第2話 破滅フラグ登録簿
婚約破棄は、いったん保留。
つまり、プロジェクトは炎上したまま、会議だけが終わった状態である。
最悪だ。議事録があるぶん、前職よりは少しましだけれど。
「エレオノーラ嬢」
王宮小ホールの隣にある控え室で、グレアム宰相は静かに言った。
小ホールの扉は閉じている。けれど向こう側には、まだ人の気配があった。
会議後の廊下でよく見る空気だ。
「先ほどの記録は、明朝までに清書できるか」
「可能です」
私は即答してから、前世の感覚で条件を足した。
「ただし、私の記憶と手元の走り書きだけでは不十分です。証言者、発言者、決裁者の確認が必要です。事実と推測が混ざったまま清書すると、あとで資料の信頼性が落ちます」
グレアム宰相の目が、細くなった。
怒っているわけではない。
「自分に不利な発言も残すのか」
「残します」
アルフォンス殿下の断罪には、誇張があった。証拠も示されていない。決裁権限も怪しい。そこは否定すべきだ。
けれど、すべてが嘘ではない。
マルタに人前で強く叱ったこと。
下級貴族の令嬢の言葉を、家格を理由に遮ったこと。
リリア様に、第二王子の隣に立つなと圧をかけたこと。
それらは、私の中に記憶として残っている。
前世の私ではない。けれど今の私は、エレオノーラ・フォン・リューデンベルクだ。
やったことを、なかったことにはできない。
「自分に不利だから外す記録は、議事録ではなく言い訳です」
言ってから、少し強すぎたかもしれないと思った。
だがグレアム宰相は、かすかに口角を動かしただけだった。
「ならば、その癖は大切にするといい。権力者ほど、自分に不利な記録を嫌う」
それは助言なのか、警告なのか。判断するには材料が足りない。
私は頭の中に、仮の分類を置いた。
グレアム宰相。
役割、王宮側の決裁者候補。目的、王家リスクの抑制。態度、観察中。
信頼度、未定。
未定は空欄ではない。未定として管理する。
「期限は明朝でよろしいでしょうか」
「正午まででよい。君も今夜は疲れているだろう」
「ありがとうございます。では、正午を期限として記録します」
「君は、休むことまで記録で管理するのか」
「休息は稼働維持に必要です」
グレアム宰相は、今度こそ明らかに笑いをこらえた。
私は笑われるようなことを言っただろうか。
「馬車を回させよう。リューデンベルク公爵家には、宰相府より追って連絡する」
「承知しました」
私は一礼した。
部屋を出る前に、グレアム宰相がもう一度だけ声をかけた。
「エレオノーラ嬢」
「はい」
「今日、君は断罪を逃れたわけではない」
「はい」
「ただ、手続きのない断罪を止めただけだ」
背筋が冷えた。
正しい。
この人は、そこを見誤らない。
「認識一致です」
思わず前世の言葉が出た。
グレアム宰相は、また少しだけ目を細めた。
「不思議な言い方をする」
「申し訳ありません。癖です」
「いや。癖は、人を知る手がかりになる」
扉が閉じる直前、その言葉だけが耳に残った。
馬車に乗り込むと、夜気が頬に触れた。
王宮の灯りが窓の外を流れていく。金の装飾。白い石壁。磨き上げられた車内。どれも、前世の私には縁のないものだった。
そして窓に映る自分の顔。
整っている。
あらためて見ると、ちょっと引くほど整っている。
白い肌。長い睫毛。銀色がかった髪。目元は少しきつい。黙っていると、高慢で冷たい令嬢に見えるだろう。
でも、美人だ。
前世の私は、清潔感と表情管理で仕事の印象を整えるタイプだった。美人枠ではない。
だから、正直に言う。
少し浮かれた。
いや、だいぶ浮かれた。
十代後半の体力。寝不足の隈がない目元。しかも公爵令嬢。
けれど、次の瞬間。
マルタの怯えた顔が浮かんだ。
リリア様の震えた肩が浮かんだ。
アルフォンス殿下の隣で囁かれた、ローゼンハイム侯爵令嬢の名が浮かんだ。
浮かれた気持ちは、馬車の床に落ちた。
若くて美しい。
公爵令嬢。
第二王子の婚約者。
それらは資産であると同時に、リスクでもある。
「棚卸しをしよう」
誰に聞かせるでもなく、私は呟いた。
炎上案件で最初にやることは、現状把握だ。
怖い順ではない。
声が大きい順でもない。
影響が大きい順だ。
そこを間違えると、燃えている屋根を見ながら花瓶の水を拭くことになる。
私は招待状の裏に、羽根ペンで小さく書き始めた。
婚約破棄。
王家への不敬。
公爵家の責任追及。
