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婚約破棄ですね。では議事録を取ります 〜元ベテランPMの悪役令嬢は、破滅フラグをリスク登録簿で管理する〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ


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第36話 支払いは、感謝では代わりません

昨日の進捗確認表が、まだ机の中央にあった。


本邸へ返した一枚の控えだ。


薪の行にも穀物の行にも、次の一手が書いてある。


ただ一つ、薬草箱の行の末だけが空いていた。


運び賃を、誰が払うのか。


その空欄に、私は赤ではなく黒で線を引いた。


赤は誰の手落ちかと問う時の色だ。


黒で引く。


止まった場所に名をつけるための線。


咎める線ではない。


「お嬢様」


戸口で運送人が革帯を握っていた。


土間の荷車に、昨日積んだ薬草箱が三つ。


蓋を重ねたまま門を出ていない。


「替え馬のことで、参りました」


「替え馬」


「薬草箱を救貧院まで運ぶにはもう一頭、馬が要ります。坂の手前で一頭では保ちません」


運送人が土間の外の厩の方へ目をやった。


「その一頭は、出せますか」


「出せます。ただ、その一頭にも飼葉が要ります」


運送人の声がそこで低くなった。


「余分の飼葉を誰の名で頼むのか。それが分からねば、私の桶から減らすことになります」


桶から減らす。


頼まれれば運ぶ。


賃は後でまとめて。


その後でまとめての間、飼葉桶を持ち出していたのはこの男だった。


「これまでも、そうしてこられたのですか」


「左様で。家の名で頼まれれば、馬は出します。飼葉は、こちらが先に」


「先に立て替えて」


「立て替えという言葉は使いませんでした。ありがたいことだと思っておりましたので」


ありがたい。


昨日も、同じ言葉を聞いた。


頭を下げられても、桶の飼葉は減ったままだ。


感謝は馬の飼葉にならない。


名誉ある御用という言葉も、馬の腹は満たさない。


私は控えの薬草箱の行をもう一度見た。


止まっているのは裁可ではない。


縄でも、馬でもない。


止めているのは、その飼葉を誰の名で頼むかがどこにも書かれていないことだった。


「現場書記」


戸口の内で書記が紙束を抱え直した。


「これまでの運び賃は、帳面のどこに残っていますか」


書記が土間の奥の棚から薄い帳面を持ってきた。


開いて、私は運び賃の並びを上から見た。


運んだ日。


運んだ荷。


それは書いてある。


賃を、いつ、誰の名で払ったか。


その三つの欄が、どれも後でまとめてのままだった。


「後でまとめて、と書いて、その後がありません」


「払われては、おります。ただ、いつ誰の名でまでは私どもの帳面には」


書記の指が紙束の縁に戻った。


払われている。


けれど、確かめる先がない。


運送人が飼葉を先に出し、それが後でまとめてで均されてきた。


均されているうちは、回る。


回っているうちは、誰も止まらない。


止まるのは、桶が空いた朝だ。


「材料商の置き場も、同じでございます」


倉庫係が荷車の脇から口を開いた。


聞かれる前に、自分から言った。


「穀物の雨除けの布を待つ間、麻袋を商人の軒下に置かせてもろうております。その場所代も後でまとめてで」


布を待つ穀物。


その穀物を預かる軒下。


軒下を貸す材料商も、後でまとめてで貸していた。


飼葉と、置き場。


立て替えているのは運送人だけではない。


私は白紙を一枚、机の中央へ置いた。


「では、誰が払うかを先に書きます」


「叱る相手を、でございますか」


書記が聞いた。


「誰も叱りません。誰が確かめ、誰が裁可するか。それを書くだけです」


私は白紙へ、六つの言葉を縦に分けた。


対象。


支払い元。


確認先。


現場条件。


未確認。


次アクション。


「金額は、ここには書きません」


私は支払い元の欄で筆を止めた。


「公爵家の財布の中身を、私は知りません。知らないものは、書けません」


知らないことを、知った顔で埋めない。


埋めれば、それは私が勝手に決めた数字になる。


「ここで決めるのは金額ではありません」


私は確認先の欄を指した。


「誰が確認し、誰が裁可するか。それだけです」


筆を進めて、私は表題に帳票の名を書いた。


◆ 支払い確認表

対象    :薬草箱の搬出に伴う替え馬の手配

支払い元  :本邸の家政(確認中)

