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いのりびと  作者: 奥宮イツキ
第二部
49/189

14.そばに

 その日家に帰ると、小野は家用の割烹着に付け替え、夕食の準備に取り掛かっていた。マシロの帰宅に気づくや「おかえり」と微笑んで、火にかかった鍋に視線を落とした。


 その鍋の中ではグラグラと湯が沸いていており、小野はそこにほうれん草を投入すると、じっと鍋を見つめ始めた。

 小野は料理をする時、基本的にお喋りをやめる。料理に集中するのだ。特に食材を茹でる時には、目を離さず鍋の中の食材の様子を見、今だ、という上げるタイミングを見極める。


 マシロは、そんな小野の真剣な表情を見つめている時間が大好きだった。真っ直ぐな目と姿勢、静かな呼吸によって緩やかに動く胸元、菜箸を、そっと握る手。

 その手によって作られる祈火のこもった料理は、人々の心を癒している。口にするだけで、幸せを感じる。食堂の客の中には、そういう人たちが大勢いる。マシロも、その一人である。


 緑が鮮やかになったほうれん草がざるに上がる。もくもくと、湯気が立ち上る。冷水に取り水気を取ると、小野はざくざくと均等に切り始めた。

 手を洗って来なさいね、と言われてようやく、マシロは小野から視線を外した。


 澪二(れいじ)と二人食堂に残り何をしたかは、小野は特に気にする様子を見せなかった。いつもそうだが、小野はマシロに対し、深く詮索するようなことはしないのだった。例にとって、癒々花を追いかけて行った昨日も、帰った後そのことについて聞いてくるようなことはしなかった。

 


 鍋で茹でたほうれん草はお浸しになって食卓に上り、その夕食後、いただきものの小粒葡萄(ぶどう)が食後のデザートとして出された。

 マシロはそれをプチプチと無言でつまんでいた。葡萄(ぶどう)がつるりと喉を通るのを感じながら、澪二の顔を頭に浮かべていた。その顔は、笑っている。


 小野も茶を(すす)りながらたまに葡萄(ぶどう)に手を伸ばしてつまんでいたのだが、急にふっと笑みを漏らしたので、それに気づいたマシロが小野を見るなり首を傾げた。

 小野は「ごめんなさいね」と言って、またふふっと笑った。


「……僕、何か変なことしてましたか」


 マシロが言うと、小野は笑みを浮かべたまま首を振る。


「いえ、そういうことではないんだけど……。マシロ今、少し笑ってたから」

「え……本当ですか」


 マシロは思わず自分の顔にそっと触れる。葡萄の香りがふわりと鼻腔(びこう)をくすぐった。


「何かいいことがあったのかしらって、思っただけよ」


 そう言って小野は、湯呑を手で包むようにして持つ。小野は夏でも、温かい茶をよく飲んでいる。

 いいこと、と言われ、マシロの脳裏にまた澪二の顔が浮かんだ。やはり、笑っている。次いでクリスの柔らかな顔も、その隣に浮かんだ。


「――緑さんは、大切な人が何かで苦しんでいるかもしれない、と思った時、どうしますか?」


 明日の天気でも訊ねるように、その問いはマシロの口からすんなりと出てきた。止まっていた手も、また葡萄に伸び始める。ぷつん、と葡萄が口の中ではじけ、その度甘い香りが広がった。

 突然の問いに、小野はほんの(わず)か目を丸くしたが、深く考えるような素振りは見せず、そうねぇ、と吐息混じりの声を落とした。


「まずは、様子を見ているかしら」


 そう言って、小野は茶を一口含む。様子を見る、とマシロはノートに書き留めるようにその言葉を繰り返した。

 

