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虎招亭 ③

 アイシャは手持無沙汰なまま自室で待っていた。支度をするように言われたが、自分の荷物はほぼ全て紅凰館に残してしまっている。腰元に短剣を差し、ローブに袖を通しただけで準備は終わった。


(まだ話してるの? 全然来ないわね。)


 ルーファスを待ちながらアイシャはやきもきしていた。じっと椅子に座っている訳にもいかず、姿見で髪を整えたり、置時計で時刻を確認することを繰り返していた。


 箪笥の上でじっとその様子を見ていたヴェルミオンが話しかける。


〈少しは落ち着いたらどうだ?〉


「何?」


 アイシャは苛立ちを含んだ声で振り返る。戦場へ赴く選択に反対したヴェルミオンにその訳を問い質したいが、素直に聞く気にはなれなかった。


〈あの場では言わなかったが、カトレアから伝言を預かっている。〉


「カトレアから?」


〈ああ。両国が交戦状態に入った場合、お前の参戦を許可するとな。〉


 アイシャは目を見開く。


「……本当に?」


〈嘘を言ってどうする。お前は戦交官としての務めを果たせ。そのために必要なら俺の力を使っても構わん。〉


「ヴェルミオン……。」


 アイシャの胸が熱くなる。先程までの苛立ちが嘘のように消え去っていた。


(やっぱり、カトレアには何もかもお見通しって訳ね。)


 アイシャのことを誰よりも理解しているのはカトレアを置いて他にいない。カトレアからの援護は、遠く離れたイズナディアで任務を遂行するアイシャにとって何よりの助けだった。


「話し途中か? 中に入っても?」


 部屋の外より、遠慮がちなルーファスの声が聞こえた。


「いいわよ。」


 扉がゆっくりと開けられ、大きな旅行鞄を持ったルーファスが現れた。


「待たせたな。もう準備はできたか?」


「ええ。その荷物は?」


 ルーファスが両手に下げた旅行鞄の内、小さい方をアイシャに差し出す。


「ほらよ。こいつはお嬢ちゃんの分だ。数日間の船旅になるから、何かと入り用だろ?」


「あ、ありがとう。」


 ずっしりとした鞄を受け取りながらアイシャは気恥ずかしさを覚える。開口一番に嫌味を言ってやろうと思っていたが、ルーファスは自分のために荷物をまとめていてくれたのだ。


「じゃあ行くぞ。船はいつまでも待ってくれないからな。」


「ええ。……ヴェルミオン。」


 アイシャが差し出した右腕にヴェルミオンが飛び移る。ルーファスが深紅に煌めく不死鳥に目を向けた。


「そいつを連れて行くのは目立つな。俺たちはある場所に寄ってからロンディウム港に向かう。後で落ち合うまで、人目に付かない場所で待てるか。」


〈構わない。〉


「直接港に行かないの?」


「停泊している船を調べる必要がある。そのための情報がいるだろ?」


 階下へと降りながら、ルーファスが揶揄うような笑みを浮かべる。アイシャはむっとして先程覚えた感謝の気持ちを階段に置き去りにした。


 一階へと降りた後、ルーファスが開けた扉からアイシャは時計塔の外へ出る。


「すぐ迎えに行くわ。港に着いたら合図を送るから。」


〈ああ。〉


 右手を高く掲げた勢いに乗って、ヴェルミオンがロンディウムの夜空へ飛び立って行った。


「こっちだ。」


 ヴェルミオンを横目に、ルーファスがアイシャを促す。


「これからどこへ?」


 ルーファスが得意げな表情で振り返る。


虎招亭こまねきていさ。」




 虎招亭。アイシャは記憶の回廊でその珍妙な名前を探していたが、後一歩のところで辿り着けていなかった。


 夜のロンディウム市街には多くの人々が出歩いていた。既に帝国軍は遠征へ出発したのだろう。ロンディウム港で出征を見送った親や妻子が様々な表情を浮かべて戻って来ている。普段は活気に満ちたロンディウムにもの寂しさが漂っていた。


 アイシャはフードで顔を隠し、ルーファスと話すこともなく歩き続けている。雷の魔女の許可は得たが、公式的には本日まで時計塔にいることになっている。面倒事に巻き込まれぬよう警察隊の注意を惹くことを避けていた。


