1.息
真那は目が覚めたと同時に短く息を吸った。目の先に見える天井には、まだ薄暗さが溜まっていた。顔を傾け壁にかかる時計に視線を移すと、時刻は朝の六時四十三分だった。
ゆっくりと起こした身体はいつもより重く、頭もぼんやりとし、ベッドから這い出るまでに少しだけ時間を要した。
それから上体を起こしたまま、微かな朝日が滲む部屋を見渡す。いつもと変わらない、自分の部屋だった。
勉強机と昭和感あふれる木製の箪笥、家具はそれに今自分が身を納めているベッドを加えた三点のみで、床にはスクールバッグが置いてある。いるものだけが、そこにあった。
真那はため息に近いものをひとつ吐いた後やっとベッドから出て、まず机の上に置いてあった勉強道具を鞄に仕舞った。
部活の朝練があったために早朝に起きる癖がついていて、引退後もそれが根付いたままだった真那は、朝勉強することが習慣のひとつになっていた。
しかしこの日は目覚めがいつもより遅く、その時間はなさそうだった。真那は壁にかけてあった制服に着替え、鞄の中身を再度確認したのち、それを肩にかけ部屋の扉の前に立った。
そこで真那の足は一旦止まる。ドアノブに手を添えたまま、呼吸も止まる。手には力が込められている。
何の気配がないことを確認して、そっと扉を押す。ほんの少し開いた扉の隙間から、朝食の匂いが漂ってくる。あるのはそれだけで、音はなかった。暗い廊下には、誰も、いない。
部屋を出て、歩を進める脚全体に力を入れる。自然と呼吸が浅くなり、朝食の匂いが、僅かな息の中に紛れ込んでくる。廊下を進み、階段を降りていくと、匂いは徐々に膨らんでいった。
階段を降り切ると、肩、脚と、体の方々から少しずつ力が抜けていった。そのまま洗面所に向かい顔を洗って、台所に向かう。
そこには真那の母親、静の姿があった。紺色のエプロンを掛け、洗い物をしている。真那に気づくと振り返り、またシンクに視線を落としたあとに「おはよう」と小さく言った。それよりも、水が流れる音や皿がぶつかり合う音の方が大きかった。
「……おはよ」
真那から出る声もまた小さかった。母親に届いたかどうかはわからないまま、いつも通り言葉はそれで途切れた。
真那がダイニングテーブルに着くと、程なくして朝食がそこに置かれていく。味噌汁とご飯、そして目玉焼き。いつもと同じメニューが、照明の光に照らされる。長屋の一階は日光があまり入らず、そこに小さな窓一つしかない剣家の台所は、一日に渡って照明が必須となっていた。
無言の朝食を終え食器をシンクに置くと、真那はまた洗面所に向かった。歯を磨き、髪を整える。伸びてきた髪は寝癖がよくつくようになり、真那が何度押さえつけてもまるで嘲笑うかのように跳ねた。
ある程度寝癖が直ったところで、真那はそっと前髪を上げる。鏡に顔を近づけじっと見つめた。
額際に、三センチほどの線が伸びている。去年できた傷の跡だった。前髪で隠れる場所にあったが、それはくっきりと残っていた。
――いつになったら消えるんだろうか。真那は傷を睨みつけるように見て小さく息をつくと、洗面所を後にした。
仄暗い廊下を進む。途中ふと居間に視線を向けると、ソファに腰を落ち着け、テレビをぼんやり眺めながらコーヒーを啜る母の姿が目に留まった。ふう、と母親が息をつく音を耳が拾った後、真那は静かに家を出た。
学校に近づくにつれ、生徒の姿がポツポツと見えるようになってくる。そのほとんどが下級生だった。
校門が開くと同時にまずそこをくぐるのは朝練の常連者で、主に野球部とサッカー部、文化部では唯一吹奏楽部、そして剣道部だった。剣道部はその中でも一番乗りになることが多く、真那もその一員だった。
真那は夏の大会を最後に部活を引退し、朝練もなくなり早く学校に来る必要はなくなったのだが、校門をくぐる時間はその後もさほど変わらなかった。
眠っているように静かな校舎の廊下は人気がなく、上履きが擦れる音がたまに響いた。
