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いのりびと  作者: 奥宮イツキ
第一部
14/189

14.自分にできること

 ボーン、という音が縁側まで届く。それはそのあと九回続いた。部屋の振り子時計が、夜の十時を示す音だった。それが止むと、カツ、コツ、と規則的な音の響きが再開した。

 それまで環境音のひとつでしかなかったものが、妙に大きな存在感を放ってマシロの耳を突く。マシロの不安を駆り立てるように頭に響き、心の奥にも入り込んで、急かされるような気分になった。まるで自分の中にできた空白を、(いたずら)に突いてくるようだった。


 マシロがその音の沼に入り込みそうだった時、小野がマシロの背中をポン、と叩いた。


「じゃあ、まずはさっさと寝ましょう」


 急に頓着ないような物腰で言われ、マシロは思わず伏せていた顔を上げる。そのまま小野を凝視した。

 どんな言葉が返ってくるかと思えば、小野から出たのは就寝の催促だった。その表情にも、重々しさはまるでない。


 虚を突かれたようにマシロは瞳を細かく震わす。それを見やって小野は優しく微笑み、間もなくしてすっくと立ち上がったかと思うと、無言のまま部屋から出て行った。マシロは小野が姿を消した戸を、じっと見つめていることしかできなかった。

 そしてしばらくすると、小野は何事もなかったように戻って来た。見ると、手には湯気が柔らかく立ち上がるマグを持っている。ほのかにハチミツの香りがした。

 火傷をしないようにと注意しながら、小野はそれをマシロに手渡す。覗き込むように視線を落とすと、それは温められたミルクだった。濁りのないこっくりとした白さが、中で揺れていた。


 小野は視線で「どうぞ」と促し、それを受けたマシロも表情だけで感謝を伝えた。

 息を何度か吹きかけてから、口当たりの優しいマグに唇を添える。少し熱かったが、飲んだ瞬間に喉、食道、胃へとぬくもりが伝っていき、体の内部から温度が広がっていくのをじんわり感じた。

 マシロが一息つくと、小野が言った。


「夜は考え事が膨らみがちな上、判断力も鈍るわ。これ以上膨らまないようひとまず断ち切って、それを飲んだら布団に入って寝て、明日の朝、いつものように起きてきなさい。できるだけいつもの時間に、ね」


 温まった体に、小野の穏やかな声が素直に浸透してくる。それは静かに震えていたマシロの内臓を包み込むようにし、そっと撫でてきた。

 マシロはまた息をついた。仄かな甘さが鼻から抜ける。体の緊張が解けて、表情も強張りがなくなった。


 マシロは小野の穏やかな表情に見守られながら、ゆっくりとミルクを飲み干した。小野が何か特別な薬を入れたのではないかと思うくらい、それを飲んだ後、マシロに心地良い睡魔が降りて来た。張り詰めていた糸が、温かさで完全に緩んだようだった。

 そして、布団に入るといつの間にか眠りについていて、また瞼を開いた時、マシロは静謐(せいひつ)な朝の中にいた。




 目覚めた時間はいつもと同じ時刻であった。マシロは特別な感情をその身に抱くことなく、いつものように着替えを始めた。

 ここのところ、小野はマシロによく服を買い与えてくれる。以前は真那や文也のお下がりを譲ってもらっていたが、サイズが少し大きく、小野が新しいものを買ってくれるようになったのだった。

 この日手を通したシャツもそうで、買った当初よりも肌触りに馴染みが出て、自分の服を着ている、という実感が鮮明に沸くようになっていた。


 台所に向かうと、すでに朝食が用意されていた。小野に挨拶し自分の席に着くと、マシロは手を合わせ食べ始めた。

 小野はいつも、どれだけ早く起きても朝食はマシロと食べるようにしている。この日もマシロの向かいに座り、同じタイミングで食べ始めた。小野家の朝食はいつも洋食で、この日は粒あんが添えられたトースト、デザートはヨーグルトにキウイフルーツが乗っているものだった。


 パンをかじりながら、マシロは小野の表情を窺った。いつも通りである。何もかもが、いつも通りであった。

 そのいつも通りの朝食を口にしながら、マシロは昨夜の出来事をふと思い出した。小野に漏らした弱音事のような発言が、ぼんやりと脳裏に蘇る。

 それについて、小野はどう思っただろうか。着物を来てトーストを食べる小野に目を向けながら、マシロは考えを巡らせる。

 それについて今口に出してよいものかと、喉元まで出かけるほどになった。しかしパンを飲み込むたび、言葉も一緒に飲み込むというような具合であった。そんな時、


「ご飯を食べて、少し休憩したら、いつも通りお散歩に出かけましょうね」


 マシロが何か言う前に、小野がにこやかに言った。マシロはパンを咀嚼しながら頷いた。



 歯を磨き腹を休ませ、程なくしてから小野とマシロは散歩に出かけた。

 マシロは手ぶら、小野も日傘を持つくらいで、二人とも身軽な状態で朝の柔らかな陽の(もと)を歩いていく。

 散歩中、小野はしばしば自然の変化を指摘する。昨日まで蕾だった花が開いているとか、雨によって川の色が変わっているとか、風の匂いや肌触りが違うとか、その対象は様々で、マシロもそれを聞くたび自分の目と鼻と耳、全ての感覚を研ぎ澄ませ一緒に感じようとした。