「とりあえず、無理やり話を引き出すようなことはしないかしらねぇ」


 続けて言ったので、マシロはひとつ頷いてから訊き返す。


「……どれくらい、様子を見ていますか?」

「そうねぇ。それは、その時々によるわねぇ」

「様子を見ていても何も変わらなかったら、どうしますか?」

「何かあった?って、それとなしに聞くかしら」

「……聞いても答えてくれない時は、どうしますか?」

執拗(しつよう)に問い詰めず、また様子を見るかしら」


 マシロはふと視線を落とす。視界の端に、皿に盛られた葡萄がぼんやりと映った。


「それ以上は何もしない、ということですか?」

「そうねぇ……。あぁでも、自分が近くにいる、ということは、わかるようにしておくかしら」


 マシロは首を傾げる。


「それは、具体的に言うとどういうことをするんですか?」

「特別なことはしないわ。いつも通り、そばにいるだけよ」

「いつも通り……」


 マシロは湯呑に添えられた小野の手に視線を転じた。年相応のものに見えるそれは見ているだけでも温かみが感じられ、自分の体に添えられた時の感覚がその場で蘇ってくるようだった。

 と、ふと視線を感じ、マシロは伏せていた目をその方へ向ける。マシロの内側を見透かしているような小野の瞳と目が合った。


「――マシロは今、誰かのことを想っているのね?」


 言われ、マシロの瞳が小さく震える。

 その一瞬に、何人もの知った顔が、瞳の奥に映し出された気がした。笑っている顔もあれば(かげ)った顔もあり、一人一人の表情が目まぐるしく何度も変わった。


「その人たちに、何かしてあげたいのかしら」


 そう言う小野とマシロの二人の視線は、交わったままだった。マシロはそれを自分から断つことができなかった。ゆっくりと、瞬きをする。自分の呼吸の音がよく聞こえる気がし、束の間思わずそれに耳を傾けた。

 そして頷くような仕草をしつつ、少しだけ顔を伏せた。


「――僕、ここに来てから、大切にしたいと思える人がどんどん増えていってるんですけど、……それはすごく、嬉しいことなんですけど……。……その人たちに、自分は何ができるのかなって、最近よく考えるんです」


 一語一語を噛みしめるように、マシロは言葉を連ねていった。それに対し小野は「そうなのね」と独り言のように相槌を打つ。


「その人たちが今苦しんでいるように見えて、何かできないかという思いがマシロの中で強くなっているのね」


 少し間を置いてから言い、その落ち着いた声に、マシロはゆっくり頷いた。


「……たぶん、そうです」

「何に苦しんでいるかが、今マシロにはわからないのね」

「――わかった人もいますが、わからない人も、います」


 自分の心に一度問うようにして、マシロは答えていった。

 小野はまた「そうなのね」とつぶやく。そして、わずかに微笑んだ。それにマシロがきょとんとした顔を向ける。


「ごめんなさいね、真剣に悩んでいるところに。ただ、素直に嬉しくなってしまって。――マシロが、本当に優しい子だから」


 言われ、マシロはますますきょとんとする。それを見て、小野が笑みを深くした。


「人のことを澄んだ目で真っ直ぐ見て、自分にとって大切な人のことを心に留めることができ、その人が苦しんでいると、ちゃんとそれに気づくことができる――……。私のところに、なんて素敵な子がやってきてくれたんでしょう。一緒に過ごすようになってまだ数か月しか経っていないけれど、私はマシロを(ほこ)りに思うわ」


 言葉を羅列していく小野の声は深みがあり、小さく震えていたマシロの心を慰めるようにして、優しく降り注いでくるように思えた。

 マシロは、小野のこういったところが好きだった。すべてを包み込むような声で言葉を掛け、沈みかけていた心をすくい上げるようにしてくれる。

 それはマシロを温かい湯船に浸かっている時のような感覚にしてくれ、心地よい揺らぎを感じた。


 マシロは若干はにかむように目を伏せる。そのまま単調な呼吸を繰り返していると、小野が続けた。


「そういう優しいところが、マシロの良いところのひとつね。――でもそれは、時に自分も苦しめることになるから、気をつけましょうね」


 言葉の端に(ほの)かな強みを感じ、マシロは視線を上げる。小野はマシロの目を真っ直ぐ見据(みす)えていた。

 そして、穏やかな表情の中にしっかりとした芯のようなものを()え、諭すように言った。


「優しすぎるが故に必要以上に他人に寄り添い、何とかしたいと、他人の苦しみをそのまま引き受けようとしてしまう。結果、自分がその人以上に苦しむことになってしまう――という例はよくあるわ」