着いた教室にはもちろん誰もおらず、蛍光灯もひとつもついていない。真那はそれを点けると、全ての窓を開け放った。
天井の明かりは朝日に滲んで曖昧に照らされ、教室に一人佇む真那に降ってきた。
窓から入り込んでくる朝の風を感じながら着席すると、真那は鞄から勉強道具を取り出し机に広げた。朝、家でやる予定だったページを開く。
その後はまるで写経でもするように、ひたすらノートに文字を書き連ねていく。それはもはや受験勉強ではないように見えた。朝の、精神統一のようになっていた。
ひとり、またひとりとクラスメイトがやってきて、いつの間にか教室の中には話声が飛び交うようになる。
最後に担任がやってきて朝のホームルームが始まり、午前中四科目の授業を受け、給食を食べ、午後二科目の授業を受け終えると、あっという間に放課後になった。
クラスメイト達はもうほとんど全員が部活を引退していて、ホームルーム後はそのまま帰宅する者が多かった。
けれどこの一週間はすみやかに教室から立ち去るようにとお達しがあり、みなぞろぞろと教室から出ていった。真那もその波に乗って廊下に出ると、ちょうど幼馴染の萌子に出会った。
萌子は隣のクラスであり、友達らに混ざって歩きながら、真那が出てきた教室の前を通り過ぎようとしていた。
しかし真那を見つけるなり萌子はその足を止め、柔らかな声を上げた。
「あれ、真那今日は図書室行かないの?」
「今日二者面談。二番目だから、このままここで待ってる」
「そうなんだ。私昨日だった」
萌子は微笑みながら言った。
一時期クラスメイトから疎外され沈んだ顔をしていた萌子だったが、今ではそれもなくなり以前の笑顔に近いものを取り戻しているようだった。
今もそれを感じ取るたび、真那はひそかに胸を撫で下ろしている。
じゃあね、と萌子は手をひらめかし顔を友達の方に向け直すと、そのままざわめきの中に紛れていった。
それを見送った真那は廊下に並ぶ待機用の椅子に腰かけ、何を見るでもなくぼうっとした。
十月ともなれば、高校受験の話がいよいよ本格的になってくる。生徒のほとんどは地元高校に進むのだったが、その中でも何科に入るかどうかを決めなくてはならないため、この一週間はその意思を確認する二者面談が行なわれるようになっていた。
すでに教室では一人目の面談が始まっていて、時折担任と生徒の笑い声が漏れ聞こえてきた。
その十五分ほど後。面談を終えた生徒がひとり教室から出てきた。次入るようにと真那に目と指先だけで示すと、そのまますたすたと廊下を進み去っていった。
教室に入ると、面談用にある一角の生徒机が四つ、向かい合うようにくっつけてあった。そのひとつに、担任が何やら資料らしきものを広げて座っている。
担任は理科を担当する四十歳手前の男性教師で、真那の入室に気づくなり「まぁ座って」と自分の前の席を手で示した。
面談は、余談は飛ばされすぐに本題に入った。
「剣は……えっと、この間の進路希望調査では、普通科希望だったよな」
「はい」
「高校行っても剣道やるんだろ?お前部活でけっこう良いとこまでいってたから、そっちで高校選ぶのもありだぞ。顧問からも何回か言われたと思うけど、××高校とか剣道で有名で、かつ進学校だから学力で見てもお前に合ってると思う」
「……」
「ただ寮になるから、そこはご両親と相談になるんだけど……」
「いや……、剣道は、そんなに力を入れてやるつもりはないんで」
「ん、そうかぁ。でも剣道部の顧問も、もったいないって言ってたぞ。筋がいいから、極めたらもっといい線行くんじゃないかっていつもぼやいてたし」
「そう言ってもらえるのはありがたいですけど、本当に、そこまでやろうとは思ってないんで。地元の剣道部で十分です」
「そうかぁ……。けど学力で見ても、地元じゃちょっともったいないと思うんだよなぁ。……じゃあ△△高校はどうだ。電車で通える距離で、よりレベルの高い進学校と言ったらここがちょうどいい」