 散歩ルートはいつも違った。この日は、最初の頃にも見に来た、真那たちが通う中学校がある方面に向かって歩いていた。マシロたちがその近くに辿り着くと学校のチャイムがちょうど鳴り、授業終わりを知らせるものだったのか、いくつかの教室からぞろぞろと生徒たちが姿を現し始めた。

 建物の中で生徒の群れが行き交う。開け放たれた窓から、かすかに声が漏れ聞こえる。その中には笑い声もあった。


 みんな今から何をするのだろう、そんなことを思いながら、マシロはぼんやり眺めていた。

 マシロは自分が学校に通っていたという記憶もすっかり消えてしまっている。それ故学校ではどういうことをするのかわからず、文也や萌子に何度か聞いた。勉強をしたり、体育で体を動かしたり、友達と話したり、真那のように部活をしたり、ひとつの建物のなかで実に様々なことをするのだと教えてくれた。


 それを思い出したマシロは、またふと思い巡らす。自分がこうして散歩をしている時も、真那たちは学校にいて、帰ってきたらマシロに稽古をつけるかもしくは話し相手になって、家に帰れば勉強して、夜になれば儀をして、文也は自主的な練習もして、忙しい毎日を送っているのだということを。


 あぁ、とマシロは静かなため息をつく。昨夜の思いが、再び蘇ってしまっていた。校内にいる生徒たちに向いていた目が虚空を見つめ始め、笑い声も耳に届かなくなってしまう。

 そのように、何を見るでもない表情になったマシロに小野は静かに目を向ける。そして少し眉尻を下げた後、ささやくように言った。


「――マシロ、ちょっと聞いてくれる?」


 改まった物言いに、マシロは思考を引っ張られる。返事はせず、瞬きを何度か繰り返して頭を切り替えると、小野の声に耳を傾けた。


「私はね、女性だし、……そうじゃなかったとしても、この歳だからもう儀はできないのよ。けれど、だからと言って、儀に全く関われないということはないの。何も、できないわけじゃあ、ないのよ」


 また、チャイムが響き渡る。学校の敷地を越えて、あたり一帯に広がった。

 その音が完全に消えた頃、生徒たちの姿は見えなくなり、学校の建物自体がしんと静まり返ったようになる。それによって、小野の落ち着きのある声が、より鮮明に聞こえるようになった。


「例えば私は今、マシロを預かっているでしょう。毎日マシロにご飯を作って、一緒に散歩に行って、マシロが舞を教わるようになってからは、舞を練習する場を提供して、昨日や今みたいに、悩めるマシロに寄り添っている。――痣子を取り締まる支部で支部長を務める恩地さんの話をよく聞くこともあって、介してあなたに助言をすることだってあるわ」


 小野が何を言わんとするか、マシロにはその意図を図りかねた。ただただ、黙って話を聞く。


「私は、儀はできなくとも、今自分にできることをやっているのよ。人って、その場に置かれた状況やそれまでいた環境で、できることって違ってくるの」


 言って、小野はマシロに向かってにこりと笑う。そうされれば、いつものマシロなら笑顔を返しているのだが、この時はじっと見つめることしかできなかった。小野が続ける。


「マシロもまた、痣子のみんなとは別の境遇にいるわよね。マシロはここに来てそんなに時が経っていなくて、舞の練習も、始めたばかり。身を置いている環境は、私とも、それから真那くんたちとも違う。そんなマシロが、私や真那くんたちと、全く一緒のことができるはずなんてないのよ」


 マシロはほんのわずかに顔を頷かせた。

 ――何となく、小野の言うことが理解できそうな気がした。確かにそうなのかもしれない、そう思う。しかし納得はし切れなかった。

 一刻も早く、真那や文也のように、舞ができるようになりたいという気持ちが強かった。しかし今は、その気持ちは確かな芯を持ってマシロの中に鎮座しておらず、ただただもどかしいという心持ちの方が、大きな存在感を放っていた。