リリア様への加害。
マルタへの叱責。
悪評の拡散。
第二王子の保身。
ローゼンハイム侯爵令嬢。
実家内部の状況。
書けば書くほど、項目が増える。
最悪だ。
ただし、見えていない最悪よりはましだ。
「破滅フラグは、感情で怖がるものではなく、登録して監視するものです」
言ったあと、自分で少し笑った。
誰に説明しているのだろう。
たぶん、私自身にだ。
公爵邸に戻ったとき、玄関広間の灯りはまだ落ちていなかった。
侍従たちが一斉に頭を下げる。視線が私の顔を避ける。誰も、王宮で何があったのかを聞かない。
聞かないのではない。
聞けないのだ。
前のエレオノーラなら、余計なことを尋ねた使用人を叱っただろう。私はその記憶を持っている。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
「お嬢様」
階段の下に、マルタが立っていた。
茶色の髪をきっちり結い、白いエプロンを整えている。顔色は悪い。背筋は伸びているのに、指先だけがかすかに震えていた。
私が叱ったときも、その指は震えていた。
あのときの私は、震えている理由を考えなかった。
失敗したから震えている。叱られて当然だから震えている。そう決めつけていた。
最低だ。
「お戻りなさいませ」
「ただいま戻りました」
言った瞬間、マルタの目がわずかに揺れた。
いつものエレオノーラなら、そんな言葉を丁寧に返さなかったのだろう。
私は謝るべきだ。
今すぐ。
だが玄関広間には、他の使用人がいる。マルタは仕事中だ。周囲の視線がある。ここで謝れば、私の満足にはなる。だが、彼女にとって安全な場とは限らない。
謝れば終わり、ではない。
ここで形だけ謝れば、私だけが楽になる。
しかも開始する場所を間違えると、相手を追い詰める。
「マルタ」
「はい」
彼女の声が硬い。
「今夜、私の部屋に紙とペンを多めに用意してください。それから、明日の午前に少し時間をもらえますか」
マルタの顔が青くなった。
また何かを責められると思ったのだ。
喉の奥が苦くなる。
「叱責ではありません」
私はできるだけ低く、ゆっくり言った。
「あなたに確認したいことがあります。ただし、今ここで答えなくていい。明日、あなたが落ち着いて話せる場所と時間を選んでください」
マルタは目を見開いた。
使用人に時間と場所を選ばせる。
それは、この家では普通ではないらしい。
「わ、私が、でございますか」
「はい。関係者が安全に話せない場では、正しい情報は出ません」
また前世の言葉が出た。
マルタは意味を測りかねるように私を見た。
けれど、怯えだけではなかった。
ほんの少し、困惑が混じっている。
困惑は悪くない。恐怖だけよりは、ずっといい。
自室に入ると、私はようやく息を吐いた。
天蓋付きの寝台。刺繍の入った椅子。机には、上質な紙が整えられている。
私は椅子に座り、紙の一枚目に大きく書いた。
破滅フラグ登録簿。
書いてから、少し考えた。
フラグ、という言葉はこの世界では通じない。
まあ、私の管理用だからいい。
次に列を決める。
リスクID。内容。発生確率。影響度。優先度。兆候。対応方針。担当。状態。
発生確率は、どれくらい起きやすいか。
影響度は、起きたときにどれほど深く傷が残るか。
優先度は、怖さの順位ではない。今、手をつける順番だ。
美しい紙に、前世の現場で何度も書いた項目が並んでいく。
頭の中の恐怖が、行になる。
行になれば、並べ替えられる。
並べ替えられれば、次のアクションが決まる。
◆ 破滅フラグ登録簿案
項目 :リスク R-001
内容 :婚約破棄が正式成立し、エレオノーラが政治的に切り離される
発生確率:高
影響度 :高
優先度 :最優先
兆候 :第二王子が独断で断罪の場を作った
対応方針:軽減。決裁権限、契約条件、証拠原本を確認する。対応状況は宰相府へ定期共有する
担当 :エレオノーラ / 宰相府
状態 :監視中
◇
対応方針は、ただの願望ではない。起きないように避けるのか、起きても傷を小さくするのか、誰に確認を渡すのかを決める欄だ。
宰相府への定期共有は、迷った末に自分で書き足した一行だ。
記録は、手元に抱え込むだけでは弱い。私に不利な形で切り取られて出回ったとき、原本と経過がどこへ届いているかが防壁になる。
