第10話 王宮案件をお持ち帰りください
「気づいたか」
グレアム・フォン・アイゼンベルク宰相の声は、静かだった。
気づいていない、と言える空気ではなかった。
王宮の宰相府、小会議室。清書議事録の束は、たったいま正式調査の資料として受領されたところだ。本日の確認は以上だと言われ、私は席を立ちかけていた。
それなのに、立てていない。
書記官が机の端へ置いた、宰相府側の覚書の束。その一番上の一枚から、目が離せなくなっている。
「いいえ。何も気づいておりません」
「お嬢様。何も、とおっしゃるお顔ではございません」
隣のマルタが小声で言った。
味方であるはずの侍女が、いちばん容赦ない。
グレアム宰相は、束を手に取った。
片づけるのだと思った。
逆だった。彼は束を、私の前へ滑らせた。
「これをどう見る」
見てしまった。
紙には、王宮内の共同施策の準備に関する覚書が綴られていた。
儀典準備室。財務局。第二王子付き書記。外部商会。ローゼンハイム侯爵家に近い寄付窓口。
関わる部署と名前は、たいへん多い。
だが、決裁者の欄が薄い。
責任者の欄は、空白のままだ。
目的の欄には、王家の信用確認、社交界の安定、以前から準備されていた救済事業の紹介、記念行事の準備らしき言葉が散っている。
きれいな言葉が多い。どれが主目的なのかは、どこにも書かれていない。
お返ししよう。
私は即座にそう決めた。私はいま、断罪調査を受けている身だ。抱える紙を、これ以上増やしてはいけない。
「拝見しました。お返しいたします」
束に手を置いて、押し戻す。
そこまでは、完璧だった。
「……責任者が、空欄です」
口が、勝手に動いていた。
「目的が四つ並んでいます。どれが主目的か、書かれていません。決裁権限がどこにあるのかも、紙の上のどこにもありません」
「続けろ」
「続けません。お返しすると申し上げました」
「だが、君の指は二枚目をめくりかけている」
その通りだった。
私は右手を、左手で覚書から引き剥がした。
マルタが、何かをこらえる顔で目を伏せる。
まずい。これは、よく知っている流れだ。
断るつもりの相談ほど、未定の数を数えてしまう。そして、数えた人間が担当になる。前世の私は、この流れで何度も火のついた仕事を抱えた。
「宰相閣下」
私は背筋を伸ばした。
「私は、正式な断罪調査を受けている身です。王宮の案件について意見を申し上げる立場にも、お引き受けする立場にもありません」
我ながら、正しい断り方だった。立場の問題にすれば、能力の話にはならない。
グレアム宰相は頷いた。
そして、まったく退かなかった。
「立場なら、ある」
「どこにでしょうか」
「君は、正式断罪調査の当事者だ。そしてこの覚書には、その調査に関わる名が並んでいる。宰相府は正式調査の付帯調査として、当事者である君に本件の初期調査を依頼できる」
横に控えていた宰相府書記官が、静かに補った。
「正式調査は宰相府預かりでございます。調査に付帯する確認を誰に依頼するかは、宰相府の権限の内でございます」
退路が、手続きで塞がれた。
しかも、正しい手続きでだ。断罪調査の当事者だから受けられない、という私の断り方が、当事者だから依頼できる、と裏返されている。
「……依頼、とおっしゃいました」
「言った」
「では、依頼を受ける前に、依頼の範囲を確認します」
「受ける前に、範囲を確認するのか」
「範囲が曖昧な依頼は、後で責任も曖昧になります」
「記録するか」
「記録してよろしいでしょうか」
「記録せずにはいられない顔をしている」
その通りだった。
私は手元の控えから、白紙を一枚抜いた。マルタが、羽根ペンとインク壺を黙って差し出してくれる。いつの間にか、私の手の動きを読むようになっている。
その変化を、完了扱いにはしない。ただ、ありがたく受け取る。
まず、論点を置く。受けるかどうかを決めるにも、何が決まっていないかの一覧がいる。
目的。責任者。決裁権限。関係者。期限。変更要求。
覚書を読みながら番号を振って並べていき、最後に、書かないわけにはいかない一行を足した。
◆ 王宮案件初期論点メモ案
項目 :論点 PI-001、PI-002、PI-003、PI-007
PI-001 :目的、未定。複数部署で認識が違う可能性
PI-002 :責任者、未定。名目上の責任者と実務責任者が分かれている可能性
PI-003 :決裁権限、未定。王族、宰相府、関係部署の権限が混在
PI-007 :責任転嫁リスク、高。失敗時に断罪調査中のエレオノーラへ押しつけられる可能性
状態 :いずれも未確認。責任転嫁リスクのみ要注意
◇
「お嬢様」
責任転嫁リスクの行を見たマルタが、非常に小さな声を出した。
「はい。事実ですので、そのまま残します」
