4.思い出
マシロは萌子に連れられて桜家を訪れた。その二件隣が真那の家。そのさらにはす向かいが、文也のだった。マシロは無意識に文也の家の方を見やる。誰も、いないように見えた。
萌子の家も、外観は昭和の香りが漂うものだった。このあたりの長屋全体が今風の家でなく古くからの造りをしているようで、夕刻に差し掛かる景色によく合う気がした。
萌子はポストを開け何も入ってないことを確認すると、玄関の鍵をガチャリと回し、ガラガラと戸を引いた。
「ただいまぁ。……あれ?お母さんまだ帰ってきてない」
玄関の靴が一足もないことを見て、萌子が言う。萌子の声は、しん、と静まり返った室内に響いた。
「――お母さん、仕事してるんだっけ?」
マシロが訊くと、萌子は頷いた。
「いつもこの時間には帰って来てるんだけど……。どうしたんだろ。ま、いいや、上がって」
そう言って萌子は玄関先で立ち止まるマシロを招き寄せた。マシロは若干緊張気味な面持ちで、萌子の家に足を踏み入れた。
と、そこに、車が一台停車する音が聞こえた。エンジンは止まることなく、ふかされ続けている。
マシロがそちらを向くと、白い大きな車が停まっていた。萌子もそれを見るや、焦ったような声を出す。
「あ、どうしよう。おばあちゃん、帰って来ちゃった」
萌子がそう言うや否や、助手席のドアが開く。そこから女性が降りてきた。
萌子の家に停まった車は、デイサービスの送迎車だった。降りてきた女性はそこのスタッフで、髪をひっつめにし、よく見える顔全体が程よく日に焼けている。
「行ってきましたぁ。こんにちは、萌子ちゃん。――あれ?お母さんは?」
はつらつとした顔から威勢のいい声が飛んでくる。萌子は脱ぎかけていた靴を履き直し、表に出た。
そして身を乗り出し、長屋の奥に続く道の向こう側を覗いたあと、眉間に皴を寄せた顔をスタッフに向けた。
「まだ帰って来てないの……。どうしよう、すみません」
「あらま。そうなの。仕事、遅くなってるのかな。……あ、あれ、そうかな?」
スタッフが、萌子が見ていた方向を向き指さした。萌子もまたそちらを向く。それからぱっと笑顔になった。
「あ、帰ってきた。すみません」
「いいえ。じゃ、おばあちゃん降ろしますねぇ」
そうして車のバックドアが開かれた。
スタッフが乗り込んだかと思うと、スロープから車いすに乗った老人が降りて来る。常に閉じられたような目をした、白髪のおばあさんだった。
おばあさんは萌子の前にやってくると、埋め込まれたようになっている目を少し開き、ぱちぱち、と数回瞬きした。そして萌子の方に向けた目を細め、
「春子かね?」
と言った。萌子が首を振ると、きょとんとした顔をする。
「――春子はどこにおるんかね?どこに行ったんかね?」
萌子が笑いかけたところに、萌子の母親の声が飛んできた。
ごめんなさぁい、と駆ける脚に同調して弾む。けっこうな道のりを走ってきたらしく、家の前で立ち止まった時には呼吸が荒くなっていた。
「ほんとに、ごめんなさいね……。駐車場、遠いから……」
「いいえ。こちらこそごめんなさいね、走らせちゃって」
「そんな、こちらが……、あ、すみませんね」
そう言って萌子の母は、スタッフから車いすを引き取った。そこに座る萌子の祖母が、萌子の母を仰ぎ見る。
「春子かね?」
「はいはい。おうち入るよ、お母さん」
「ふふ、梅子さん、今日もずうっと、春子、春子って、言ってたわねぇ」
「いつもすみません。どうも、ありがとうございましたぁ。またよろしくお願いします」
萌子の母が、車に乗り込むスタッフに深々と頭を下げる。その車が去っていく途中も、萌子の祖母は、春子、春子と呼び、はいはい、という声がそこに被さった。
萌子が母親に「おかえり」と言うと、萌子の母は短く「ただいま」と返し、うな垂れるような顔をした。
「そこの駐車場でね、大原さんにつかまっちゃってね、話が長いのなんのって。デイの車が見えたから、走って来たわ」
萌子の母は独り言のようにぶつぶつ言いながら、萌子の祖母が座る車いすを引いていく。そして玄関で佇立しているマシロに気づくや、あらやだ、と口に手を当てた。
「ごめんねぇ、マシロくん、来てたの。いらっしゃい。ちょっと萌子、早く言ってよぉ」
「だってお母さんずっと一人で喋ってるんだもん」
「そぉんなことないでしょ。マシロくん、上がって上がって」
