第1話 婚約破棄ですね。では議事録を取ります
「エレオノーラ・フォン・リューデンベルク。君との婚約を、ここに破棄する」
王宮小ホールの空気が、銀の燭台ごと凍りついた。
「承知しました。では、議事録を取ります」
言った瞬間、凍った空気にひびが入った。
第二王子アルフォンス・レーヴェンハルト殿下は、鮮やかな金髪の下で目を見開いている。彼の隣には、肩を震わせるリリア・ベルナール様。取り巻きの貴族たちは、私を責める顔を用意していたはずなのに、いまは全員が同じ顔をしていた。
何を言っているのだ、この女は。
たぶん、そういう顔である。
私もそう思う。
けれど、婚約破棄を宣言された瞬間、頭の奥で何かが割れた。絹のドレス。金の髪飾り。高い天井。貴族たちの視線。それらの下から、別の記憶が一気に立ち上がった。
夜中の会議室。
赤く染まった進捗表。
顧客、営業、開発、運用、法務。全員が怒っているのに、誰も決定事項を覚えていない炎上案件。
私は前世で、システム開発のプロジェクトマネージャーだった。
現場のプログラマから上がり、火のついた案件を何度も鎮めてきた。怒号も、責任転嫁も、証拠のない断定も、進まない会議も、山ほど見てきた。
そして今、私の目の前にあるのは。
婚約破棄という名の、議題不明、決裁者不明、証拠未確認の炎上会議だった。
まずい。
前世の職業病が、異世界でも生きている。
「エレオノーラ。君は、いまの言葉を理解しているのか」
アルフォンス殿下の声が低くなる。
私は手元を探した。扇。手袋。小さな招待状。筆記具はない。
近くの書記台に、王宮の侍従が控えていた。紙と羽根ペンが置かれている。
「そちらの紙を一枚、拝借してもよろしいでしょうか」
アルフォンス殿下が、声を詰まらせた。
「記録がないと、後で認識齟齬が出ますので」
侍従は私と殿下を交互に見た。渡していいのか、渡すとまずいのか、その判断者が誰なのか分からない顔だ。
分かる。現場でよく見る顔だ。
「これは会議ではない。君への断罪だ」
「はい。断罪の申し入れとして記録します」
「申し入れではない。決定だ」
「決定事項ですね。では、決裁者を確認します」
また、空気が止まった。
決定事項とは、誰が何を決めたかを後で確認できるように残す欄だ。決めた人が空欄のままなら、それは決定ではなく、ただの強い発言になる。
その沈黙の中で、私は銀杯に映った自分の顔を見てしまった。
若い。
そして、かなり美しい。
目元は少しきつい。黙っていれば、いかにも高慢で冷たい公爵令嬢に見える。だが輪郭は整い、肌は白く、金糸のような髪は夜会の灯を受けて光っている。
前世の私は、清潔感と姿勢と資料の見やすさで勝負する女だった。美人枠ではない。少なくとも、自分ではそう思っていた。
すごい。
悪役令嬢、顔面の作り込みがすごい。
一瞬だけ、私は場違いな感動を覚えた。
その直後、別の記憶が胸を刺した。
侍女マルタ・ハインを、人前で叱りつけた。
下級貴族の令嬢の発言を、家格を理由に遮った。
リリア様が小さく言い返そうとしたとき、私は笑って、黙らせた。
それは私ではない、とは言えない。
この体で、この声で、この手でやったことだ。
私は紙を受け取り、ペン先を整えた。指先が少し震えている。怒りではない。恐怖でもない。
自分の負債を、突然すべて思い出した人間の震えだった。
「殿下。確認します」
「確認だと」
「本日の議題は、第二王子アルフォンス・レーヴェンハルト殿下による、エレオノーラ・フォン・リューデンベルクとの婚約破棄申し入れの妥当性確認。提案者は殿下。対象者は私。ここまではよろしいでしょうか」
「よろしいはずがないだろう」
「異議あり、と記録します」
最初の行が決まった。
◆ 断罪会議議事録
項目 :議事録 MIN-001
議題 :第二王子アルフォンス・レーヴェンハルト殿下による婚約破棄申し入れの妥当性確認
提案者:第二王子アルフォンス・レーヴェンハルト殿下
対象者:エレオノーラ・フォン・リューデンベルク
◇
議事録は、相手を黙らせる紙ではない。いま何について話しているのかを、全員の前に置く紙だ。
取り巻きの一人が、たまらず声を上げた。
「リューデンベルク嬢、ふざけるのも大概にしろ。貴女はリリア嬢を何度も傷つけた。殿下の慈悲を裏切ったのだ」
「傷つけたことの一部は、否定しません」
リリア様の肩がびくりと動いた。
私はペンを止め、彼女を見た。震える指。青ざめた唇。私を見る目には、演技ではない恐怖があった。
胸が重くなる。
「リリア様。私が以前、家格を理由にあなたの発言を遮ったことは事実です。謝罪はこの場で軽く済ませるべきではありませんので、後日、あなたが安全だと思える場で、改めてお話を伺います」
「い、今さら」
彼女の声は小さかった。
「はい。今さらです。ですから、許してくださいとは申しません」
会場のざわめきが変わった。
