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婚約破棄ですね。では議事録を取ります 〜元ベテランPMの悪役令嬢は、破滅フラグをリスク登録簿で管理する〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ


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第20話 交渉は、代替案を持って席につきます

「交渉は、席につく前に代替案を用意します」


商会の代表は、私の紙束ではなく、壁に掛かった王宮紋章を見ていた。


だから最初に、頼みごとではなく、断れる条件から確認することにした。


王宮内の商会面談室は、資料室より少し狭い。


長卓の上には、同意確認メモ、提案影響メモ、変更要求一覧の写しが置かれている。


紙だけを見ると、ずいぶん整理されたように見える。


本人コメント案は不可。


本名と家名の使用も不可。


匿名の支援対象例は、文面確認待ち。


寄付窓口案内の札文案は、商会側で清書準備に入っている可能性がある。


一時停止の伝達は出ている。


けれど、商会の手元でどこまで止まったかは、まだ戻っていない。


紙の上では「条件調整待ち」と一行で済む。


現場では、その一行の向こうに、筆を持つ人、木枠を削る人、布を裁つ人がいる。


商会代表は、深く礼をした。


年の頃は四十代半ばだろうか。


上質だが控えめな上着を着て、腰の低い笑みを浮かべている。


その目だけが、私ではなく王宮紋章へ何度も向かう。


同席者は、グレアム閣下、マルタ、宰相府書記官、儀典準備室担当官。


ヴィクトル殿下は別室に控え、必要があれば採否や王族名義の判断を受ける形になった。


ここで決めるのは、王族の方針ではない。


商会が受けられる条件と、受けてはいけない条件だ。


「本日は、寄付窓口案内と掲示物修正の条件確認です」


私は、提案影響メモを商会代表の前へ滑らせた。


「採用を命じる席ではありません」


商会代表は、すぐに頭を下げた。


「もちろんでございます。王宮のご用命であれば、当方としては可能な限りお応えいたします」


美しい返事だった。


けれど、交渉としては危ない。


可能な限り。


王宮相手にその言葉を出す時、たいてい「できません」とは言えない。


「可能な限り、の範囲を確認します」


私は、交渉準備メモを開いた。


「その前に一つ。今回の条件に合わない場合、商会側が断った、あるいは王宮に非協力的だったとは扱いません」


商会代表の指が、膝の上で小さく止まった。


グレアム閣下が、私を見た。


「リューデンベルク嬢」


「はい。私にその約束をする権限はありません」


言ってから、私はグレアム閣下へ向き直る。


「ですので、宰相府確認書が必要です」


私は、紙面の空欄を指した。


「条件外の作業は再見積りに戻す。不採用や保留を、商会の不利益扱いにしない」


商会代表が、息を詰める。


「少なくとも、そう記録できる紙がなければ、商会は断れません」


グレアム閣下は、しばらく黙った。


面倒なことを言っている自覚はある。


だが、ここを曖昧にすると、交渉ではなくなる。


王宮側が「できるか」と聞く。


商会側は「できます」と答えるしかない。


そのあとで職人が倒れる。


それは、計画ではない。


「書記官」


グレアム閣下が言った。


「条件外作業の再見積り、不利益扱い回避、発注元確認を宰相府確認書の案に入れろ。効力範囲は後で確認する」


「承知しました」


宰相府書記官の羽根ペンが動く。


商会代表は、そこで初めて私の紙束を見た。


「お嬢様」


マルタが小さく言った。


「今のは商会の方が断ったのではなく、断ってよいかを確かめたのだと思います」


「はい」


私は頷く。


「席を立てない交渉は、お願いです」


商会代表が、息をのみかけた。


私は慌てて言葉を足す。


「失礼しました。商会側を責めているのではありません。断れる条件がなければ、王宮側の確認がそのまま圧力になります」


「いえ」


商会代表は、ゆっくり首を振った。


「その通りでございます」


声はまだ丁寧だ。


けれど、さっきより少しだけ、言葉の底が見えた。


「では、現在の状況を教えてください」


私は、札文案の写しを示した。


「寄付窓口案内の清書準備は、どこまで進んでいますか」


商会代表は、儀典準備室担当官へ一度視線を向けた。


担当官が頷く。


「商会側からお答えください」


「はい」


商会代表は、膝の上の手を組み直した。


「寄付窓口案内の札文案は、清書板の木枠を押さえ、筆耕の職人を一名、明朝から入れる手配でした」


明朝。


紙の上の「早めに知らせる必要がある」が、急に音を持った。


「一時停止の伝達は届いております。ただ、すでに職人の枠は取っております。材料の一部も切り出し済みです」


「清書そのものは」


「まだでございます。ですが、文面が明朝までに確定しない場合、予定していた掲示位置には間に合いません」


私は、メモに線を引いた。