確認先   :本邸の帳面と、運び賃を裁可する家令

現場条件  :替え馬一頭、その飼葉、人手半日分

未確認   :替え馬分の運び賃を、誰の名で持つか

次アクション:確認先と裁可の可否を、本日中に本邸へ照会する


書き終えて、私は支払い元の欄を見た。


確認中。


空けたのではない。


知らないと書いて、確かめる先を次アクションに移しただけだ。


「これを本邸へ上げます。現場で抱える話ではありません」


「私どもでは、決められませんので」


運送人が戸口で言った。


声に、まだ身構えが残っている。


「決められません。家政の裁可です。けれど、決められないことと止まったままにすることは違います」


私は確認先の欄を指でなぞった。


「確かめる先が書ければ、あなたは替え馬を頼めますか」


運送人の手が革帯の上で止まった。


「頼めます。飼葉も、私の桶からでなく、その名で」


「その名で」


「誰が持つかが紙にあれば、商人にそう言って余分の飼葉を出してもらえます」


確認先が一つ書かれれば、馬が一頭増える。


頭を下げても、馬は増えなかった。


確かめる先の名が、馬を増やす。


「支払いが曖昧な仕事は、善意で燃えます」


私は言った。


「燃えるのは、あなたの桶です。家の名で頼まれた人ほど断れずに先に出します。いつか桶が空になります」


「前に、隣の村の運び手が一人、馬を手放しました」


運送人が低く続けた。


「家の御用は名誉だと、皆そう申します。ですが名誉では、馬の蹄鉄は打ち替えられません」


蹄鉄。


飼葉。


桶。


名誉という言葉の下で、すり減っていたのは物だった。


「その方は、確かめる先を持てなかったのですね」


「持てませんでした。誰に聞けばよいかも分からぬまま、桶が空きました」


運送人が初めてまっすぐ私を見た。


「感謝は、受け取りました」


私は支払い確認表を畳んだ。


「ですが、感謝では運び賃は払われません。誰がいくらいつ払うか。額は本邸が決めます。確かめる先だけ、私が先に置きます」


私は支払い確認表を、若い従僕に渡した。


本邸の家政へ届け、家令の確かめを待つ。


「返事が来るまでは」


書記が聞いた。


「薬草箱はここで待ちます。けれど棚ではなく、門の手前で待たせます」


棚の上で待った薬草箱と、同じだ。


待つ場所が門に近いほど、確認先が埋まったその日に出る。


「荷車を門の内側まで寄せてください」


倉庫係が荷車の梶を取った。


若い使用人が二人、後ろから車輪を押す。


昨日まで、私が一歩寄れば壁際まで下がった者たちだ。


今日は荷車の方へ足が向いている。


私の顔は、まだ見ない。


それでも三箱を載せた荷車が、土間から門の内へ進んでいく。


蔵を出てはいない。


門を出てもいない。


それでも棚の上とは違う。


確認先が埋まったその時、門の内側からならすぐに出ていける。


「薬草は、二日のうちなら間に合うと伺いました」


倉庫係が荷車の三箱を見た。


「救貧院の年寄りに、寒が来る前に配る分でございます」


二日。


昨日、そう聞いた数字だ。


確認先さえ戻れば、二日を待たずに出る。


照会の返事は、昼を過ぎてから戻った。


書記が、上等な封ではなく薄い紙のまま机へ運んできた。


「お嬢様。本邸からのお返しが一枚」


私はその紙を開いた。


下の方に家令の印が一つ。


短い文だった。


この一件の替え馬の運び賃は後払いで家政が持つ。


確かめる先は家令、帳面は本邸の帳面に付ける。


それだけが印の上に書いてあった。


額は、書かれていない。


私が尋ねなかったからだ。


尋ねたのは、誰が持ち誰が確かめるか。


その二つだけに、印が返ってきた。


後払いは、これまでもそうだった。


変わったのは、その後払いに名と印がついたことだ。


後でまとめての後ろに、初めて家令の印が立った。


私は前に一度、外の商人を潰さぬよう、受ける条件を先に紙へ書いたことがある。


断れる先がなければ、頼みはそのまま圧になる。


同じだ。


運送人を潰さぬよう、頼む先の名を先に置く。


私は支払い確認表の控えを引き寄せた。


支払い元の欄の、確認中。


その横へ、戻ってきた言葉を写した。


後払い、家政が持つ。


確認先、家令の印。


私の整えた言葉は一字も足さない。


印の上の文を、そのまま欄へ移すだけだ。


「運送人」


私は戸口の男を見た。


「替え馬を、家令の名で頼んでください。飼葉は本邸の帳面につきます」


運送人が革帯から手を離した。