「……そうですね……」
「んん、あんまりピンとこないか?まぁ、剣がこだわらないなら地元でも全然いいんだけど。ただ、もったいないなと思うだけで」
「………」
「――ま、お前のことは何も心配してないから。とりあえず今の調子で頑張ってくれよ。剣の場合、お父さんが現役教師でお母さんも塾講師やってたくらいだから、進路に関しては俺よかずっと相談できるだろうし。あ、来月は三者面談やるから、伝えといてくれな」
その言葉を最後に、真那の面談は終了した。
一礼してから教室を出ると、廊下では次の生徒が待っていた。目が合うより先に立ち上がって、入れ替わるようにして、そそくさと教室に入って行った。
一方真那はそのまま図書室に向かった。部活引退後は朝だけでなく放課後も時間が空くようになり、家に帰ってもすることは同じなので図書室で勉強することが増えていた。
しかし、この日図書室は二者面談があるためか、教室に留まれない生徒で溢れていた。ほとんどの席が埋まっており、勉強に集中できないような雑音がそこここで立ち上っている。
真那はそれを見渡した後、開けた扉をそのまま閉め踵を返し、家路につく方向に足の向きを定めた。
校舎から出ると、秋めいた風が真那の顔に吹きつけた。日中はまだ夏の名残が滲む日差しが降りそそぐが、夕方に近づくとそれは一気に冷め、日が落ちるのも早くなった。
真那は季節の中では秋が好きだった。自分が秋生まれだからという贔屓目からくるものでなく、単純に秋の空気が好きなのだった。
四季の中で、秋の空気が一番透き通っている気がした。秋そのものでなく、夏から秋に変わる、秋から冬に変わる、それぞれの境目も好きだった。
けれど秋の期間は境目を合わせてもいつもすぐに過ぎ去っていった。気づけばもう冬、となっていた。冬は少し苦手だった。寒いから、どことなく孤独を感じるから、冬だけ祭りが何もないから、そういったはっきりした理由はなかったが、ただ何となく、苦手だった。
家に着くと、中は静まり返り薄暗い。次月に三者面談があることを伝えようと思ったが、台所にも居間にも、母の姿は見えなかった。
母の静は真那が中学校に上がる頃に塾の仕事も茶道教室も辞め専業主婦になった。外に出ると行ったら買い物か病院に行くくらいなので、この日もすぐに帰ってくると思われた。
真那は洗面所で手を洗うと、そのまま二階に上がろうとした。
――が、一段目に足を乗せたところで息を詰める。二階から微かにだが、キィ、と扉が開く音が聞こえた気がした。
そして足音を一つ、耳が確かに拾った瞬間、真那は滑り込むように階段下にある物置部屋に入った。音を殺して扉を閉め、自身の息も殺すようにする。
そうする中で、ミシミシと床が軋む音が頭の上で進み、ドン、ドン、と階段を踏みつける音が真那の耳を突いてくる。その音は、トイレに向かったようだった。
物置部屋はカビ臭く、酸素が薄く感じた。真那は口で浅い呼吸を繰り返した。静寂の中、鼓動だけがいつもより大きく感じた。
程なくして足音はまた階段を上っていき、部屋の扉が閉まる音が家を揺らした。その音に紛れさせるように、真那は大きく息をついた。間一髪だった、と薄く安堵が混じっていた。
小さい頃、何も気にせず走り回っていたこの家で、ある日から真那は、できるだけ音を立てないよう注意しながら、どこからか聞こえる音に耳をそばだてながら、常に気を張って生活するようになっていた。
それは、ある存在と、顔を突き合わさないために。その者の行く先に、自分がいないようにするために。
――そのある存在とは、真那の二番目の兄、真守だった。
真那は仲の良い男三兄弟の末っ子だった。しかしある頃を境に、三人はバラバラになった。
そのある頃とは、真那が小学校六年生の時、高校三年生だった長男真人が”儀を怠る”という前代未聞の行ないに加担し、その結果真那の幼馴染である萌子の姉、春子が命を落としてしまうという痛ましい事件があった後のことだった。