アルフォンス殿下は眉を寄せる。取り巻きたちは、私が泣いて縋るか、怒って否定するか、そのどちらかを待っていたのだろう。
残念ながら、前世の私は炎上会議で泣いても怒っても、仕事は一つも減らないことを知っている。
「私がしたことは、私が責任を取ります。ですが、私がしていないことまで、私の罪として決裁されるのは違います」
「君は、自分に都合のよい言い逃れをするつもりか」
「いいえ。事実、推測、感情、要求を分けます」
口にしてから、しまったと思った。
完全に仕事の口調だ。
だが、戻れない。戻ると、この場はまた感情だけで進む。
「まず、殿下のお怒りは記録しました。次に、事実を確認します」
「怒りを、記録」
誰かが小さく呟いた。
「提示された罪状を一つずつ確認させてください。まず、リリア様への嫌がらせの手紙。原本はこの場にございますか」
「原本など、後で確認すればいい」
「では、現時点では原本未確認」
私は紙に書いた。
◆ 断罪会議議事録
項目 :確認対象 C-003
対象 :リリア・ベルナール様へ嫌がらせ手紙を送った
分類 :未確認
確認方法:原本、筆跡、封蝋、配送経路確認
初期判断:原本未確認
◇
「手紙だけではない。階段でリリア嬢を突き落とそうとしたという証言もある」
取り巻きの青年が、焦ったように声を重ねた。
「階段から突き落とそうとした件。一次証言者はどなたでしょう。直接見た方のお名前を」
その青年が視線を泳がせた。
「多くの者が噂している」
「噂は二次情報です。一次証言者未確認」
一次情報は、直接見た人、直接聞いた人、原本そのものから得る情報。二次情報は、誰かから聞いた話だ。二次情報が無価値という意味ではない。ただ、即断罪の根拠にするには足りない。
◆ 断罪会議議事録
項目 :確認対象 C-004
対象 :階段から突き落とそうとした
分類 :未確認
確認方法:一次証言者、発生日時、医師記録確認
初期判断:一次証言者未確認
◇
「君は、リリアが嘘をついていると言うのか」
リリア様がさらに青ざめる。
私はすぐ首を横に振った。
「違います。リリア様が怖かったという事実と、私が階段から突き落とそうとしたという事実認定は、別に扱うべきです」
「屁理屈だ」
「いいえ。ここを混ぜると、被害を受けた方の声まで、政治的な材料として雑に扱われます」
リリア様が、ほんの少しだけ顔を上げた。
彼女を責めるつもりはなかった。
それだけは、伝わってほしい。
アルフォンス殿下は苛立ったように拳を握った。
「では、侍女を人前で叱責したことはどうなのだ。あれも記録とやらで消すのか」
「消しません。事実です」
会場が静かになった。
私は自分の声が震えないように、息を整えた。
「マルタ・ハインへの叱責は、私が行いました。人前で責めたことも事実です。この件は、本人への事実確認と謝罪、再発防止を私の担当として記録します」
「担当?」
「はい。私がやったことですから」
◆ 断罪会議議事録
項目 :確認対象 C-001
対象 :侍女マルタ・ハインを人前で叱責した
分類 :事実
確認方法:当事者ヒアリング
初期判断:エレオノーラ本人が否定しない
◇
◆ 断罪会議議事録
項目 :ToDo A-005
内容 :マルタ・ハインへの叱責事実を本人に確認し、謝罪する
担当 :エレオノーラ
期限 :翌日中
状態 :未着手
◇
前世なら、ここで「責任者」と書いただろう。
だが、いまの私は公爵令嬢で、相手は王子で、これは貴族社会だ。言葉を間違えれば、それだけで誰かを傷つける。
「ただし、その事実と、婚約破棄の即時決定は別件です」
「別件ではない。君の悪行の結果だ」
「結果だとしても、手続きは必要です」
私は紙の上に、短く線を引いた。
「この婚約は、殿下お一人の裁量で破棄できる契約でしょうか」
アルフォンス殿下の口が止まった。
貴族たちのざわめきが、今度ははっきり変わった。
王家の婚約。公爵家との結びつき。国王の承認。家同士の契約。前世の知識がなくても、この世界のエレオノーラの記憶が告げている。
第二王子が夜会の一角で宣言して終わるほど、軽いものではない。
「私は、君との関係を終わらせると言った」
「殿下個人のお気持ちは記録しました。婚約契約の破棄については、決裁権限の確認が必要です」
◆ 断罪会議議事録
項目 :未決事項 U-001
変更前 :第二王子殿下の宣言により婚約破棄
変更後 :第二王子単独で婚約破棄を決裁できるか確認
確認観点:婚約契約、王家承認、公爵家承認
担当候補:宰相府
状態 :未確認
◇
「君は私を愚弄するのか」
「いいえ。殿下を決裁者不明の案件に巻き込まないためです」
今度こそ、誰かが咳き込んだ。
私も内心で頭を抱えた。
案件。
王子に向かって案件。
だが、アルフォンス殿下は愚かではない。だからこそ、私の言葉のどこが危険なのか理解した顔をした。
彼がこの場を作った。
