禁断の恋に身を委ねてみたいと思いませんの?(後編)
「ありますの!?」
一瞬で元気になられたお嬢様に、殿下は爽やかな笑顔を向けられました。なんだか底知れない感じです。
「あるよ。君にもあるのかな?」
「わたくしのことより、お兄様の禁断の恋について詳しく教えてくださいませんこと?」
「なんで教えてあげなきゃいけないのかな。君に教える理由がない」
「詳細は伺いません! そんなの自分で考えますわ。ざっとしたところでかまわないんですの。お相手がどなたか、だけでもかまいません。教えてくださいな」
無茶苦茶なことを口走ってしまわれたお嬢様に、わたくしは完全に血の気が引く思いですが、殿下は落ち着いたご様子です。
「じゃあ、次の誘いも受けてくれるかな」
「……えっ?」
お嬢様が、まさに虚を衝かれたというお顔をなさいました。
「たいせつな秘密だからね。交換条件だよ、エルシー」
お嬢様は真面目なお顔で少しお考えになってから、こうお答えになったのです。
「わかりました。お兄様がそれをお望みなのでしたら、暫くはおつきあいしてさしあげますわ。一回や二回では、おばさまも納得なさいませんでしょう。そのためなのですわね?」
殿下は、尊大にうなずかれました。さすが、やんごとなきご身分のかたは違うと思わされる所作です。
「そう思ってくれてもかまわない」
「よろしゅうございます。お兄様がわたくしの盾になってくださらなくても、わたくしはお兄様の盾になってさしあげますわ」
「実にたのもしいね。それを聞いて安心したよ」
「では約束を果たしてくださいませ、お兄様。お兄様の意中のかたとは、どなたですの?」
殿下はお嬢様の手をとり、手袋の上からそっとくちづけを落とされますと、ひらりとその手をはなしておっしゃいました。
「馬蹄の音がする。医者が来たようだ。様子を見てこよう」
「お兄様! お逃げになるの!?」
「まさか。賢いエルシーならわかるだろう? 名前は駄目だ。少なくとも今日、それを教えるわけにはいかないね。禁断の恋においては、もっとも重要な情報だろう? 僕が彼女を裏切れるはずがないじゃないか」
お相手のお名前は秘するもの。殿下のお言葉はまことにごもっとも、当然のお答えです。とは申せ、お嬢様がそれではおさまらないのも、わたくし、深く理解するところでございます。
「……そう……そうですわね。確かにそうですわ……そうですけれど!」
「今日のところは、それがリリベル嬢ではない、という情報で満足したまえ」
そうおっしゃる殿下は――今度は角度の関係で、はっきりと拝見することができたのですが――それはもう、底知れないどころか絶対に底がなさそうな、掴みどころのない笑顔でいらしたのでした。
ですが、お嬢様はまったくお気がつかれないご様子です。扇の下でぶつぶつとつぶやいておいでなのは、わたくしの勘ですけれども、リリベルではない……じゃあ、あれはなんだったの……紛らわしいことなさらないでよ……と、そういったところでございます。
そのままこちらをご覧になりましたので、『降ってきた』が来るのかと、わたくしは身構えました。降ってきてもよろしゅうございますが、さすがに大声で叫ばれるのは自重していただきたいところです。そこだけごまかせれば、あとは……このあたりには御不浄はございませんので、お花摘みに行かれますと申し上げれば距離もとれるでしょう。時間を稼いで、落ち着いていただく作戦です。いつもの道具は揃えてございますし、少しだけなら書いていただくことも可能でしょう。わたくしは覚悟を決めました。
が、お嬢様は、わたくしから視線をはずされますと。なんと、殿下を追って行かれるではありませんか。
「お義父様のお世話をするのは、わたくしの役目ですわ!」
……そうでした。ジョージ様を放置するわけには参りません。
いや……でもお嬢様? 令嬢らしからぬ全速力で走って……そんな! 殿下をかるがると追い抜いて、一目散に馬車へ! ええ、今まさにお医者様が着いたところのようですが、あの走りっぷりは……いけません。殿下も、ぽかんとして見送っておいでです。正直、わたくしも出遅れました。
と、殿下がわたくしをご覧になりました。わたくし……ですよね? 近い! 近過ぎます。お嬢様につられて、わたくしも少しばかり前に出ておりましたので……殿下との距離関係が、おかしくなっております。
どれほど近いかと申しますれば、殿下の眼の色がはっきりわかるほどです。ごく淡い水色で、わずかに緑がかってもいるでしょうか。そう、殿下の眼は水色だと伺っておりましたが、青と緑のあわいにある色のように思えます。常緑の木の葉が霜で覆われたような、あるいは深い霧に包まれたような、そんな色です。冷たくて、しんとしていて、人を寄せ付けない――。
「置き去りにされてしまったね、スカーレット」
話しかけられてしまいました! えっ、こんな展開まったく予想だにしておりませんでした。わたくしのお行儀は付け焼き刃でございます。つまり、非常に不安です。とりあえず視線を下げます。殿下のお顔を直接は拝見しないように気をつけます。それであってるはずです。
「はい、殿下」
「君のことは母に聞いたよ」
なんですって!