清書未着手。


木枠と職人枠は手配済み。


材料一部切り出し済み。


明朝までに文面確定が必要。


「匿名の支援対象例を入れる場合はどうなりますか」


商会代表の口元が、わずかに固くなった。


「文面の長さによります」


「率直にお願いします」


「寄付窓口案内とは別の札にする方が安全です。同じ札に入れると、字数と余白の調整が必要になります」


「別の札なら間に合いますか」


「重要箇所だけでしたら」


商会代表は、そこで言葉を止めた。


「全箇所は難しい、ですね」


私が確認すると、彼は深く頭を下げた。


「申し訳ございません」


「謝罪ではなく、条件として記録します」


私は、白紙に項目を置いた。


◆ 交渉準備メモ

項目    :交渉準備メモ N-020-001

対象    :寄付窓口案内、匿名の支援対象例、掲示物修正

交渉目的  :王宮側の希望、商会側の制約、譲歩可能条件、譲歩不可条件、代替案を分ける


譲歩可能  :匿名の支援対象例を外す、重要箇所限定、簡易札、既製枠流用、数量縮小

譲歩不可  :本人確認前の文面、本人コメント案、発注元不明の作業、当日搬入、職人の徹夜前提

代替案   :文面未確定なら、匿名の支援対象例なしで救済事業紹介と寄付窓口案内を進める


読み上げが終わると、商会代表は黙ったまま紙を見つめた。


儀典準備室担当官が、少し身を乗り出す。


「匿名の支援対象例を外す、というのは、保護姿勢を弱めることになりませんか」


当然の懸念だ。


私は頷いた。


「弱める面はあります。ですが、本人の文面確認が終わらないまま清書すれば、本人の条件を破ります」


同意確認メモへ視線を落とす。


リリア様が置いた線。


それを守ることは、王宮の姿勢を弱めることではない。


「匿名の支援対象例は、入れればよいというものではありません。文面確認を待てないなら、今回は入れない方が安全です」


「救済事業紹介だけでは、具体性が落ちます」


担当官が言う。


「はい。ですので、代替案です」


私は、掲示物の配置案へ指を置いた。


「救済事業紹介と寄付窓口案内は残します」


私は、掲示物の中央を指した。


「王家の保護表明は、個人を連想させない一般文にする」


それから、余白の別札候補へ指を移す。


「匿名の支援対象例は、文面確認が間に合った場合だけ、重要箇所に別札で添えます」


グレアム閣下が、低く言った。


「文面確認が間に合わなければ」


「入れません」


その言葉で、部屋が静かになった。


誰かを守る提案から、誰かの事例を外す。


一見、冷たく見える。


でも、本人の線を破って温かく見せる方が危ない。


「本人コメント案は不可。本名と家名の使用も不可」


私は、同意確認メモの該当欄を押さえた。


「匿名の支援対象例は文面確認待ちです」


商会代表の視線が、紙と私の指先を行き来する。


「確認待ちのものを、職人の徹夜で清書して既成事実にすることはできません」


マルタが、小さく頷いた。


商会代表は、そこで初めて長く息を吐いた。


「その扱いでしたら、重要箇所の別札は可能です」


「条件をお願いします」


「文面確定は、明日朝の第二鐘まで」


商会代表は、そこで一度言葉を切った。


「文面が未確定の場合、匿名の支援対象例は今回分から外します」


宰相府書記官が、短く復唱する。


「未確定なら、今回分から外す」


「はい。寄付窓口案内は、既存の木枠を使います。文言は救済事業紹介と寄付受付場所に限定します」


宰相府書記官が復唱する。


「明日朝の第二鐘まで」


「はい」


「搬入は建国祭前日の昼まで」


商会代表は続けた。


「以後の差し替えは、紙札か布札のみでお願いしたく存じます。当日搬入は、警備確認が必要になります」


儀典準備室担当官の顔が険しくなった。


「当日朝の式次第変更は」


「式次第の紙は別です。掲示物の木枠と飾りは動かせません」


商会代表の声が、初めて少しだけ強くなった。


すぐに彼は頭を下げる。


「失礼いたしました」


「失礼ではありません」


私は言った。


「今の一文が、必要な条件です」


商会代表は、また黙った。


今度の沈黙は、怯えだけではない。


言ってよいのかを確かめている沈黙だった。


「予備装飾品はどうですか」


私が尋ねると、商会代表の肩がわずかに落ちた。


「花綱と銀糸布は、数量を減らせます。飾り燭台は、追加分をやめれば既存数で足ります」


儀典準備室担当官が、すぐに言う。


「地方代表の控え導線から見える箇所は削れません」


「そこは削りません」


私は、掲示位置の写しを見た。


「寄付窓口案内の周辺と、支援対象例の別札を置く予定だった箇所から削ります。匿名の支援対象例が未確定なら、その周辺装飾も減らせます」


「華やかさが落ちます」


「落ちます」


私は認めた。


「ですが、未確定文面のために職人を夜通し動かすよりは、落とすべきです」


商会代表の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。


笑みではない。