「――自分が……」


 マシロがつぶやくと、小野はゆっくり頷いた。


「他人の苦しみは他人のものであって、自分のものにはならない。つまり自分が代わってあげることはできないの。あまりに他人に気を掛け過ぎると、自分と他人を混同し、時に自分を見失ってしまう。そうして自分がどんどん底なし沼に落ちていくことで、いざという時、本当に助けたい時に、助けられなくなる恐れがある。――だから、他人の中に入り込むようなことはせず、一歩離れたところにいて、寄り添える時に寄り添って、それができない時には、遠くからそっと想いを寄せて、陰で見守る。……悲しい(かな)、どんなに大切な人でも、他人じゃあどうしようもできないことなんて、いくらでもあるからね」


 マシロはそっと息を吐く。

 小野をじっと見つめながら、言葉のひとつひとつを自分の内に丁寧に並べた。それは、小野の言う“底なし沼”に足を踏み入れそうになっていた自分の足を、しっかり支えようと集まってきた。

 そしてふと、澪二とクリスのことが思い出された。


 澪二にはおいそれと他人に明かせない苦しみを持っているが、クリスのように、自分を理解してくれる人がそばにいる。しかしクリスはいつもすぐ近くにいるわけではなく、普段はそっと澪二を見守るようにしていて、先日の儀の時のように澪二が壊れてしまいそうになった時に初めてしっかりと寄り添いに行くのだろうと思った。

 マシロは澪二の性分を知り、少しでも力になれたらと思っていた。しかし、自分にできることはたかが知れている。クリスと同じようなことは、易々とできない。一緒に過ごしてきた年月が違う。だからと言って、何もしないでいるのも(いささ)か心苦しい。

 ――それならば、話をしてくれた澪二のことをいくらか心に留めておき、時折陰でそっと見守ることが、今自分ができることだと思った。


 そして次に、真那と萌子の顔が浮かんだ。

 今二人はきっと何かを抱えているに違いない。けれど、それが何なのか、二人がそれに対しどう思いどう向き合っているかはわからない。そんな二人に今マシロができることは、そっと寄り添い、いつでも自分はここにいる、ということを示すことなのではないかと思った。――むしろ、今はそれしかできないと思った。



 ぼんやりとしていたマシロの視界が、じわじわと広がっていくようだった。そこに見えた葡萄は弾いた水滴に光を含み、全体が瑞々しくより色鮮やかになって瞳に映った。

 そんなマシロを見て、小野が優しく微笑む。マシロも淡い笑みを返した。そして、ふと訊ねてみた。


「――もしかして緑さん、今僕が抱えている悩みのこと、すでにわかっていましたか?」


 言われ、小野はにやりと笑ってみせる。その反応を見やって、マシロはあぁ、と息を吐いた。わかっていたのだな、と胸の中でつぶやく。


 マシロはたまに、小野が超能力か何か、――人の気持ちを察知したり、透視したりする特別な力を持ち合わせているのではないかと思う時があった。マシロが思い(わずら)っていると、何も言わなくとも、気づけばそっとそばに寄り添ってくれている。


「何で緑さんは、そうやって何でもわかるんですか?」


 言いながら、マシロは葡萄に手を伸ばす。ぷつん、と弾力を伴って一粒取れた。それに続けて小野も葡萄を一粒摘まみ、二人は同時に葡萄を口に含めた。

 

「そりゃあ私は今、ずっとマシロと一緒にいるからね。それだけそばにいれば、少しの変化くらい、見ていてわかるわ」


 葡萄を飲み込み、小野は何でもないように答える。それにマシロはふっと微笑んだ。そして、穏やかな小野の表情を見て言った。


「でも――。……緑さんは、本当にいろんなことを知っているんだなって、思います」


 それに対し、小野は静かに首を横に振る。


「私も神や仏じゃないから、何でもわかるわけではないわよ。言うなれば――……経験ね、経験。私は、あらゆる経験の中で知ったことを話しているだけ。年の功よ。……見た目はそう見えないかもしれないけれど、私、もうおばあさんの歳なんだから」


 そう言って小野はおちゃめに笑ってみせた。優しい目元に、濃い笑い皴が刻まれる。

 マシロはまた笑みを返し、その後二人は他愛ない話をしながら、終わりつつある夏の宵を共に過ごした。

 そうしてその日、マシロは床に就くと、いつもよりすんなりと眠りに入ることができた。


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