マシロは軽く会釈すると、そのまま萌子の母に促され、おじゃまします、と遠慮がちに言って家に上がった。
萌子の部屋は二階らしかった。萌子が「お茶を」と言って台所に入って行こうとすると、萌子の母がそれを制す。
「あとでお母さんが持っていくから。早く二階に上がって、部屋を冷やしてきなさい」
そう言われ、萌子とマシロは二人で二階へと向かった。
階段を上っていくごとに、暑さが増していく。先を行く萌子は少し駆けるようにして上がっていき、部屋に入るなり即座に冷房のスイッチを点けた。
萌子の部屋は、実に女の子らしいと言える部屋だった。リフォームしたらしく、その部屋だけ床板や壁が新品のように綺麗で、玄関や廊下のような昭和感は全くなかった。
カーテンはクリーム色、クッションは小花柄、ベッドはナチュラルな木製で、シーツはオフホワイトでふんわりとした印象。
ところどころに、ドライフラワーが飾ってあったり、ファブリックも花柄が多く、全体的に花をモチーフにしているように見えた。
「かわいい部屋だね」
マシロが言うと、萌子ははにかんだ。
「ありがとう」
「それに、けっこう広いね」
「そうかな?」
「うん。前に、文也くんの部屋に行った時……」
そう言いかけたところで、部屋の扉の向こうから、声がした。
「コンコン、入りまーす」
言いながら、萌子の母が部屋に入って来た。続けて「あぁ涼しい」とまた声を落とし、テーブルお茶と菓子を乗せる。
彼女の襟元には汗が滲んでいて、しかしふわりと、花のような良い香りが漂ってきた。
「ごめんねぇさっきは。おばあちゃん、ちょっとぼけちゃってて……。私が仕事に出ている間、デイに預けてるのよ。いつもはおばあちゃんより早く帰って来るんだけど、駐車場で大原さんにね……。もう、本当に話長いのよぉ、大原さん。参っちゃうわぁ」
萌子の母は、胸元に盆を抱えた状態で何度もため息をつきながら話した。萌子よりも少し威勢が良く見えたが、萌子のような、どこかふわふわとした喋り方をした。
「僕も、急にお邪魔してすみません」
「マシロくんは謝ることないよ。私が誘ったんだし」
「そうよ、全然気にしないで。とにかく、会えてよかったわぁ。お噂はかねがねだったんだけど、なかなか会う機会がなかったわね」
マシロは微笑む。
そしてふと、いつかの、文也の弔の儀が行なわれた時のことを思い出した。あの時どこかに、萌子の家族もいたのだろうなと思った。
そうしていると、萌子の母はいくらかマシロに顔を近づけ、言った。
「本当に綺麗な髪してるわねぇ。ちょっと触ってもいい?」
突然の言葉にマシロは一瞬目を丸くする。しかしすぐに微笑み、小さく頷いた。
それを受けて萌子の母がマシロの頭に手を伸ばす。が、隣にいた萌子が慌ててそれを制した。
「ちょっと」
いくらか強い声が放たれる。マシロも母親も、その声がした方を見やった。唇を尖らせた萌子がそこにいて、ややあってから、柔らかな声が落ちた。
「……私もまだちゃんと触ったことないんだよ。お母さんだけずるい」
それを聞くや、萌子の母親は少し悪戯めいた笑みを刷く。
「そうなの?じゃあお母さんが先に触らせてもらっちゃおっかな」
マシロはきょとんとする。
目の前にあるのは仲睦まじいやりとりだったが、少したじろいだ。そして改めてどうぞ、と言って、居住まいを正してみる。
それに萌子の母は、いいの?と確認するように言ったが、マシロが返事をする前に、すでにマシロの頭をその手で触れていた。
萌子も続いて手を伸ばす。さら、という音がマシロの耳元で聞こえた。
「わ……。さらさら……と、ふわふわの、間みたいな感じね」
母親が言う。
「ほんとだ……。すごく気持ちいい。いいなぁ」
萌子も言った。
ただ髪を触れられているだけなのに、どことなくくすぐったいような感覚がマシロの全身を走った。そんな中で目の前の二人は、一心にマシロの髪を触っていた。
ただただされるがままのマシロはじっとその場に座っており、それから少し顔を捻ったのは、どこからか声が聞こえた気がした時だった。
目をキョロリと動かすと、萌子と母親には聞こえていない様子だった。マシロ髪を見たり触ったりしている。
マシロは自分だけに聞こえたのだろうかと思ったが、耳を澄ましてみるとやはり誰かが呼ぶ声がしたので、あの、と控えめに声を落とした。
「どこからか、声が聞こえる気がするんですが……」
