沼地の襲撃者③
エルフの一族は、まだ薄暗い夜明け前の森の中を歩いていた。
仮面の奥の表情は皆、暗く沈み、声を上げる者はいない。
村を置いて逃げなければならない惨めさ。
周囲への警戒と、人間から逃げる恐怖。
そして、これから迎えることになる沼地での生活の不安に包まれていた。
森の中を集団で移動すれば、他の魔族に襲われる可能性が大きく上がる。
足跡や足音。匂いや幼い子供の鳴き声。
魔族に見つかれば、逃げるために集団からはぐれることだってあり得る。
そうならない為に、ローズに選ばれた精鋭たちが集団から独立して警戒を行っていた。
集団を狙う魔族が現れれば戦うか、気を引いて距離を取る。
自らを囮に、集団を守らなければならない役目だ。
アカシアは、その役目をローズから受けた。
トネリコの記憶があるからだ。
トネリコがまだ村にいた頃、集団での移動は何度もあった。
だからこそ、この役割がいかに大切か。
そして、どれほどまでに危険であるかを分かっていた。
そして今、アカシアは追われていた。
相手は、オークだった。
二本足で立つ、全身が毛で覆われた体をもつ猪のような魔族だ。
手には木で作られた棍棒を握り、その見た目からは想像ができない俊敏性を持つ。
それが2匹。
初めは3匹だった。
エルフの集団の匂いを嗅ぎつけ、近づいてきていたのだろう。
アカシアはその内の1匹を撃ち殺し、囮になる為に逃げた。
仲間を殺したアカシアを逃すまいと、奇声のような鳴き声を発しながら全力で追ってきていた。
オークの足はアカシアより少し速い。
しかし、大きく重いオークの体は、足場の悪い地面に足を取られる上、木々の隙間を掻い潜りながら走らなければならない。
オークの足音はまるで地響きのように森に伝わり、その巨体が木を薙ぎ倒す度に悲鳴のような木の裂ける音が鳴り響く。
アカシアがそんな道を選んで逃げているからこそ、まだ追いつかれずにいる。
戦うことはできない。
オークの一撃は、大木すら粉砕する。
木に登っても逃げきれず、走りながら撃った矢では毛皮を貫けない。
逃げて姿を隠すにもオークは鼻が効く。
アカシアはただひたすらに走って逃げることしか出来なかった。
しかし、体力の限界が近い。
何か手はないのか。
そう考えた時、ある事を思い出した。
それは、トネリコの記憶だった。
逃げながら、足元に魔法で植物を生やす。
一見すると、それは何の変哲もない雑草だ。
しかし、その草は踏むと滑る。
ちぎると糸を引くほどヌメリの強い粘液を含んだ植物だ。
アカシアの思惑通り、草を踏んだオークは滑り、大きな音を立てて転んだ。
アカシアは振り返り、矢を放つ。
転んだオークの背骨を貫くように矢が刺さり、起き上がる事はなかった。
しかし、残ったオークはその隙に体勢を立ち直し、アカシアへ向かって走る。
想定外のオークの俊敏さに、アカシアは慌てて矢を引く。
———間に合わない
アカシアが覚悟を決めた瞬間、オークの動きは止まり、前のめりに倒れた。
倒れたオークの後頭部には、矢が刺さっていた。
「大丈夫かい!」
矢を撃ったのは、ミモザだった。
疲れと緊張から座り込んだアカシアの側に駆け寄る。
「ありがとう……助かった」
「無理するんじゃないよ、アタシが来なかったら、死んでたんだよ!」
「ごめん。でも、それが俺たちの仕事だろ」
「それは……」
「それに、オークたちがあれだけ声を上げていたから、誰かが気付いてくれると思ってさ」
アカシアはオークから逃げる時も、他の囮役のいる場所へ走っていた。
オークも、エルフが数人で戦えば敵わない相手ではない。
「仲間が必要なのは、ミモザとトネリコのお陰でよくわかったから」
アカシアはオークの魂石を剥ぎ取りながら、平然と言った。
そんなアカシアの姿を見て、ミモザはただ一言アカシアには聞こえないほど小さな声で「やっぱり、変わったね」と答えた。
それからの移動も、何度か魔族との戦いが起こった。
その度に、他の囮役と協力し、助け合いながら森を進んだ。
陽が沈めば、仮の宿を作り、夜明けを待った。
そうして進んでいると、異様な匂いが鼻をついた。
腐敗臭のようなその匂いは、歩くにつれて濃さを増していく。
やがて地面はぬかるみ始め、ようやくエルフの集団は誰1人として欠ける事なく沼地にたどり着いた事を悟った。




