレス。
応接室に入ってきた瞬間、部屋の空気が一段やわらかくなった気がした。
「リューデンベルク様。本日は、お時間をいただきありがとう存じます」
完璧な礼だった。
深すぎず、浅すぎず、敵意も媚びもない。
「ようこそお越しくださいました。どうぞ、お掛けください」
私も型どおりに返す。
席に着くと、セレスティア様は同席の侍女を短く紹介し、こちらの書記の同席を当然のように受け入れた。
記録されることを、嫌がらない。
それは誠実さの印にも読めるし、慣れの印にも読める。
決めない。
私は心の中の表に、未確認、と書いた。
「本来なら、もっと早くご挨拶に伺うべきでしたのに」
セレスティア様は淡い緑の瞳を伏せた。
「あのような場のあとでは、かえってご迷惑かと迷っておりましたの。お会いできて、ほっといたしましたわ」
「ご丁寧に、ありがとうございます」
「リューデンベルク様のことも、案じておりましたのよ。あの夜会は、どなたにとってもお辛い場でしたから」
私のことも、案じていた。
その言葉に嘘の徴を探すことは、誰にもできない。
だから、探さない。
「そういえば」
私は世間話の調子で続けた。
「最初にご訪問のお申し込みをいただいたのは、あの夜会より前の日付でした。あの頃から、私にご用がおありでしたか」
「ご用だなんて」
セレスティア様は、やわらかく首を振った。
「季節のご挨拶を、と考えておりましたの。同じ年頃ですのに、ゆっくりお話ししたことがございませんでしたから。それが、あのような時期と重なってしまって。かえってお気を煩わせたのでしたら、申し訳ないことですわ」
自然な答えだった。
季節の挨拶に、証拠は要らない。
要らないからこそ、確かめようもない。
私は礼を言い、確認事項の一つ目に移った。
「リリア様のことを、伺ってもよろしいですか」
「まあ。リューデンベルク様から、そのお名前が出るとは思いませんでしたわ」
セレスティア様は、扇を軽く開いた。
「リリア様は、まだお心が休まらないご様子です。社交の場に出られるお気持ちには、なれないようで」
「そうですか」
「ですから、私ども親しい令嬢たちで、小さなお茶会を考えておりますの。大勢の目のない場所で、少しずつ慣れていただけるように。リリア様のご回復を、皆で支えていきたいのです」
支える。
回復。
皆で。
どの言葉も、善意としてまっすぐに立っている。
実際、必要な支援でもある。
被害を受けた人が社交界で孤立すれば、回復はさらに遠くなる。
前世の職場でも、長く休んだ人をいきなり大人数の会議へ戻しはしなかった。
小さな場から戻る。
それは、正しい段取りだ。
「よいお考えだと思います」
私は本心から言った。
セレスティア様の扇が、ゆったりと揺れる。
「そう言っていただけて、嬉しいですわ」
「一つだけ、伺います」
私は、声の温度を変えずに続けた。
「ご本人の同意は、お取りですか」
扇が、止まった。
一拍。
卓の上の茶が、湯気を一筋上げるだけの間。
それから扇は、何事もなかったように元の速さで揺れはじめた。
「……大切なことを、伺いましたわ」
セレスティア様は、困ったように微笑んだ。
「実は、まだですの。リリア様のお心が落ち着くのを、待っておりまして。ご本人のお気持ちを差し置いて進めるつもりは、ございません。お茶会のことも、まずリリア様にお伺いを立ててから、と考えております」
完璧な答えだった。
順序も、配慮も、言葉の選び方も。
今ここで私が重ねて問えるものは、何もない。
「安心いたしました」
私は頷いた。
「被害を受けた方の周りでは、よかれと思った支度が、ご本人の知らないところで進むことがあります。それが一番、回復を遅らせますので」
「本当に、おっしゃるとおりですわ」
セレスティア様は、深く同意した。
深く、なめらかに。
面会は、長くは続かなかった。
事件は、何も起きなかった。
誰も声を荒らげず、皮肉の応酬もなく、茶は最後まで温かかった。
「リリア様のことで、私にお力になれることがございましたら、いつでもお知らせくださいませ」
セレスティア様は、最後まで完璧だった。
馬車が門を出るまで見送って、私は応接室へ戻った。
卓の上には、書記の取った記録だけが残っている。
「マルタ。私は、圧を出していましたか」
「いいえ」
マルタは少し考えてから、続けた。
「ですが、一度だけ、お部屋が静かになりました」
「どこでですか」
「お嬢様が、ご本人の同意とおっしゃったときでございます」
マルタにも、あの一拍は見えていた。
私は頷くだけにした。
見えたものは、共有する。
意味づけは、しない。
小書斎に戻り、私は新しい紙を出した。
題名を書く。
利害整理メモ。
「また、何かのお表でございますか」
「人を並べる表です。善意と利益を、分けて書きます」
「善意を疑うのは、失礼ではございませんか」
マルタの声は、責める声ではなかった。
本当に分からない、という声だ。
ここで答えを間違えると、私はただ人の善意をひねくれて見る嫌な人間になる。
「疑うのではありません。確認します」
私は羽根ペンを置いて、マルタを見た。
「セレスティア様のお話は、すべて善意として成立していました。リリア様を支えることは、必要なことです。それは消しません」
「はい」
