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身代わり地蔵  作者: 五十嵐。
第二章
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中野はどうすればいいのか

 そんな母の日から数日後、オレは中野をいつもの居酒屋に呼び出していた。

 中野は翔子ちゃんが出かけていた母の日の休日、琴音ちゃんとの時間を楽しく過ごしたらしい。


「僕、おむつ替えとか得意なんです。今、娘は隙あらば逃げるという行動に出まして、オムツを外した途端、体を翻して逃げようとするんです。その体の角度に合わせてオムツを当てることができます」

 オレも一度、正人の世話でそういう場面に出くわしていた。しかし、逃げられてしまい、オムツを片手に追い掛け回す羽目になった。その高度なテクニック、恐れ入る。


「すごいっす」


 オレはこの中野が目を輝かせて子育てのことを語るのをじっと聞いていた。

 次から次へと飛び出す育児のことに、なぜ中野は育児休暇を取らないのかという疑問が沸き起こった。

 ああ、そうだ。それは給料が減るからだった。翔子ちゃんがあからさまに反対したということを聞いたっけ。そういうとこは翔子ちゃん、家庭の財布の紐を握っているだけあってしっかりしている。年上女房ってこともあるんだろう。


「翔子ちゃんはレトルト食品とか、琴音用の離乳食まで、そういうのを買ってくるんです。だから僕が時間のある時に、さつまいもとかほうれん草の裏ごしとかを作り置きしているんです。そうそう、ご飯を炊く時に、小さい湯飲み茶わんに米と水を多めに入れて真ん中に置いて炊くと、子供用のおかゆができます。これは炊飯器の会社に知られると叱られそうですが、すごく便利ですよ。IT機能のついた炊飯器だとできるかはわかりませんが、うちは古いタイプの炊飯器でやってます」

「へえ、そういえば、うちにもまだ壊れていない古いのがあったな。その技、そのうちに使わせてもらいますね」


 男二人が子供の離乳食の話に花が咲いていた。

「翔子ちゃん、やることはけっこう大雑把なんですけど、時々神経質すぎるところがあって、娘がいろんなものを口にするのをすごく嫌がるんです。すぐに取り上げちゃう。ばっちいって言って。子供って、口でなめてその形や堅さとかを判断するって聞いたことあるんで、それほど汚いものじゃなければ放っておいていいと思うんです。でも、ばい菌から守るっていうその気持ちもわかるんで、何も言えないんですけどね」


 中野の子供に対する熱意は、そこら辺の主婦よりもずっと熱いことに気づいた。この人、普通に主夫できるんじゃないかって。いや、この人が主夫をする方が子供のためにも、翔子ちゃんのためにもいいかもしれないと思う。


 それよりもオレは中野にきかなくてはならないことがあった。

 翔子ちゃんをまだ、愛しているのかということ。

 翔子ちゃんにとって中野という男は、父親としては申し分ないらしい。しかし、夫婦関係は破たんをきたしていた。


「中野さん、奥さんのこと、どう思ってるんですか」

 中野がそんな質問に驚き、不安そうな眼をむけてきた。

「先日、うちの妻が奥さんといろいろ話をしたらしいんです。それで、中野さんがその・・・・全然近づいてくれないって嘆いていたそうです」

 中野は目を伏せた。それが事実だからだろう。


「ハワイのことがあって、翔子ちゃんと二人きりになることが、もう恐怖でしかありません。一緒に寝ているとまた、女性になって、襲われるんじゃないかと思うと、ベッドがなくても堅い床に毛布を敷いて寝た方がずっといい」


「奥さんのこと、許せませんか。だめですか?」

「あ、いや。許せないというより、ただ恐怖なだけで。昼間、普通に話しているぶんにはいいんです。それは本当です。決して翔子ちゃんのことが嫌いだっていうことじゃないんです」



 中野が受けたトラウマも重症だった。でも、翔子ちゃんもそれなりに悩んでいるのだ。まだ、愛情不足がついてまわり、中野からのスキンシップを求めている。それなのに満たされない。いや、満たされないどころか、むしろ、避けられていた。

 今は琴音ちゃんのことで忙しいから気が紛れているが、もう少しして落ち着いたらどうなるんだろう。琴音ちゃんを抱っこしているだけでも癒されているらしいが、怖いのは翔子ちゃんが今の家庭内離婚で我慢できなくなった時だ。やはり翔子ちゃんの子供の頃の話を語るしかない。


「奥さんは家庭に恵まれていなかったそうですね。それはご存知ですか」

「ああ、はい。知っています。叔母さんに育てられたって言ってました。その程度ですけど」

 この場で、オレが翔子ちゃんのことを語るなんて予想していなかったらしい。中野は酔いも吹っ飛んだ様子。そりゃそうだろう。自分の妻のことを他人の夫から打ち明けられるなんてありえないだろうから。


「まあ、聞いてください。これは奥さんがうちの涼子に打ち明けて、そのことを僕から中野さんに伝えて欲しいと託されたことなんです」

「え、それって翔子ちゃんが僕に言えなかったことってことですか。そういうことなんですね」


 オレは、翔子ちゃんから聞いた子供の頃の話をした。けど、成長してから翔子ちゃんは、心を満たすために、多数の男たちと寝たということは言わなかった。それはオレがいうべきことじゃない。中野にわかってほしいことは、翔子ちゃんは、中野に触れられることで心の安定を求めているということ。だから、なかなか近寄ってこない中野に苛立ち、先に手を出してしまっていたのだ。