そう言うと、萌子の母が「え?」と言って口を閉ざし、ついで萌子も唇を結んだ。
おーい、おーいと、声がし、萌子が出入り口の戸を開けると、それは階下から断続的に聞こえてきた。
「おーい、おーい、春子や」
その声は階段を這い上がってくるようにして、萌子の部屋まで届いた。すかさず萌子の母が、はーい、と返事をする。
萌子の祖母が、呼んでいたのだった。
「あらやだ」
言って萌子の母親は立ち上がる。
「ごめんね、ゆっくりしていってね」
続けて言われ、マシロは笑みを返した。それにさらに微笑み返し、萌子の母は呼ばれる声に返事をしながら、階段を駆け下りていった。
扉が閉められ、しん、と一瞬沈黙が落ちた。
マシロは伸ばしていた背骨を少し緩める。まだ、髪を触られている感覚が頭に残っていた。
「ありがとう、髪触らせてくれて。……ごめんね変なことしちゃって」
萌子が言った。
「ううん。……仲いいんだね、萌子ちゃんと、お母さん」
「そう?」
「うん。なんだか、姉妹にも見えたよ」
マシロが言うと、萌子はあぁ、と息を落とした。
「それは、よく言われるかも」
「そうなんだね。――ちなみにさっきのおばあさんは、萌子ちゃんの、お母さんの……?」
「うん。お母さんの、お母さん。うち、婿とりなの。女系家族なんだ」
「そうなんだ……」
マシロは萌子を見つめた。
萌子はマシロの髪をいつも褒めるが、萌子の髪もとてもきれいな黒髪だった。長いのに手入れが先まで行き届いているように見て取れ、風に吹かれるとふわりとなびく。そして、淡く良い匂いがする。
マシロは、さっき萌子と萌子の母が自分の髪を触った時のことを思い出した。二人の顔が、とても近い距離に並んでいた。
「……似てるね」
ぽつりと言うと、萌子がきょとんとしてマシロを見た。
「え?」
「萌子ちゃんと、お母さん」
「そう?」
「うん。目元と、……あと口元かな?雰囲気も、なんだかよく似てる」
「まぁ、親子だからね」
「あ……そっか。そうだよね……」
マシロはまたぽつりと声を落とす。続けて、やはりつぶやくように言った。
「……文也くんも、お母さんとよく似てたなぁ」
文也の顔を思い出し、次いで文也の母親の笑んだ顔が、その横に並んだ。よく似た、柔らかな笑顔。幸せに満ちた顔が、そこにあった。
マシロは宙に目を留め、文也の家族のことを思っていた。そこに、萌子があ、と何やら思い出したように声を落とす。
「そういえばさっきマシロくん、文也の部屋に行ったって言ってたよね。ごめんね、話途切らせちゃってたね」
マシロは首を振る。
「ううん、全然」
「……殺風景だったでしょ、文也の部屋」
「……うん」
「真那の部屋はもっと何もないから」
「あぁ……。文也くんも、同じことを言ってた」
「あ、そうなんだ」
「うん。――そう思うと、真那くんの家だけ、まだ行ったことがないなぁ」
「人を招くタイプじゃないからなぁ、真那は。私も滅多に行かないよ」
「そうなんだ。……真那くんのところは、まだお母さんしか見たことないなぁ。――そういえば、真那くんにもお兄さんがいるんだよね?見たことないけど、似てるの?」
「あぁ……、真那のとこは……。うーん、あんまり、似てないかも。三人とも、それぞれ違う顔してる気がする」
「そっか……。真那くんは、お母さんに似てるのかな?」
「うーん……。そう言われると、そうかも」
萌子は少し歯切れ悪く返した後、コップを手に取り麦茶をひと口含んだ。少し遅れてマシロも同じように手に取り、ごくごくと飲む。
カランと、氷が鳴った。
「……文也くんはお母さんと、それからお父さんとも、よく似てた」
「あぁ、確かに。文也はそうだね」
「ご両親二人とも、優しい雰囲気をしていて」
「そうだねぇ」
「でも文也くんのお母さん、昔はよく大声で文也くんたちを叱っていたって」
「あぁ……。あったかも」
言って萌子が笑い混じりの息を落とす。
「文也くんは、覚えてなかったみたいだけど」
「親は、子供が小さい頃のことよく覚えてるからね。私もお母さんからいろいろ話を聞くけど、そんなことあったけって話いっぱい出てくるもん。……特に私は、たぶんみんなより小さい時のことあんまり覚えてないと思う」
「そうなの?」
マシロが首を捻ると、萌子はうん、と頷いた。
「私、小さい時は今よりずっとぼんやりした性格だったみたい。あと、すごくマイペースで。お母さんから思い出話を聞いて、そうだったんだって、よくなる」