「畏れ多いことです、殿下」
反射的に口走ってしまいましたが、はい殿下にしておいた方がよかったでしょうか? わかりません! 助けてくださいお嬢様! ひとりにしないでねとおっしゃったのは、お嬢様ではありませんか! そのお嬢様が、なぜ、わたくしをひとりにしてしまわれるのですか! あなたのメイドの取り柄は赤毛でございまして、やんごとなきかたがたを前にしての礼儀作法や話術などではございません。無理です、お嬢様!
「大陸で召し抱えられたそうだね。どこの出身?」
殿下は気楽にお声がけなさいますが、わたくしは恨めしいばかりです。メイドのことなど空気とお思いくださればよろしいのに。
「緑の島です、殿下」
「……ああ、なるほど。それでその見事な赤毛か」
納得されてしまいました。たしかに、わたくしの故郷は赤毛が多いのです。それは故郷ではわたくしの髪色は目立たなかったという意味であり、同時に、こちらでは目立つという意味でもあります。目立つ赤毛だからこそ、採用されたのです。
「緑の島の、どのあたり?」
「南部です、殿下」
暫し、沈黙が流れました。尋問はこれで終わりでしょうか?
お嬢様のところに行きたいのですが、まさか殿下を置いて行くわけにも――殿下がメイドごときの存在を無視してくださればよかったのですが――話しかけられている最中に、勝手に場を外すなど! できようはずも、ありません。この沈黙を、会話終了と看做してもかまわないでしょうか。かまう気がいたします。
つくづく、出遅れたことが悔やまれます。ですが、はっきり申し上げておきますと、お嬢様の速度が異常だったのです。わたくしはもちろん、殿下まで呆然とさせる全力疾走でございました。令嬢が、あんな勢いで駆け去るなど! あり得べからざることでございます。
「今日のレディ・ウィスターシャのドレスだけれど――」
殿下のお話は終わっていなかったようです。移動しなくて正解でした!
「――見立てたのは、君?」
「はい、殿下」
お嬢様のお召し物をご用意するのは、レディーズ・メイドであるわたくしの職掌でございます。本日は、本気を出してもかまわないとのお達しでしたので、ええ、それはもう楽しくご用意いたしましたとも! 鼻息荒く語ることも可能なほどですが、さすがに王太子殿下に向かってまくしたてるわけには参りません。
「彼女によく似合っているね」
「もったいないお言葉です、殿下」
「どうして、あの暗い青を選んだの?」
「それは……お嬢様は、服喪の期間が明けたばかりでいらっしゃいますので、あまり明るいお色は……」
会話がここまで進みましたところで、わたくしは、はっとしました。殿下はお嬢様にあわせて黒薔薇まで手配してくださいました。ですのに、お嬢様のお召し物には、殿下のお色が取り入れられていないのです。
……弁明いたしますと、お断りするお相手に、そのような配慮をするのは逆に失礼となりましょう。ですが……この問い詰めっぷりは……申し訳程度でも、なにかお色を入れるべきだったでしょうか。
「エルスペスの希望はなかった?」
殿下の色は使わないでね……が、お嬢様のご希望でしたが、さすがにそれは! 申せません! 当たり障りのない方だけお伝えいたしましょう。
「暗いお色の中では、青がお好みだったようです」
控えめに申し上げましたが、心の中ではわたくし、絶叫しておりました。水色は! 無理でございますから! ほら、服喪明けでございますもの! 殿下、どうかご理解くださいませ! べつに殿下のお色を避けたわけではありますが……ありますが、そもそも無理なのございます、ほんとうにもう、ええ、無理でございます! 水色でも明る過ぎるのです、金においてはなにをかいわんやでございます!
わたくしの答えになにをお感じになったのか、殿下はつぶやかれたのです。なるほどね、と。
「ありがとう、とても参考になったよ」
「お役に立てて光栄です、殿下」
「ご褒美だ。お嬢様にこう伝えたまえ――『リリベル嬢の本命は、アルバートだ』とね。きっと喜んでくれるよ。さあ、行きなさい」
なんと、お嬢様のもとへ行きたくてやきもきしていたのまで、お見通しだったようです。エドマンド殿下……なんと察しのよいかたでしょう! アルバート殿下とは比較になりそうもありません。それよりなにより、リリベル様ってそうなんですか? ほんとうに!?