「ここだ。」


 暫く歩いた後、ルーファスが立ち止まり正面の建物を指し示す。歓楽街に位置する虎招亭は酒場だった。ルーファスが入口の扉を開けると、酒場の匂いと喧噪が溢れ出てきた。 


「おお、ルーファスじゃないか! 今度はどこに行くんだ?」


 店内に入ってすぐ、カウンター付近にいた中年の男が親し気に声をかける。黒髪に黒い瞳。明らかにイズナディア人ではない。


「ちょっと野暮用なんだ。アルカハナはいるか?」


「少し待っててくれ。いま呼んでくる。」


 男が頷き、カウンターの向こうへと姿を消した。アイシャは周囲の邪魔にならないように鞄を抱き寄せて隅に移る。ルーファスに声をかけた男と同様に、店内の客層もイズナディア人ではなさそうだった。


 程なくして、カウンターの奥より異国の雰囲気を纏う大柄な女性が現れた。長い黒髪に黒い瞳。帝国ではあまり目にすることの無い茶色のローブを着て、頭をスカーフのような布で覆っている。


 虎招亭の女主人、アルカハナは騒がしい酒場であっても良く通る声でルーファスを呼ぶ。


「ルーファス。こんな時に来るなんて、厄介事を持ち込んだりはしないだろうね?」


「安心しろ。情報を買いに来ただけだ。」


「そうかい。こっちに来な。話す場所を変えよう。」


 アルカハナの後に付いて行き、二人は個室へと入った。テーブルを挟んでアルカハナの正面にルーファスが座り、その隣にアイシャが掛けた。アルカハナが声を落とし、真剣な眼差しでルーファスを見つめる。


「それじゃあ、用件を聞かせてもらおうか。」


「今夜、火の国に出航する船に乗りたい。どの船に乗ればいいか教えてくれないか?」


「そりゃ随分と急な話だね。目的は?」


 アルカハナが眉を大きく曲げて問う。


「こいつを火の国に帰すためだ。」


 フードを被ったままのアイシャを一瞥して、アルカハナが呆れたと言わんばかりの口調でため息を吐く。


「はあ、……今度は火の国出身の女を作ったのかい?」


「おい、冗談を言っている時間は無いんだ。」


 ルーファスがテーブルに身を乗り出して詰め寄る。その様子を見ながら、アイシャはアルカハナが言ったことの意味を頭の中で繰り返していた。


「やれやれ、一隻だけならあるさ。『渡雷号とらいごう』だよ。」


 アルカハナが当然だと言わんばかりの表情で答える。対照的に、ルーファスは狼狽を露わにした。


「いや、それは困る。他に無いのか?」


「無いね。あんたは知らないのかい? 帝国は火の国と戦争を始めようとしているんだよ。船は軍艦だけじゃ足りない。不足分は、港に停泊している商船を徴発して補っているんだ。徴発の憂き目に遭っていないのはグレースの電気船だけさ。」


 アイシャはルーファスの狼狽えぶりに驚いていた。いつもは冷笑的な表情を崩すことが無いというのに。グレースという人物と何か因縁があるのだろうか……。


「……。」


「あんたとグレースの間に何があったか知らんがね。火急の用事なんだろう?」


「くそ、分かった。今はどこに停泊しているんだ?」


「ちょっと待った。その前に少しだけ、私の質問に答えて貰おうか。」


「おい、こっちは急いでるんだよ。」


「あんたには訊いてないよ。こっちの娘だ。」


 焦りを浮かべるルーファスを制し、アルカハナがアイシャに顔を向ける。


「私……?」


「そうさ。少しでいい。顔を見せてくれないか?」


「えっと……。」


 アイシャはちらりとルーファスに視線を向ける。ルーファスは肩をすくめ、声を抑えて答えた。


「……心配するな。ここに警察隊はいない。」


「分かったわ。」


 アイシャはフードを外した。アイシャの紅い瞳を見て、アルカハナは合点がいったとばかりに頷く。


「……やはりね。近頃、帝国を騒がせているお尋ね者か。ルーファス。どういうことか説明して貰えるかい?」


「あのなあ……。」


 ルーファスがほとほと困った顔でアルカハナを睨んだその時、個室の入口から少年の声が聞こえた。


「あれ? やっぱりオリヴィアさんだ! 来てくれたんだね。」

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