それに、この案件の決裁者候補は宰相府にいる。報告の通り道は、求められてから作るのではなく、こちらから設計しておくに限る。
◆ 破滅フラグ登録簿案
項目 :リスク R-002
内容 :公爵家ごと王家への不敬または管理不全を問われる
発生確率:中
影響度 :最高
優先度 :最優先
兆候 :父への報告経路が未定、悪評の蓄積
対応方針:軽減。父への報告経路と悪評の流入経路を確認する
担当 :エレオノーラ
状態 :未着手
◇
未定。
私はその二文字を、少し強く書いた。
担当が未定なのは危険だ。
誰に渡すかが決まっていない問題は、気づいた人の机で止まりやすい。
◆ 破滅フラグ登録簿案
項目 :リスク R-003
内容 :噂が証拠のように扱われ、追加の罪状として固定される
発生確率:高
影響度 :高
優先度 :高
兆候 :一次証言者不在の話が広がっている
対応方針:回避。一次情報と二次情報を分離し、証言の出所を記録する
担当 :エレオノーラ / 宰相府
状態 :未着手
◇
次に見るべきものは、悪評が誰に運ばれ、誰に都合よく残るかだ。
そして、私は別の欄を作った。
◆ 破滅フラグ登録簿案
項目 :負債 D-001
内容 :マルタ・ハインを人前で叱責した
発生状態:発生済
影響度 :中
優先度 :高
兆候 :本人がエレオノーラを恐れている
返済方針:謝罪、聞き取り、再発防止
担当 :エレオノーラ
状態 :未着手
◇
D は Debt。
負債。
リスクは、これから起きるかもしれない問題だ。けれどこれは違う。もう起きている。私が作った。
「私がやったことは、リスクではなく負債。返済計画が必要ね」
声に出すと、逃げ場がなくなった。いい。逃げ場をなくすために書いている。
◆ 破滅フラグ登録簿案
項目 :負債 D-002
内容 :下級貴族令嬢の発言を家格で遮った
発生状態:発生済
影響度 :中
優先度 :高
兆候 :当事者が断罪会議で沈黙していた
返済方針:当事者確認と謝罪範囲の特定
担当 :エレオノーラ
状態 :未着手
◇
◆ 破滅フラグ登録簿案
項目 :負債 D-003
内容 :リリア・ベルナールに圧力をかけた疑いがある
発生状態:発生済
影響度 :高
優先度 :最優先
兆候 :リリアが恐怖を示している
返済方針:事実確認、謝罪、要求の聞き取り
担当 :エレオノーラ
状態 :未着手
◇
ただし、論破禁止。
私はその横に、二重線を引いた。
被害者を論破してはいけない。
事実、推測、感情、要求。
分けるのは、相手を黙らせるためではない。
次に何をするかを、間違えないためだ。
机の上に、項目が増えていく。
処刑。
追放。
婚約破棄。
公爵家の没落。
被害者対応。
悪評。
使用人の恐怖。
第二王子の保身。
ローゼンハイム侯爵家。
並べてみると、意外なことが分かった。
いちばん怖い言葉は、処刑だった。
けれど、最初に対応すべきものは処刑ではない。
処刑は最終結果だ。
その手前に、証拠の未確認、王家の面子、公爵家の責任、被害者の怒り、悪評の拡散がある。
もっと手前には、私が傷つけた人たちがいる。
「処刑より先に、謝罪。追放より先に、事実確認」
私は紙に書いた。
「順番を間違えたら、全部燃える」
そのとき、扉の向こうで小さな物音がした。
「マルタ?」
返事は、少し遅れた。
「はい。紙とペンをお持ちしました」
扉が開き、マルタが銀の盆を持って入ってくる。
私は反射的に、机の上の紙を伏せそうになった。
見られたくない。
自分の罪も、恐怖も、優先度も、全部そこにある。
けれど、伏せなかった。
隠すなら、何のための記録だ。
マルタは机の上を見て、動きを止めた。
「破滅、ふらぐ……登録簿?」
しまった。
表題が見えている。
この世界の侍女に見せるには、だいぶ危険な言葉だった。
「ええと」
私は一瞬、公爵令嬢としての上品な言い換えを探した。
見つからなかった。
「私が破滅しないための、確認表です」
マルタの顔が、さらに白くなった。
違う。
説明が悪い。
「いえ、違います。私だけではありません。あなたやリリア様や、この家に迷惑をかけないための確認表です」
マルタは盆を机に置いた。
その指は、やはり震えていた。
けれど彼女は、伏せていない紙を見つめている。
怯えながら。
逃げずに。
「お嬢様」
「はい」
「その確認表に、私の名前がございます」
胸が詰まった。
「あります」
「私は、何か失敗を」
「いいえ」