わたくしは、お嬢様のもとへ急いだのでした――お嬢様付きのメイドに許される、最高の早足で。……いえ、正直に申しますと、ちょっと速度を上げ過ぎていたかもしれません。殿下から遠ざかりたかったのです。王太子殿下のお相手をし奉るなど、一介のメイドには無理……無理でございます。
* * *
結局、その日の観劇はとりやめとなり、また後日と約束して殿下は去って行かれました。もちろん、お嬢様とジョージ様をお屋敷まで送り届けてくださった上でのことです。ジョージ様のお身体を横たえるために、帰路はわたくし、殿下の護衛としてご同行なさっている近衛騎士様の馬に相乗りすることになり……ほかにいかんともしがたかったのではございますが! いっそ歩いて帰らせてくださいとお嬢様には申し上げましたが、なに馬鹿なことをいっているのという顔をされただけで、訴えは虚しく却下されたのでした。それが駄目なら馬をお貸しくださいと喉元まで出かかりましたが、わたくしが馬をお借りするということは、騎士様のどなたかが徒歩になるということ。あるいは、気の毒な馬が男性をふたり乗せることになるわけで、それは馬がかわいそうなので、諦めました。
そういうわけで、見も知らぬ殿方とふたりで相乗りをする羽目になり、わたくしはとても……動揺してしまい、殿下がせっかくご褒美にと教えてくださったとっておきの情報をお嬢様にお伝えするのが、ひどく遅くなってしまったのです。
わたくしが思いだしたのはお嬢様がおひとりで――ジョージ様は舌に傷ができてしまわれたので、今夜は念のために絶食するようにとお医者様にいわれてしまったのです――お食事を終えられ、すっかりお休みになる準備が済んだときのことでした。
「まぁ、お嬢様……大変です。殿下からのおことづけをお伝えするのを、すっかり忘れておりました!」
「殿下から?」
そう眉根を寄せられたときのお嬢様は、ナイトガウンに身を包み、寝台に腰掛けていらっしゃいました。
「はい。お嬢様があの……わたくしを置き去りになさったときに」
恨みがましい表情になってしまったのでしょう。お嬢様は、それは楽しげな笑みをこぼされました――ええ、お嬢様にはそういうところがおありなのでございます。
「殿下とお話ししたの?」
「はい。殿下は、陛下からわたしのことをお聞きになっている、と」
「それは興味深いわね。どんな話をしたか、できるだけ詳しく教えてちょうだい」
お嬢様にいわれるままに、わたくしはあのときのことを思いだして、ご説明申し上げました。もちろん、おことづけも含めて。
「アルバート様ですって?」
「はい」
てっきり、男の趣味が悪いだのなんだのとおっしゃるかと思ったのですが、これはわたくしの心得違いでした。お嬢様は、他人様のご趣味を腐すようなことはおっしゃらず、ただ、少し意外そうなお顔をなさったのです。
「リリベル嬢ったら……あんな可憐なかたが、遊び人を好いておいでだなんて、意外だわ。エドマンド様のことは、わたくしの勘違いだったのね。アルバート様がお好みなら、エドマンド様をお好きになどなられるはずがないもの。それにしても、アルバート様……。そう。そうなのね? それはきっと、あれだわ。ええ、あれに間違いないわね……」
どれでございましょう?
お嬢様は、暫し俯かれました。なにかをお考えになっておいでのようです。やがて美しいお顔を上げられたとき、その双眸は蝋燭よりもあかるくかがやいていたのでした。
「あれよ。『わたくしだけは、彼のことを理解しているわ』と思っているに違いないの。こうなのよ。『わたくしだけは、ほかの恋人たちとは違うの』『彼はとうとう真実の愛をみつけたのよ』……これよ! そこに聞こえてくる不穏な噂――陛下が、王子がたに婚約者を見繕おうとなさっておいでだと。その候補のひとりは、女伯爵レディ・ウィスターシャ!」
わたくし、あれとかこれとかはよくわかりませんが、次にお嬢様が発されるお言葉についてはもう、完璧に予測ができてしまったのでございます。
脱ぎかけていた室内履きに足を入れ直し、お嬢様はこう叫ばれました。
「降ってきたわ!」
「お嬢様、今日はお疲れでいらっしゃいましょう。明日になさった方が」
無駄とは知りつつ、一応はお止めしたわたくしに、お嬢様は眉を上げ、心底馬鹿にしきったようなお顔でおっしゃったのです。
「馬鹿なことをいわないで。久しぶりに凄いのが降ってきたのよ、寝られるわけなどないでしょう! スカーレット、蝋燭を増やして。明るくないと書けないわ。それと、厨房で飲み物を作らせてちょうだい」
「……かしこまりました、お嬢様」
「ああ、眠ければあなたは先に休んでいいわ」
そんなわけには参りませんが、お嬢様がおやさしいと感じるのは、こういうところなのです。
就寝に備えて消してしまった蝋燭のいくつかに火を移し直し、お嬢様の肩にショールをお掛けすると、わたくしは厨房へ向かいました。身体があたたまるものを、なにか作ってもらいましょう。甘いお菓子もいいかもしれません――お嬢様の夜は、きっと長いのでしょうから。
第三話はこれにて完結です。
設定関連は pixiv のシリーズにある「設定資料」のところにもう少し書いてありますので、ご興味があればそちらもどうぞ。
https://www.pixiv.net/novel/series/8102333/glossary