「では、出してまいります」


厩から、もう一頭が引かれてくる。


運送人が二頭を荷車の前へ並べた。


縄を掛け直し、轅へ繋ぐ。


飼葉桶へ、新しい飼葉が一掬い足される。


その飼葉はもう運送人の桶からではない。


家令の印の上に、名のついた飼葉だ。


「荷を確かめます」


倉庫係が三箱の蓋を順に押さえた。


留め金が外れていないか。


縄が緩んでいないか。


一番下の箱の留め金を、若い使用人が指で確かめた。


聞かれる前に、自分から手を伸ばしている。


私の顔は、やはり見ない。


それでも箱の方は、確かに見ていた。


「緩みは、ございません」


倉庫係が言った。


「では、門を」


若い使用人が二人、門の閂を外した。


両開きの門が外へ開く。


冬支度の朝の冷えた風が、土間へ入ってきた。


運送人が轅の脇で手綱を取った。


二頭がゆっくりと踏み出す。


荷車の車輪が、土間の敷石から門の敷居を越えた。


薬草箱を載せた荷車が門の外へ出ていく。


棚の上で三日、止まっていた箱だ。


荷車の脇で幾日、置かれていた箱だ。


荷の上で幾日、出番を待っていた箱だ。


その三箱が今、門の外の坂道へ向かっている。


止めていたのは、誰の手でもなかった。


止めていたのは、運び賃を確かめる先がないことだった。


その一点に名と印がついて、箱は動いた。


「お嬢様」


マルタが、門の外へ遠ざかる荷車を見た。


「薬草箱は、動いたのでございますね」


「動きました。五日ぶりに門を出ました」


私は支払い確認表の控えの、対象の行を指でなぞった。


薬草箱の搬出。


その一行だけが今、現物として坂道を上っていく。


「では、薪も穀物も」


「まだです。薪は、この荷車が戻ってから南村へ。穀物は布が届いてからです」


動いたのは、一台分だ。


薪も穀物も水路の資材も、まだ門の内側にある。


一つが動いたからといって、冬支度の全部が片づいたわけではない。


「ですが、止まっていた箱が一つ、確かに門を出ました」


私は控えの薬草箱の行に、もう一本線を引いた。


今度は消す線ではない。


動いたという印の線だ。


荷車が坂の上へ消えると、土間は急に静かになった。


机の上に、支払い確認表の控えと、家令の印の戻った薄い紙。


その二枚を並べて、私はもう一度、確認中と書いた欄を見た。


確認先は、埋まった。


後払いで家政が持つ、と印も返った。


けれど、いくら払うのかはまだどこにも書かれていない。


替え馬の飼葉が、今日いくらかかったか。


これまで運送人が桶から何度、飼葉を持ち出してきたか。


材料商の軒下を、何日借りてきたか。


その数は、後でまとめての中でずっと均されたままだ。


確認先が決まったことと、これまでの立て替えを精算することは別の手だ。


薬草箱は動いた。


動いたが、動かすために誰がどれだけ先に出したのかは、まだ誰も数えていない。


「マルタ」


私は控えの端へ、新しい欄を一つ足した。


「良くなった所と、まだ残った所を近いうちに並べ直します」


「並べ直す」


「箱が出たのは、良くなった所です。飼葉と置き場を誰が先に出したか。それはまだ残った所です」


「数えれば、足りぬ分が出てまいりますね」


「出ます。そのために数えます」


「足りぬと分かって、どうなさいます」


「足りぬ分を誰の名で返すか。それを本邸へ上げます。現場に飲ませたままにはしません」


飲ませたまま。


前の冬、現場に飲ませたものは叱責だった。


今度は、立て替えだ。


形は違う。


けれど、現場が黙って背負う点は同じだ。


均してきたものを、一度ばらして見る。


成功した所。


まだ終わっていない所。


誰がどれだけ背負ったか。


次に、どこを直すか。


その四つに分けて並べ直さなければ、また別の桶が別の朝に空く。


「今日は、ここまでです」


私は支払い確認表の控えと、家令の印の紙を別の束に重ねた。


埋まった確認先と、まだ数えていない立て替え。


同じ束にはしない。


混ぜれば、動いたことに紛れて、誰かの桶が空いたことが見えなくなる。


門の外では、坂を上りきった荷車が救貧院への道へ折れていく頃だ。


机の上に、後でまとめての中で、まだ均されたままの数が残っている。


誰が、どれだけ先に出してきたのか。


それを数えるのは、家令の仕事ではない。


明日、運送人と材料商へ向けて、こちらから問いを出す。


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