目的が多すぎる案件は、失敗した時に責任の置き場だけがはっきりする。たいてい、いちばん立場の弱い人へ落ちる。
いまの王宮でいちばん立場が弱いのは、断罪調査中の悪役令嬢だ。
落とし先として、たいへん便利である。
「整理が早いな」
グレアム宰相が、紙を覗き込んだ。
「君は、断ると言いながら論点を書き始めるのだな」
「これは、受けるかどうかを判断するための紙です」
「なるほど」
「そして、受けるとしても、全面的には受けません」
私は先に線を引いた。
「初期調査はできます。ですが、王族の責任を肩代わりすることはできません」
言ってから、少しだけ心臓が跳ねた。
王宮で言うには、強い。
だが言わなければ、論点メモの最後の一行が現実になる。
「正式な責任を押しつけるつもりはない。まず、見えるようにしてほしい」
「見えるようにするだけですか」
「初期調査だ」
「では、初期調査の成果物は、関係者一覧と未決事項の整理、役割分担の仮案までです。実施計画は含めません」
「よい」
「関係者は、分けて記録します。第二王子殿下の名がありますが、名目上の関係者なのか、決裁権限をお持ちなのか、実務の責任を負われるのかが分かりません」
「そこも確認する」
「ローゼンハイム侯爵家に近い窓口もあります。ご令嬢ご本人か、侯爵家か、窓口の商会か。関与している主体を分けます」
「分けろ」
短い返事ばかりだが、止められてはいない。
私は新しい紙に、依頼票を書き起こした。仮の名前も置く。正式名称が未定の案件は、仮の名を置かないと、会話のたびに中身が揺れる。
「期限は」
顔を上げて訊くと、グレアム宰相は少し考えた。
「三日後、正午。未確認事項の初回回答だ」
「起点は本日。本日から数えて、三日後の正午ですね」
「くどいな」
「期限は、起点が揺れると全部揺れます。引き直した期限と最初からの期限は、紙の上では別物ですので」
期限を動かすなら、申請して、理由ごと記録する。それを今いちばん重く知っているのは、おそらくこの部屋にいる全員だった。
私は依頼票の最後の欄まで、書き込んだ。
◆ 王宮案件依頼票案
項目 :依頼票 REQ-010-001
仮案件名 :仮: 王宮共同施策準備案件
正式名称 :未定
依頼元 :宰相グレアム・フォン・アイゼンベルク
受付者 :エレオノーラ・フォン・リューデンベルク
依頼根拠 :正式断罪調査の付帯調査
依頼内容 :責任者不在、決裁権限、関係者、未決事項の初期整理
受ける範囲 :初期調査、関係者一覧、未決事項整理、役割分担の仮案
受けない範囲:正式決裁、王族の責任肩代わり、実施計画の確定、婚約破棄宣言について誰を罪ありとするかの判断
決裁者 :未定
期限 :三日後正午(起点は本日)、未確認事項の初回回答
状態 :初期調査受付
◇
「これで、受け付けました。正式受任ではなく、初期調査の受付です」
「何度も言うな」
「重要なので」
書記官が依頼票を写し取り、グレアム宰相が短く頷いた。
「では、エレオノーラ・フォン・リューデンベルク。宰相府は、正式断罪調査の付帯調査として、君に本件の初期調査を依頼する」
「お受けします。受ける範囲の、内側だけを」
「それと」
宰相は、覚書の関係者欄を指で叩いた。
「この案件は、君が思うより政治に近い」
「思うより、ですか」
「そうだ」
つまり、いま思っている以上に面倒だということだ。
見なかったことにしたい。とてもしたい。
しかし依頼票はもうできていて、状態の欄には、初期調査受付と書いてある。
宰相府を出た廊下で、マルタが小さく声をかけてきた。
「お嬢様」
「はい」
「お持ち帰りに、なりましたね」
「持ち帰るのは、初期調査の依頼票だけです」
「はい」
マルタは真面目な顔で頷いた。
「王宮案件を、お持ち帰りになりました」
「マルタ」
「失礼いたしました」
そう言いながら、彼女は少しだけ笑っていた。
私は反論しようとして、やめた。腕の中の紙束が、何よりの証拠だからだ。
歩きながら、考える。
四日前の夜、私はあの広間で、断罪される側として立っていた。婚約破棄を宣言され、罪状を並べられ、泣くか怒るかを選ばされる側だった。
四日後の正午過ぎ、私は王宮の廊下を、案件の依頼票を抱えて歩いている。
断罪は、終わっていない。私の罪状の確認も、被害を受けた方への対応も、まだ途中だ。
それでも、立っている場所は変わった。
誰かに裁かれるのを待つ場所から、決まっていないことを決まっていないと書く場所へ。
王宮の案件は、責任者の欄が空白だった。
「責任者がいない案件は、失敗します」
口の中で、小さくそう言った。
「ですから、失敗する前に、形を見えるようにします」
マルタが隣で、静かに頷いた。
三日後の正午。未確認事項の初回回答。
次の案件は、王宮にある。