国王も、王家の上位者もいない。正式な裁きの場でもない。リリア様の被害者性と、私の悪評と、自分の怒りを束ねて、既成事実を作ろうとした。
そこに決裁者確認を差し込まれると、彼は王家として答えなければならない。
「殿下」
低い声が、会場の奥から響いた。
人垣が割れる。
グレアム・フォン・アイゼンベルク宰相が、静かに歩み出た。灰色の髪を後ろでまとめ、表情は読めない。だが目だけは、さきほどからすべてを記録していた人の目だった。
「いまの問いに、王家として即答できますか」
アルフォンス殿下の顔から、怒りとは別の色が引いた。
「アイゼンベルク卿。これは私の婚約の問題だ」
「王家とリューデンベルク公爵家の婚約です」
短い一言だった。
それだけで、場の重心が変わった。
私はペンを止めた。宰相は私をちらりと見たが、助け舟というより、危険物の性質を見極める視線だった。
正しい。
いまの私は断罪される側であり、同時に、会議を勝手に再設計した不審人物でもある。
「本日の決定事項を確認します」
グレアム宰相が言った。
私は反射的に続きを書きかけて、手を止めた。
議事進行を取られた。
さすが宰相。ファシリテーションが速い。
「婚約破棄の即時決定は行わない。提示された罪状は、証拠原本、一次証言者、発生日時、関係者の影響範囲を確認する。宰相府預かりで正式調査を開始する」
◆ 断罪会議議事録
項目 :決定事項 D-001
変更前 :婚約破棄をこの場で決定
変更後 :婚約破棄の即時決定は行わない
確認者 :グレアム・フォン・アイゼンベルク
◇
◆ 断罪会議議事録
項目 :決定事項 D-002
変更前 :提示罪状をこの場で確定
変更後 :提示罪状は宰相府預かりで正式調査する
確認者 :グレアム・フォン・アイゼンベルク
◇
「しかし」
「殿下」
グレアム宰相の声は荒くない。
荒くないのに、止める力があった。
「この場で決めれば、殿下の独断として記録されます」
アルフォンス殿下は一拍、黙った。
それから、声を一段低くした。
「宰相。これは、私の案件では」
案件。
殿下も言った。
場違いな感想が頭をよぎったが、すぐに消えた。同じ言葉でも、中身が違う。私のは整理するための言葉で、殿下のは手放さないための言葉だ。
「公的な婚約破棄は、王家の案件です」
グレアム宰相は、抑揚を変えなかった。
「調査は宰相府が預かります。殿下には、関係者として確認にご協力いただきます」
関係者。
責任者でも、決裁者でもなく。
その一語が置かれた瞬間、この場の預かり主が誰に移ったのか、私にもはっきり見えた。
アルフォンス殿下の唇が固く結ばれた。
私はその表情を見て、胸の奥が冷えるのを感じた。
彼は無能ではない。
自分が何を失いかけているか、理解できる人だ。
だからこそ怖い。責任を避けるためなら、次はもっと整った形で私を切り離しに来るかもしれない。
会場の端で、誰かが小さく「ローゼンハイム侯爵令嬢は」と囁いた。
続きは聞こえなかった。
聞こえなかったものを、事実として扱ってはいけない。
私は紙の隅に、ただ一語だけ書いた。
未確認。
「エレオノーラ嬢」
グレアム宰相に呼ばれ、私は顔を上げた。
「はい」
「その記録、後ほど清書して提出できるか」
普通なら、断罪された令嬢が宰相にそんなことを頼まれる場面ではない。
普通なら、婚約破棄の夜会で議事録など取らない。
普通なら。
私は手元の紙を見た。
決定事項。未決事項。証拠確認。担当。期限。
◆ 断罪会議議事録
項目 :ToDo A-007
内容 :リリア・ベルナールの安全な聞き取り形式を設計する
担当 :宰相府 / エレオノーラ
期限 :3日以内
状態 :未着手
◇
◆ 断罪会議議事録
項目 :ToDo A-008
内容 :本議事録の清書版を宰相府へ提出する
担当 :エレオノーラ
期限 :翌日正午
状態 :未着手
◇
前世で何度も見た、炎上案件の初動だ。
そして今回は、私自身の罪も、そこに載っている。
「承知しました」
私は背筋を伸ばした。
「決定事項、未決事項、担当、期限を分けて提出します」
グレアム宰相の片眉が、わずかに上がった。
アルフォンス殿下は、信じられないものを見る顔で私を見ていた。
リリア様は、まだ震えている。
その震えを、私は忘れてはいけない。
これは勝利ではない。
即時炎上を止めただけだ。
プロジェクトは、まだ燃えている。
手元の紙には、すでにいくつもの未着手が並んでいる。
未着手、未着手、未着手。
終わったことは、まだ一つもない。
ただ、燃えているものに、ようやく名前がついただけだった。
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婚約破棄および罪状確認 臨時会議 議事録
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