 中野は些か血の気が引いたような顔色になり、真剣な表情で黙っていた。オレも口をつぐんだ。少し中野に考える時間を与えるためだ。今入ってきたばかりの情報を、自分なりに消化しないと具体的な答えは出ないと思う。

 オレはただ黙ってビールを飲んで待っていた。


 やがて、中野の表情が少し明るくなった。

「そうですか。翔子ちゃん、そんなこと、一人で抱え込んでいたんですね。なんでもっと早く言ってくれなかったんだろう。寂しいから抱きしめて欲しいって言ってくれれば、すぐにしてやれたのに。いつもいきなり、僕の想定外の行動に出るから、ちょっと怖かったんです。まず、寂しいとか、心がモヤモヤしているからって口に出してくれれば、・・・・・・そういうところは子供みたいですね。あ、翔子ちゃん、子供の頃、そういう欲求を口に出せなかったんだ。だからか」


 翔子ちゃんの場合は、母親から受ける愛情もなかったし、仲がいい両親の姿を見ることがなかった。だから、そういう時はどう表現したらいいのか、わからないときもあると推測できる。これから少しづつ家族から愛情を受ければ、学べるだろう。

 そしてやはり、男女の仲、夫婦も本当に仲よくやっていきたいのなら、胸のうちを打ち明けることが大事だ。一人で考え込むよりも二人で考えればそれだけで心が落ち着くこともある。誰かがいてくれる、それだけで安心なんだ。


「じゃあ、あのハワイでのことは、僕が全然翔子ちゃんに触れなかったから? だからあんなことが起こったんでしょうか」

 中野はまだ不安そうだった。

「あ、安心してください。もう体が入れ替わるようなことは絶対にありませんから。あれはハワイでの不思議現象だと思って忘れてください。もう中野さんが女性になることはないんです」

 そう。だって翔子ちゃんはもうみがわり地蔵をレンタルすることができないんだから。


 中野はその言葉に、憑き物がとれたかのような清々しい顔になった。

「本当ですか? もう絶対にあんなこと、起こらないんですね。翔子ちゃんと一緒に寝ても、僕は僕としていられるんですね」


「あ、奥さんにせまられるかもしれませんよ」

 そこのとこ、ちょっと気になる。

「僕が僕の体で、翔子ちゃんに襲われるのは別にいいんです。っていうか、いつもそうでしたから。僕が恐れているのは、僕自身に襲われることなんです。あれはとんでもない恐怖でした。そうか、もうそういうことは起らないんですね。あれはハワイの不思議な現象だったんですね」

 中野がみがわり地蔵のことをそんなふうに勘違いしてくれた。入れ替わりのことを追及されたらどうしようかと懸念していたのだ。ハワイの地には悪いが、この際、そういうことだってことにしておこう。


「はい。ですから、これからのこと、夫婦でよく話し合ってください。そもそも夫婦なんて対等なんですから、もし行き違いがあったら、よく話し合って解決していけば大きな揉め事にはならないと思うんです。うちもそんなことにやっと気づいて、歩み寄ったところなんですけどね」

 本当にそうだった。中野のところはそれほどではない。うちの方がもっと深刻だった。


 中野にオレの考えを提案することにした。いいことを思いついていた。


「中野さんのお宅のことなんですけど、中野さんは料理もできるし、琴音ちゃんの面倒を見ながら育児をされたらいかがですか。そして奥さんは外に働きに出る。そうして中野さんは奥さんが帰ってきたら、家でデザインの仕事をするんです。確か、独立したいって言ってましたよね。奥さんが働くなら収入もそれほど不安定にはならないでしょうし、もし、仕事が忙しい時はベビーシッターさんに来てもらって、それを乗り切る方法もあります。いかがですか」


「翔子ちゃんが外に働きに出て、僕が主夫をするってことですか? 今まで考えたこともなかったな」

 そうだろう。日本人の考えでは、まだまだ男性が外へ働きに行き、女が子供と一緒に家にいるっていうイメージが根強い。しかし、翔子ちゃんが働けば、ある程度の収入が入る。中野は独立し、仕事が安定するまで子育てをする。忙しくなってきたら、お互いの時間の調節をすればいいのだ。

「それってすごくいい考えかもしれません」

 中野がブツブツ言いだした。


「翔子ちゃんはたぶん、この居酒屋に戻れると思います。店長が昼間から下ごしらえや準備を手伝ってくれる人を募集しなきゃって言ってたし、以前働いていたときも翔子ちゃん、お客さんからかなり評判がよくて、他の人よりも時給を優遇してくれていたんです。夜働かなきゃいけないけど、昼過ぎの出勤なら、僕が朝から仕事ができるし、琴音の世話をするのは全然苦にならないから、平気です」


 オレはその答えを聞いて、心からこの夫婦に係わってよかったと思った。ここまで解決すれば、この後は二人でなんとかやっていくことだろう。


「二人がやりたいことをやれるのって、いいですよね。どんなに忙しくても笑顔で乗り切れそうだし、子供も大きくなって幼稚園へ行けば、中野さんももっと仕事に励めるんじゃないでしょうか」

「はい。ありがとうございます」


 その後は二人で再度乾杯をし、オレは久しぶりに酔った。そして中野夫婦のこと、うまくいくようにと心から応援する。

 



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