10.
そこまで考えてから、悠真は自分の呼吸が今朝よりも少し楽になっていることに気づいた。
楽になっていいはずがなかった。彼女が生きていることと、彼女が傷つかなかったことは同じではない。家族が戻らないことも、事故の事実も、何ひとつ消えていない。それくらいは分かっている。分かっているのに、悠真の中のどこかが、今日一日の出来事を自分に都合のいい形へ並べ替えていた。
拒絶されなかった。睨まれなかった。名前を聞いて席を立たれなかった。消しゴムを拾ったら、ありがとうと言われた。だったら、少なくとも、今日のところは大丈夫だったのではないか。明日も明後日もその先も。
その『大丈夫』が何を指しているのか、悠真は考えようとしなかった。考えれば、自分が何を求めているのか分かってしまう気がしたからだ。彼女の無事ではない。彼女の幸福でもない。自分が責められずに済むこと。自分が普通の高校生として、この先も教室に座っていられること。クラスに馴染めて、笑って過ごせること。
駅前の信号で立ち止まると、赤いランプが濡れた路面に滲んでいた。車道を大型トラックが一台、ゆっくりと通り過ぎる。荷台に雨水を光らせたその車体を見た瞬間、悠真の耳の奥で、昔テレビから流れていた緊急ニュースの音がかすかに鳴った気がした。
横倒しになって黒く焦げた乗用車。黒く焦げた道路。画面の隅に映る赤色灯。母の震える声。父の帰らない夜。何度も薄められ、遠くへ押しやられた記憶が、トラックのエンジン音に引っかかって一瞬だけ浮かび上がる。
信号が青に変わると、周りの人たちが一斉に歩き出した。悠真も流れに押されるように横断歩道を渡った。振り返ると、さっきのトラックはもう遠く、交差点の先へ消えようとしていた。
大丈夫だったのだ、ともう一度思った。
彼女は生きている。歩いている。話せる。笑える。十年前の事故は、取り返しのつかないものではあったけれど、少なくとも彼女のすべてを奪ったわけではなかった。そう考えれば、自分もこの学校でやっていけるのではないか。いつか、ちゃんと話せる日が来るのではないか。互いの目を見つめあって、普通に会話し、笑いあえる日が来るのではないか。
そこに至るにはまずはじめに謝罪が必要だということを、悠真はまだ本当には理解していなかった。謝らなければならない相手が目の前にいるという事実よりも、彼は、彼女と普通に話せたという小さな出来事にしがみついていた。
駅のホームに立つ頃には、雨雲の向こうに夕日の色が淡く滲んでいた。電車を待つ人々の列に並びながら、悠真は鞄の持ち手を握り直した。明日も学校へ行く。二年三組の教室へ行く。窓際の前から三番目の席には、きっと水瀬紗良がいる。
そのことを思うと、なぜか胸が少し軽くなった。軽くなってしまった。その軽さが間違いなのだと知るのは、もう少し先のことだった。
電車がホームへ滑り込んでくる。風に押されて、悠真の前髪がわずかに揺れた。開いた扉の向こうに、夕方の車内灯が白くにじんでいる。彼はその光の中へ一歩踏み出しながら、自分が今日、何を見なかったことにしたのかをまだ知らなかった。知らないまま、明日も同じ教室へ行けると思って疑いもしなかった。




