靭惟之
次話タイトルは『人出品子と靭惟之の場合』
いい匂いがする。
ふわふわとした感覚が薄れ、次第に自分の体に触れている感触がいつもと違うことに気付き、つぐみは体を起こした。
――あぁ、そうだ。
昨日は、木津家に泊まったのだ。
スマホを見ると時間は午前八時を過ぎたところだ。
部屋の向こうからは、だしのいい香りが誘うようにただよってくる。
誰かが朝食を作っているのならば、自分も手伝おう。
立ち上がったつぐみは、布団を部屋の隅にたたむと台所へ向かった。
「おはようございます」
挨拶をしながら向かうと、ヒイラギが台所で朝食の準備をしながら声を掛けてきた。
「あまり寝ていないだろう、あんたはもう少し休んでいろよ」
どうやら準備は出来ているようだ。
お鍋にはふわふわとした卵が入っている汁。
横には茹で上がったばかりのそうめんが置いてある。
「品子ってさ。自分は料理下手なのに、和食が大好きなんだよ」
「あぁ、だからこの料理なのですね。そうめんはおつゆと一緒に、食べるようにするのですか?」
「あぁ、そのつもり。あとは、ネギ入れたら終わりかな?」
「じゃあ私、ネギを切りますね」
「お、助かる。よし! 準備が早くできそうだから俺、二人を呼んでくるよ」
「はい、お願いします!」
手を洗い、冷蔵庫からネギを出して切りだす。
人にご飯を作るのは久しぶりだ。
……とはいえ今は、ネギ切っているだけではあるのだけど。
自分が誰かの為に、ご飯を作る。
そう思うとつぐみは、こみ上げる嬉しさをこらえきれない。
温かい気持ちに、つい思わず笑みがこぼれてしまう。
「ふふふ」
「そうか、君はそんなにネギが好きなのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが、……って?」
今の声は、知らない男の人の声。
ギギギ、とでも首がいいそうな緩慢な動きでつぐみは振り返る。
そんな彼女の後ろには、サングラスを掛けた背の高い男が立っていた。
知らない人、見たことない人。……誰?
つぐみは頭が混乱して何も言えなくなる。
しばらくその様子を見ていた男は、ようやく理性を取り戻したつぐみと同時に口を開く。
「誰?」
「誰ですか?」
◇◇◇◇◇
「いやー。最初はてっきりヒイラギが、彼女が出来て連れてきたのかと思っちゃったよ」
嬉しそうに話す男をつぐみは黙って眺める。
出来上がった食事をあっという間に食べきり、男はヒイラギの背中をバシバシと叩いている。
一方のヒイラギはと言えば、無表情でただ天井を眺めている。
どうしたらいいかわからず、シヤに目を向ける。
彼女は、何もなかったかのようにご飯を食べ続けているのみだ。
品子はまだ眠っているのか、リビングにはいない。
二人は全くつぐみにこの状況を説明する気はなさそうだ。
このままではいけないと思ったつぐみは、自分から動くことにした。
「あの、すみません。よろしかったらおかわりをお持ちしますけど? ええと、何とお呼びすれば……?」
「え? いいのかい? いやぁ気が利くねぇ。あぁ、自己紹介がまだだったね」
男はにこりと笑い、つぐみに空になった椀を差し出す。
「俺の名前は靭惟之。この子達とは……」
「ただの迷惑野郎だよ」
後ろから掛けられた言葉につぐみが振り返ると、品子が不機嫌そうに立っていた。
「お前。初対面の人間に、何とんでもない嘘を刷り込もうとしているの?」
「……お前がここに来るなんて聞いてない。昼過ぎにこちらから行くと言ってあったはずだ」
品子のいつもと違う冷徹な態度につぐみは戸惑う。
「この子は私の学校の生徒で冬野君という子だ。私は彼女の友達との関係について相談に乗っていた。その話の途中で彼女が体調を崩した。だから近くにあるこの家に連れてきたんだよ」
(……あれ、話がおかしい?)
だが品子が冗談で言っているわけではないというのは、さすがに雰囲気で分かる。
つまり沙十美の話を、この男に知られてはいけないのだとつぐみは判断する。
自分は品子に合わせるべきだろう。
先程の品子の言葉を思い返し、つぐみは口を開いた。
「……初めまして。冬野です。先生に友人関係の相談をしていたら気分が悪くなってしまって。申し訳ないと思ったのですが、こちらに泊まらせて頂きました」
改めて惟之を見てみる。
アンクル丈の黒のスラックスに淡い青のオープンカラーシャツという姿。
センターパートの短髪のくっきりとした顔立ちには、つぐみの同級生にはない大人の雰囲気が漂っている。
すらっとしているが、華奢というわけではない。
褐色に焼けた体はしっかりと引き締まっている。
サングラスで隠れているので、目はよく見えない。
にこやかにつぐみを見ている様子では、穏やかそうな人物に映る。
まじまじと顔を見ていたためだろうか。
サングラスに触れながら、惟之は言う。
「俺は目が他の人より悪くてね。礼儀を欠いて申し訳ないとは思うが。……これは外せない」
「すみません! 初対面なのに失礼をしてしまいました。お、おかわり持ってきますね!」
慌てて惟之の椀を受け取ると、つぐみは台所に戻る。
鍋の汁を温めていると、リビングから品子の声が聞こえた。
「冬野く~ん。私の分もお願いしていいだろうか。あ、ネギがもっと食べたいな~」
「わかりました! ネギを追加で切りますね。少し時間かかりますが、待っていてください!」
品子に返事をしながらもつぐみはふと思う。
仲が良くなさそうだが、二人にしておいていいのだろうか?
ヒイラギ達がいるから大丈夫だろうと思ったのだが、気が付けば二人ともリビングからいなくなっている。
自分達の部屋に戻ったのだろうか?
気にはなりつつも、つぐみが料理に再び取り掛かることにしたその時。
ガシャンと大きな音がリビングから響いた。