 マシロは自分の感情を探りながら、唇を薄く開けたり引き結んだりした。そこから言葉が出されるのを、小野が静かに待つ。

 そしてややあってから、マシロから不明瞭な声が落ちた。


「……僕は今、舞を練習していて、でも、ただ教わるばかりで、いつになったら上手くなるんだろうって、不安があって…」


 やっと出された言葉をしっかり受け取るように、小野は深く頷く。そうなのね、と優しく相槌を打った。


「焦っているのね、マシロは」


 言われ、マシロは頷く。

 それを見やり、しばらく間を置いてから、小野はでもね、と続けた。


「教わるだけの状態なのは、今は仕方のないことでしょう?さっきも言ったけれど、マシロはここに来たばかりなんだから……」

「――でも」


 めずらしくマシロが言葉を遮り、小野の顔も少しピンと張り詰めたようになる。マシロの次の言葉を、また待った。


「……みんなは自分の時間を割いてまで、僕に教えてくれているのに、それに応えられなかったらどうしようって……」


 風で飛んでいきそうな声だった。が、小野はしっかりと受け止めていた。また、しばしの沈黙があった。


「――そう思うならね。尚更、今のように立ち止まってしまっていては、せっかく教えてくれているみんなの顔が立たないんじゃないかしら」


 いつもよりも口調をやや強くして小野が言う。マシロは逸らしていた目をまた小野に向け直した。

 怒っている様子はない。けれど、いつものような優し気な表情ではなかった。威厳に満ちていた。


「今のように塞ぎ込んだ状態でいると、稽古に身は入らないわよ。――上手くなれなくて、みんなに申し訳ないと思うのなら、今マシロにできることはなに?その舞の練習をすることしかないでしょう?」


 マシロがぐ、と息を呑む。小野は勢いを止めることなく続けた。


「ひたすら舞の練習をなさい。今マシロにできることは、それでしょう。これでもかって思うくらい、やってみなさいな」


 小野の言葉が、重くマシロの心に伸し掛かかる。体が沈み込みそうなほどだった。

 だけど、だけど、とマシロは何度も心で呟いた。


「目標を高く見積もりすぎてはだめ。マシロが急に真那くんのように舞ができるようになることなんて、まずありえないわ。だって、携わってきた時間と、練習量が違うもの。でもだからといって、そこは落ち込むところじゃないの。落ち込む前に、すべきことがある。何もできていないと思うのならば、できるようになるまで何かするしかない。何でもいいから、今自分にできることを、ひたすらやるしかないのよ。――今、もう一度聞くわよ。マシロの目の前にあることは何?」

 

 小野の双眸(そうぼう)がマシロを射抜く。それはマシロの背骨を屹立(きつりつ)させ、地に立つ足を真っ直ぐにした。呼吸までもが、深いものになる。

 今一度、マシロは考え直す。今自分がしていることは何か。それは舞の練習だった。真那や文也、萌子が、自分の時間を割いてまで教えてくれる舞を、今自分はしている。


「――舞、です」


 マシロから明瞭な声が発せられる。言葉もはっきりとしていた。

 それを聞き、小野が表情を和らげる。そしてそのまま、身を屈めた。着物の良い香りがふわりと浮かび、マシロの鼻をかすめる。


「成果がなかなか出ないと、こんなことをしていて何の意味があるんだろうかって、思うこともあるかもしれないわ。でも続けていれば、いつか実を結ぶ。そうなるまで、遠回りになることも、道を間違えることもあるかもしれない。――それでもいいの。その道で何かを見つけ、且つ拾うことができれば。やることに、意味があるのよ。先を見過ぎず、上を見過ぎず、自分の足元、目の前を見て、ゆっくりでもいいから、進んで行きなさい」


 小野が目尻に皴を寄せる。瞳は艶やかで生気に満ちていた。そこには小野を見つめるマシロが映っている。マシロは目を見開き、小野の瞳越しに自分を見つめ、その自分に見せるように深く頷いた。


「それができるようにするために、毎日よくご飯を食べて、寝て、適度に動いて、体を丈夫に保ちなさい。それも、マシロが今できること」


 そう言って小野は体を真っ直ぐ立たせると、マシロの手を取り、ゆっくりと歩き出した。マシロはまた頷き、小野の手を握りしめながら、足を前へと進めていった。


 静かになった学校を通り過ぎた頃、小野が「それから」とまた口を開いた。


「舞の稽古のことや、日常生活の中でも共通することになるんだけれど。――これから少しずつ、自分が今できること、すべきことを、自分で考えて実行できるようにしていきましょうね。もちろんすぐにはできないから、それも、練習していきましょう。きっと、マシロの力になるはず。大丈夫、あなたにはできるわ」


 小野がマシロの手を改めてぎゅっと握る。その感触を受け、マシロもにわかに握り返す。

 小野とマシロの手は、しっかりと繋がっていた。マシロはそこから、力を分け与えられているような心地になった。そのためか、足も心なしかいつもより強く大地を踏み、前へ前へと確かな歩みを進めていく気がした。


 太陽から降り注ぐ光は暖かく、時折吹く風は心地よい。映る景色は目に鮮やかで、香る草花の気配は澄んでいる。

 マシロはそれらを素のままに受け止めていった。ひとつひとつが、マシロの小さな背中を押してくれた。


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