こらえていたものが出そうになった顔だった。


「王宮のご用命をお断りするなど、我々にはできません」


彼は、最初と同じ言葉を繰り返した。


けれど、今度は続きがあった。


「ですが、この納期でこの数量は、職人を潰します」


部屋の空気が止まった。


儀典準備室担当官が、唇を引き結ぶ。


グレアム閣下は、目を細めた。


「王宮が、断れない相手に無理を言っていたということか」


「王宮だけではありません」


私は言った。


「王族名義、付き書記の伝言、儀典側の前例、侯爵家側に近い提案、善意の文面。すべてが少しずつ、商会と職人の手元で一つの納期になります」


紙の上では別々の項目でも、現場では一つの夜になる。


札を直す夜。


布を裁つ夜。


木枠を削り直す夜。


間違えれば王宮の面子を傷つけると知りながら、眠らずに手を動かす夜。


「潰れる職人を前提にした納期は、計画ではありません」


言葉にしてから、少し強かったかと思った。


けれど、誰も止めなかった。


マルタも、袖を引かなかった。


グレアム閣下が、宰相府書記官へ視線を送る。


「譲歩不可条件として記録しろ」


「職人の徹夜前提、当日搬入、発注元不明の作業継続を譲歩不可。記録します」


「加えろ」


グレアム閣下の声が低くなる。


「商会が条件外作業を断っても、王宮取引への不利益扱いをしない。確認書案として上げる」


商会代表は、深く頭を下げた。


今度の礼は、形式だけではなかった。


「ありがとうございます」


「感謝される前に、条件を確定しましょう」


私は、少しだけ表情を緩めた。


「合意は、紙にして初めて現場へ渡せます」


そこからは、早かった。


寄付窓口案内は、救済事業紹介と受付場所に限定する。


匿名の支援対象例は、明日朝の第二鐘までに文面確認が終わった場合のみ、重要箇所に別札で添える。


文面未確定なら、今回は入れない。


本人コメント案、本名、家名は入れない。


予備装飾品は、地方代表側と王族導線から見える箇所以外を削る。


搬入は建国祭前日昼まで。


以後の変更は、紙札か布札の差し替えに限る。


支払い責任は、宰相府確認書つきの変更発注として扱い、発注元不明の作業は進めない。


宰相府書記官が、別紙の上に表題を置いた。


商会条件メモ。


全部が理想ではない。


だが、現場が動ける条件になった。


商会代表は、卓上の紙へ目を落としたまま立ち上がり、退出の礼をした。


扉の前で、その足が止まった。


「……代替案を、こちらの分までご用意くださる方がいらっしゃるとは思っておりませんでした」


振り返った顔から、腰の低い笑みが消えていた。


「王宮のご用命は受けるしかないものと、心得てまいりましたので」


「代替案がなければ、交渉ではなく懇願になります」


私は答えた。


「懇願は、対等な合意を作れません」


商会代表は、まばたきを一つした。


それから、入室のときよりも深く頭を下げた。


王宮紋章にではなく、私と卓上の紙に向けた礼だった。


商会代表が退出したあと、面談室には紙の音だけが残った。


儀典準備室担当官が、疲れたように額を押さえる。


「これで、掲示物は進められます」


「進められる条件はできました」


私は言った。


「ただし、採用が決まったわけではありません」


担当官の手が止まった。


グレアム閣下が、私を見る。


「続けろ」


「商会条件は、実施可能な範囲です。採否は別です」


私は、卓上の紙を一枚ずつ見た。


「匿名の支援対象例を入れるか。王家の保護表明を、誰の名で出すか」


そこで、寄付窓口案内の札文案へ視線を移す。


「寄付窓口案内を、誰の責任で掲示するか」


そこは、まだ決まっていない。


宰相府書記官のペンが、また止まった。


止まって当然だ。


今の会議は、条件調整の場だった。


けれど、紙が整うと、人はつい決まった気になる。


「宰相府確認書も、採否承認ではありません。商会が断れる条件を守るための補助です」


マルタが、小さく息を吐いた。


「進める紙が増えたのに、決める紙ではないのですね」


「はい」


私は頷いた。


「話す会議と、決める会議を分けなければなりません」


グレアム閣下が、苦い顔で笑った。


「また会議か」


「はい」


同意確認メモ。


提案影響メモ。


交渉準備メモ。


商会条件メモ。


どれも、必要な紙だ。


けれど、どれも決裁印ではない。


「次に必要なのは、相談事項、採否判断、承認事項、実施条件を分けることです」


この整理は、このまま別室のヴィクトル殿下へ報告する。


面談室の扉の向こうには、ヴィクトル殿下がいる。


その先には、アルフォンス殿下の名義、セレスティア様に近い提案、リリア様の線、儀典準備室の前例、商会と職人の限界がある。


全部を一つの席に載せれば、また誰かが、断れないまま頷く。


それだけは避けなければならない。


交渉は終わった。


けれど、決める会議は、まだ始まってもいなかった。


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