エピローグ
赤いタガネは、サンドラの師匠の持ち物だった。
その前は、師匠の師匠が持っていた。それ以前も同様だ。
赤いタガネは師匠から弟子に、脈々と受け継がれてきた。
起源は知らない。誰が、どのようにして作ったのか、誰も知らない。
ただ、意思があること。呪いを得意とすること。呪われた場所を好むこと。赤ワインが好物であること。
そのことだけが、タガネと共に受け継がれてきた。
それ故に、今の状況はタガネにとっていささか不愉快な状況であろう。
舞い込む依頼は呪いではなく祈りばかり。先日の呪いの依頼は久しぶりに張り切ろうとしていたのに、持ち主に制御されてとても不満だった。後日、依頼達成のお祝いとして上物のワインを献上してもらったので、それで手打ちとしている。
最後の彫り込みを終えて、サンドラはタガネを作業台に置いた。
「あー……やっと終わった」
とはいえ、明日にはまた先着順で祈りのプレートを求める依頼が殺到するだろう。面白くない状況に、タガネは作業台の上をごろごろと転がった。
サンドラはそんなタガネの持ち手をそっと撫でる。
「付き合ってくれてありがとう。今日は別の品種の三十年物を買ってこようかしら」
タガネはその場でくるくると回転した。我ながら現金だと思う。だがサンドラの目利きは確かで、ワインはここ数年外したことが一度もない。
だからタガネも彼女を見限らず、ここで仕方なく祈りの彫金をさせてあげている。
面白いことと言えば、最近届いた手紙の件だ。半年ほど前に彫った呪いの指輪が送りつけられてきた。
どうやら、呪いが発動してあちらは楽しいことが起っていたらしい。
近くで見たかったと思いつつ、指輪に宿った怒りや恨みは美味しくいただかせてもらった。それがタガネの能力の源だ。呪いを生成するにあたって、同じ人間から湧き出る感情ほど最適な材料はない。
「じゃ、買い出しに行ってくるわ。大人しくしててね」
サンドラはタガネをいつもの箱にしまう。これも代々受け継がれているものだ。サンドラの師匠が新調したベルベットのクッションはとても寝心地が良く、タガネも気に入っている。
プレートも納品用の箱にしまったら、サンドラは工房を出た。呪術によって隠されていても、戸締りは忘れない。その用心深さは彼女のちょっとした欠点であった。
静かになった工房で、タガネは物思いにふける。
サンドラもいい歳だ。そろそろ新しい持ち主候補が現れてもいい頃合いになる。
タガネの持ち主になる彫金師、そして呪術師たちは、皆天涯孤独だ。歴代の師匠に拾われ、共に暮らすうちに技術を学び、やがてタガネを継承する。
弟子候補は幼すぎてもいけないが、年が近すぎてもいけない。だいたい十歳程度だろうか。サンドラも確か、その年頃に先代に拾われていたはず。
その時、ガチャガチャとドアが鳴いた。
おや、ワインだけとはいえ、もう帰ってきたのか。いや、迷い込んできた物盗りの可能性もある。
ドアは二、三度ガチャガチャと鳴り、それから大人しくなった。やはり物盗りだったか。
「……一人?」
しばらくすると、ドアの向こうでサンドラの声がした。
「待って、別に追い出そうとしているわけじゃないわ。あなた、ここに迷い込んじゃった? ……そう。行く当てはある? …………そう」
誰かと話している。
……おや。これは、まさか。
「あー、どうしようかしら。買い過ぎちゃって食べきれないわー。誰か一緒に食べてくれる人はいないかしらー?」
思わず、タガネは箱から飛び出しそうになった。
あまりにも棒読みが過ぎる。人間だったら盛大に唾を飛ばしながら大笑いしているところだった。
どうやら相手もそうだったらしい。引きつったような声がかすかに聞こえる。
「一緒に食べてくれる? ……さあ、どうぞ」
鍵が開けられる。二人分の足音が入ってくる。
作業台の下の引き出しが明けられ、タガネが入った箱が取り出される。
「挨拶をして」
箱が明けられる。
目の前には、そばかすのついた少女が立っていた。
「私の相棒。……いずれ、あなたが継ぐものよ」
ああ、今日のワインは一段と美味いものになろう。
新たな継承者との出会いは、なににも代えがたい喜びだった。
了