兄の真人は当時超難関大学を狙っていたが、受験自体をせず高校卒業と同時に家を出た。それ以降、一度も家に帰って来ていない。
どこで何をしているのか、その詳細までは真那は知らなかったが、どこかで生きているということはわかった。その理由として、萌子の家に、たまに真人から現金が送られてくるという話を小耳に挟んだのだった。どこかで働いているのかどうか、それは判然としないままであるが、ともかく生きてはいるようだった。
事件当時中学三年だった二番目の兄真守は、現在高校三年生である。しかし学校には行かずずっと家におり、さらに自室に籠って生活していた。自分の兄が過ちを犯したことにより、大きな精神的ダメージを受けたようだった。
例の日以来、部屋に引きこもり、たまにひどくパニックを起こし、荒れ、家の壁に穴を開けたり物を壊すこともあった。
特に真那に対する態度はことさらひどく、真守は真那が物音を立てるだけで罵倒し、目が合うだけで殴りかかってくることがあった。
真那はそれを避けるために、自分の家であっても空気を読み、息を潜めて生活しなければいけなかった。
剣道の腕前に加え、儀に携わっていることで相手の動きを読むことに長けていた真那は、できるだけ兄の目と意識に留まらないよう努め、必要以上の被害を被ることを避けようとした。
――しかしこの夏、盆の時に、真那は失敗をしてしまった。
萌子やマシロと盆踊りに出かけるため、和服が仕舞ってある衣裳部屋から浴衣を持って自室に戻ろうとした時、運悪く真守と鉢合ってしまったのだった。
真守は長男真人のおさがりである紺鼠の浴衣を手にする真那を見るなりその眼孔を鋭くし、顔を歪ませた。しまった、と真那が心で思った時には遅かった。頬に、拳が飛んできた。
よろめく真那に、真守は馬乗りになってもう一発、また一発と、拳を向けてきた。真那も必死に抵抗しようとしたが、なぜか力は抜けてゆくばかりだった。殴り返すことも、自分を守り切ることもできなくなった。痛みが全身にほとばしった。
真那が何も言わないかわりに、兄が言葉とも言えない叫びを喉から発した。
それに気づいた母親の静が、すぐさまその方にすっ飛んできた。やめて、やめて、と必死に真守をなだめた。
しかし、泣き叫ぶことはしなかった。静はいつも押し殺すような声で「もうやめて、お願い、やめて」と涙を流しながら言うのだった。
長男がどこへ行ってしまったのか、次男が家でどのように過ごしているのか、そして三男が自分の息を殺しながら生活をしていることについて、その詳細は誰もが知る由もなかった。
剣家の現状については家の外には決して漏れることのないよう、この家の中のことはこの家の中だけに閉じ込めておくように、両親が、特に母親が、神経を張り巡らしていたのだった。
例の出来事があった後、剣家はこの土地から逃れるようなことはしなかったが、その内側は昔と比べて随分変わってしまっていた。
母の静は外に出て人と関わることを避けるようになり、逆に父の慎太郎は仕事に没頭するようになり以前よりも家にいないことが増えた。二人とも、家で笑顔を見せることはほとんどなくなった。
しかし、両親が必死になって隠そうとしても、ただならぬ雰囲気は周りに徐々に忍び漏れていった。長男は大学受験をせず姿をくらまし、次男は家から出て来なくなった。あんなに優秀だった兄弟が一体どうしてしまったのかと、訝しげな顔やひそやかな声を向けるようになっていった。
変わりゆく親や兄たちを見て、当時小学六年生だった真那はただ動揺するばかりだった。周りの人たちが自分の家族に向ける目が変わっていく様を視認するのは、恐怖でしかなかった。
生きる気力をなくしたようにやつれ、やせ細っていく父や母を見ては、自分だけは変わってはいけないと真那は思っていた。