「ただ、同じ行動が、別の利益にもつながることがあります。セレスティア様は、殿下の新しい婚約者候補と噂される方です。リリア様を支える行動は、殿下のお側での評判にもなります」
「それは、お人柄を悪く言うことには」
「なりません。こういう状態を、利益相反と呼びます」
「りえき、そうはん」
「利益相反です。善意が嘘だという意味ではなく、判断が歪む可能性があるという意味です」
マルタは、すぐには頷かなかった。
それでいい。
これは、飲み込みにくい話だ。
私は一行目に、今日のお客様の名前を書いた。
◆ 利害整理メモ案
項目 :利害 IC-001
関係者 :セレスティア・フォン・ローゼンハイム
表向きの主張:リリア様のご回復を皆で支える
守りたいもの:侯爵家の面子、第二王子との関係、リリアの安全
得られる利益:第二王子との婚約再編に有利
失うと困るもの:保護が政治利用と見られること
説明責任 :保護と婚約再編の関係説明
未確認事項 :関与範囲、本心、リリア様本人の同意
状態 :情報不足
◇
未確認事項の欄が、面会の前より一つ増えた。
リリア様本人の同意。
まだ取っていないと、ご本人がおっしゃった。
これからお伺いを立てると。
それは、記録できる事実だ。
そして、扇が止まった一拍は、書かなかった。
一拍は、確かにあった。
けれど、紙に書けば、読む人の解釈を誘導する。
止まった理由は、図星だったからかもしれないし、問いが意外だっただけかもしれない。
私が見たのは、扇が止まったことだけだ。
その先は、書かない。
「仮説も、並べておきます」
◆ 利害整理メモ案
項目 :仮説 H-001
仮説 :セレスティア様は本気でリリア様を保護している
支持する材料 :面会での発言は一貫して保護と回復を述べた
反証または未確認:本心は未確認。本人の同意は未取得
状態 :未確認
◇
「仮説、でございますか」
「はい。本気で守ろうとしている。守りながら、婚約再編にも使っている。あるいは、どなたかに言葉だけ使われている。今は、どれにも決められません」
「一番それらしいものを、お選びにならないのですか」
「選びません。選ぶと、その後の情報を都合よく拾ってしまいます」
私は紙を軽く叩いた。
「仮説は、断罪ではありません。確認するための札です」
マルタは紙を見つめ、それから小さく言った。
「ですが、善意であっても、誰かの利益になることはある……のですね」
「あります。そして、それ自体は悪ではありません。悪いのは、利益があるのに、ない顔をして人を動かすことです」
私は机の端から、昨日の書状を引き寄せた。
第二王子殿下の御名の書状。
リリア様の保護。
王家の名誉。
心ある令嬢たちの協力。
私への、慎重な態度の要求。
三度読み直しても、結論は変わらなかった。
「決裁権限の説明がありません」
「はい」
「証拠確認の説明がありません」
「はい」
「そして、殿下ご自身が何を決め、何に責任を負うのかが、どこにもありません」
マルタが、ためらいがちに言った。
「殿下のお言葉は、どなたかが整えた文のように聞こえます」
「重要な観点です」
整いすぎた文には、責任の主語がない。
保護を求める言葉は強いのに、その保護を誰が決め、誰が負うのかが書かれていない。
殿下の言葉なのに、殿下の責任がどこにもない。
私はメモの末尾に、説明責任の項目を作った。
◆ 利害整理メモ案
項目 :説明責任 AC-001
対象 :アルフォンス・レーヴェンハルト
説明すべきこと:婚約破棄を急いだ理由と決裁権限
現状 :書状に本人の責任説明が不足
次アクション :清書議事録に添付して宰相府へ提出
◇
最後に、自分の行を書く。
◆ 利害整理メモ案
項目 :利害 IC-005
関係者 :エレオノーラ
表向きの主張:自分の罪と捏造を切り分ける
守りたいもの:贖罪、家名、被害者保護
得られる利益:破滅回避、信頼回復の入口
失うと困るもの:自分の都合で被害者を利用すること
説明責任 :自分に不利な事実も記録する
未確認事項 :罪状の真偽
状態 :対応中
◇
「お嬢様まで、お入れになるのですか」
「入れます。私も利害関係者です。自分を欄の外に置いた表は、急に都合がよくなりますから」
マルタは、しばらく私を見ていた。
怖がっているだけの目ではない。
観察している目だ。
それでいい。
信じるかどうかは、彼女の権利だ。
書き終えた利害整理メモを、私は提出用の束の隣に置いた。
清書議事録。
被害者要求整理メモ。
証言利用リスクメモ。
そして、今日の利害整理メモ。
「これも、宰相府へお出しになるのですか」
「はい。清書議事録の、添付確認資料にします。期限は、明日の正午です」
断定は、書いていない。
処分案も、書いていない。
書いたのは、誰が何を説明すべきか、だけだ。
それでも、と私は殿下の書状をもう一度見た。
記録は、静かに人を問う。
面会は穏やかに終わり、書状は丁寧に書かれ、誰も声を荒らげていない。
それでも紙の上には、本人の同意がまだないことと、本人の責任説明がないことが、事実として並んでいる。
明日の正午。
宰相府の机の上で、この静かな紙の束は、最初の問いを発するだろう。
殿下の御名の書状に、殿下がいないのはなぜですか、と。