私はすぐに首を振った。
早すぎるかもしれない。けれどここは、即答しなければならない。
「これは、あなたの失敗ではありません。私があなたにしたことです」
マルタの目が、見開かれた。
「明日、きちんと話します。今ここで、あなたに許せとは言いません」
声が少し震えた。
情けない。
けれど、震えたまま言うしかない。
「ただ、これだけは先に伝えます。あなたはリスクではありません。私が作った負債の関係者です。責める対象ではなく、確認すべき相手です」
マルタは何も言わなかった。
沈黙が長い。
私はその沈黙を埋めそうになって、やめた。
やがてマルタは、小さく息を吸った。
「お嬢様は」
「はい」
「今夜の王宮で、何があったのでございますか」
私は答えようとして、止まった。
何があったか。
婚約破棄。
断罪。
前世記憶。
議事録。
宰相府。
説明すべきことが多すぎる。だから私は、最初の一つだけを選んだ。
「大きな会議が、炎上しました」
マルタは、ぽかんとした。
「会議、でございますか」
「はい」
「婚約破棄ではなく」
「婚約破棄を議題にした、手続き不備の会議です」
マルタはしばらく私を見ていた。
それから、ほんの少しだけ眉を下げた。
笑ったわけではない。
許したわけでもない。
ただ、怯え一色だった表情に、困惑が混ざった。
今日二度目の困惑だ。
進捗としては、小さい。
でも、小さい進捗は記録する価値がある。
「明日の時間と場所は、あなたが決めてください」
「……承知しました」
マルタは一礼した。
それから、思い出したように盆の端へ目を落とした。
「申し遅れました。お嬢様宛てに、王宮より書簡が届いております」
差し出された書簡には、見覚えのある封蝋があった。
アルフォンス殿下付き、侍従の名。
開くと、文面は短かった。婚約破棄の正式手続きを速やかに進めたい。公爵家側の対応者を定めて回答されたし。ご丁寧に、期日まで書いてある。
怒りは、湧かなかった。
代わりに、職業的な違和感が湧いた。
今夜の決定事項は、調査の開始だ。手続きを急ぐ権限が殿下にあるかどうかは、まだ未確認のはずだ。
それでも、急ぐ。
急ぐ理由は、この紙のどこにも書かれていない。
私は登録簿に戻り、第二王子の保身の行へ兆候を書き足した。侍従名義の、手続きの催促。それから状態の欄を、監視中から対応中へ進めた。
返事は明日でいい。夜中に感情で書く返書は、たいてい燃える。
扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。
その顔には、使用人として聞かなければならないことを、叱られる覚悟で口にする迷いがあった。
夜会から戻った主人に、何があったかを問う権限はない。
けれど、帰邸後の第一報をどこへ通すかを確認しないまま控えに戻れば、叱られるのは彼女なのだろう。
「お嬢様」
「はい」
「夜会後の第一報は、どなたへお通しすればよろしいでしょうか」
空気が止まった。
父。
リューデンベルク公爵。
この家の決裁者。
私はまだ、その人に何も報告していない。
というより、誰が報告するかを決めていない。
担当、未定。
期限、未定。
報告経路、未定。
最悪だ。
婚約破棄より先に、家の中が燃える。
私は机の紙を見下ろした。
◆ 破滅フラグ登録簿案
項目 :リスク R-002
内容 :公爵家ごと王家への不敬または管理不全を問われる
発生確率:中
影響度 :最高
優先度 :最優先
状態 :未着手
◇
未着手、未着手、未着手。
「マルタ」
「はい」
私は羽根ペンを握り直した。
「この家の報告経路を、教えてください」
マルタの顔に、今度は怯えではなく、明らかな戸惑いが浮かんだ。
「報告、経路……でございますか」
「はい。誰が、誰に、いつ、何を報告するのか」
私は紙の上に、新しい行を引いた。
「それと、今夜の噂が最初にどこから屋敷へ入るのかも」
窓の外では、王宮から戻った夜が静かに更けている。
けれど私の机の上では、破滅より厄介なものが顔を出していた。
公爵家内部の、担当未定の紙束。
そして、悪評が誰の口からこの家に入ってくるのかという、まだ名前のない経路。
---
【破滅フラグ登録簿】
https://img1.mitemin.net/l3/l9/fwqycb5tej4okrrg7zgemsdm61q_x0q_1e0_1bs_cd5d.png