しかし、笑顔のない家の中で、自分だけ笑顔を作ることは難しかった。徐々に真那からも笑顔が消えていった。笑顔は伝染するというが、なくなるのも同じらしかった。
そして、中学生になり痣をつけられ、兄が犯した過ちを知ると、その顔からは完全に笑顔が消えた。
そんな中、努力は辞めなかった。怠慢は許されないと思った。自分の怠慢の代償は、自分だけに返ってくるものではないのだった。
***
足音を立てないように、それでも素早く階段を上がり自室に入った真那は、扉を背にしてしばらくその場に佇んだ。夕日が部屋に忍び込んで来ていたが、あっという間に部屋のほとんどが陰に包まれていった。
次の儀の担当日はいつだったか。
ふとそう思い、真那は机に向かって足を進めた。置いてあったスマホを手に取り、スケジュール帳を開く。次の儀は、明後日だった。
早く、儀をしにいきたい。そう思い、真那は嘆息した。
舞をする時は、呼吸を大事にしなければいけない。息を、止めてはいけない。――だから、止める癖がついている真那の息は、舞の時なら自然と繰り返すことができる。
おかしな話だと、真那の頭の中で苦笑が漏れる。儀を始めたばかりの頃はカゲの前で呼吸することも難しいくらいだったのに、今ではカゲを前にしている時の方が正しい呼吸に近いものができるのだった。
けれど、今真那の中に宿る祈火は、そのカゲをなくしてみせるという強い信念によって灯っているのだった。痣子の世界を、なくしたかった。
なくなれば、自分の家族は少しでも元に戻るかもしれない。長男真人も家に帰って来て、次男真守は学校に行くようになり、自分を殴ることもしなくなるかもしれない。
カゲの存在がなくなったあと、何がどうなるかは誰も何もわからないのだったが、きっと何かが変わるのだろうと、真那は思っていたのだった。
――その鍵となるのが、マシロだった。
マシロは突然、真那の目の前に現れた。真っ白な髪、真っ白な肌、その顔に、真っ黒な瞳が埋め込まれていた。
最初こそ、真那はマシロに対して懐疑の目を向けていた。
誰だこいつは。敵なのか、味方なのか。信じていいのか、そばに置いておいていいのか。
こいつに何ができる。何を考えているかわからないこいつに。何を言ってもぼんやりとしていて覚えも悪く、いつも怯えるように身を縮こめている。
――そんな思いを忍ばせ、真那はマシロを見つめていた。
けれど、真っ白なキャンバスのような心を持ったマシロは、様々なことを素直に吸収していき、今では痣子の一員として、立派に儀を務め上げていた。それだけでなく、人のために動き、人を思って苦しむことができた。
そんなマシロの姿は、真那の瞳に塗り込められた混濁の色を、徐々に薄めていったのだった。
そして日に日に上達していく舞を見ては、真那は畏敬の念に近いものを心に宿すようになった。
マシロの舞は何かが違った。言葉では言い表し難い、何かを纏っていた。マシロが持つ純粋さが溢れ出るようだった。
そのせいか、真那はマシロの隣で舞をする時、殊に呼吸がしやすいと感じた。マシロの周りに漂う空気は澄み切っていて、真那の中に入り込んでくると、すんなりと心地よく馴染んでいった。
そう思うと、やはりマシロは特別なのだと思った。
”伝説の巫女”。マシロが本当にそれに関わる存在なら、痣子の世界が変わるかもしれない。マシロがいれば、今まで変わることのなかった世界に、変化が訪れるかもしれない。
その思いは日に日に募っていった。マシロを利用しようという考えはなかった。一緒に、何とかしたいと思うのだった。
しばらくして、母の静が外から帰ってくる音が聞こえてきた。三者面談のことを伝えなければいけないと思ったが、部屋から出る気にはなれなかった。
息をしないと生きていけない。
生きていないと、痣子の世界をなくすことはできない。
けれどこの家の中では、真那はいつも正しい息の仕方を忘れてしまうのだった。
静寂がこもる部屋に、ため息がひとつ浮かんで消えた。