「そうなんだ……」
「でもさっきの、文也のお母さんがよく怒ってたって話は、なんか覚えてるなぁ」
言って萌子がくすっと笑う。
「文也のとこは昔から、お母さんもお父さんも、全然怒らなさそうな優しい雰囲気をしていて……。怒鳴り声が聞こえた時、すごくびっくりて、誰の声?って、なった記憶がある」
マシロも笑みを返した。
「そうなるよね。僕も話を聞いた時、嘘かと思った。その時、文也くんと琉也さんが昔やんちゃだったって聞いて、それにもびっくりして」
「うん。そうだったよ。今では、ちょっとイメージ湧かないけどね」
「うん。……みんな柔らかい雰囲気なんだね、文也くんの家って。琉也さんもそうだし。みんな、笑った顔がそっくりだと思った」
「ね。私、文也の家の家族、みんな大好きだなぁ」
文也の家族。
そう聞いて、マシロの脳裏に焼き付いていた、ある映像が突如として浮かんだ。文也が亡くなった次の日の、弔の儀が行なわれたあとのこと。
車の中、閉じ込められた空間で、残された家族で泣いていたあの光景。
思い出す度、胸が直接誰かに掴まれたような感覚になる、あの光景。
ずっと、自分だけの胸の中にしまってきた。しかしそうしようとすればするほど、誰かと共有したいという思いに駆られた。
――そして、今なら、萌子になら、話せると思った。
萌子が、急に黙り込んだマシロの顔を覗いた。それに気づき、マシロはひとつ息をつくと、言った。
「……弔の儀のあと、なんだけどね」
少し躊躇いがちに声を落とす。
一拍置いて萌子が頷き、それを見やってマシロは続けた。
「文也くんのご家族が、車の中で泣いていたのを見たんだ。――僕、その光景が、ずっと忘れられなくて」
マシロの声は、わずかに震えていた。
そんなマシロの背中に、萌子がそっと手を添える。ぬくもりが伝わってきた。
「弔の儀の時は、みんな、泣いてなかったのに。周りに誰もいなくなって、車に入った途端、泣き出したんだ。その瞬間を、僕は見てしまって。――目に、焼きついてしまって……」
最後の一音は、ほぼ息となった。
萌子はマシロの背中をさする。優しい手つきだった。
「そうだったんだね。それは、見ている側も、辛くなるよね。――家族じゃない私たちでも、こんなに辛いんだもん。文也の家族の思いは、計り知れないものだよ……」
そう言う萌子の声も、少し震えているように聞こえた。背をさする手はどうかと、マシロはそう思ったが、特に震えは感じられなかった。
「でもそうやって、家族のことを想って泣けるのって、いいよね」
萌子の声がぽつりと落とされた。
そのしばらく後は、部屋には空調の音だけが浮かぶだけで、二人の声は仕舞われていた。
萌子が背中をさする音だけが、体を通してマシロの耳に届いてきた。
どれくらい経った後かはわからなかった。
萌子の手がぴたりと止まったかと思うと、それが、ぽん、とマシロの背中を軽く叩いた。
「ねぇ、今度、盆踊り行かない?」
唐突に言われ、マシロが落としていた視線を上げると、いつもの萌子の笑顔がそこにあった。突拍子もない話に、マシロは瞳を何度か瞬く反応しかできなかった。
「思い出、作りたいんだ。マシロくんと。今、文也のこと話したみたいにさ。こんなことあったねぇって話、たくさん作りたいの。何でもないことでもいいんだけど、これだって言うもの、何か残したいなって。それで、ちょうど盆踊りあるから、どうかなと思ったんだ」
朗らかな声が、部屋に響いた。
萌子が笑っている。やはり萌子は明るく笑った顔が一番いいとマシロは思った。
が、言われた”盆踊り”がどういうもので何をするのかがわからず、そのまま首を傾げた。
「盆踊りって?」
「浴衣で、踊るの。楽しいよ、見ているだけでも。……ね、行ってみない?」
萌子の目がキラキラと輝いていた。それを見て、マシロはこくんと頷いた。
「……行こうかな」
「やった。お盆の四日間、毎日あるんだ。いつ、儀ない?」
「えっと……お盆は、まだ、予定がわからなくて」
「そっか」
「萌子ちゃんは?いつでもいいの?」
「うーんと、初日はダメかな。初日はいつも、学校の友達と行く約束してるから」
「じゃあまた、儀の日程が確定したら、教えるね」
「うん。また連絡して」
「わかった」
そう言って二人は最後、笑い合った。
――文也の話ができた。それだけで、マシロの心はいくらか軽くなった気がした。




