母の日のみがわり2
「中野さんの奥さん、今日の午後、うちに来ることになった。だから、よろしくね」
オレの体に入った涼子がそう言って、正人を連れて出かけていった。今日は正人と一緒に遊園地で遊ぶらしい。正人も大喜びしていた。
オレは、清乃を寝かせて一人で映画を見ることにした。なぜか、涼子の体に入るとバトルゲームはやりたくなくなる。乳幼児を持つ涼子の体は、誰かと戦うということを拒否しているのかもしれない。今は子供を愛し、育てるために、できるだけ自分の身も守るという本能があるのかもしれなかった。
先日、テレビでやっていたが、出産後にはオキシトシンという筋肉収縮を司るホルモンが活発に出るらしい。感情を高めるから、愛情を深められるのだ。逆にストレスを感じると逆の効果で、攻撃的にもなるらしい。自然に子供を守るようになっているんだ。乳飲み子のいる母親にはなるべく精神的な負担をかけないようにするってことだな。
涼子が用意してくれたランチを食べ、翔子ちゃんが来る前に清乃に授乳をする。これでしばらくは清乃も寝てくれることだろう。寝室で清乃の寝顔を見ていた。
誰かが遠慮がちにドアをノックしているのに気付いた。
ドアを開ける。翔子ちゃんがケーキの箱を持ってそこに立っていた。
「ごめんなさい。清乃ちゃんが寝ていたら、呼び鈴、うるさいかなって思って」
さすが。こういう気配りは、幼い子供を持つ母親だ。
「大丈夫。さあ、どうぞ」
今日の翔子ちゃんはいつもよりちょっとおめかしして、化粧もしている。そうした姿をみれば、翔子ちゃんはぐっと大人の女性の雰囲気だった。
「買い物、どうでしたか? 久しぶりに一人で出かけるのっていいでしょう」
翔子は少しだけ目を丸くするようにして見ていた。
「はい。あちこちをぐるぐると歩いちゃいました」
ハーブティを出す。
「何、買ったんですか」
女性ならきっとそういうんだろう。お得な値段でいいものが買えたなら、戦利品のように自慢したいっていうのが女性ってもんらしい。
「あ、子供用のかわいいサンドレスと靴です。夏用の帽子も」
「子供用? 母の日の買い物じゃなかったんですか」
しかし、翔子ちゃんは気のなさそうな表情でポツリと言った。
「あ、はい。お揃いの帽子、買いました。これから陽が強くなるし、重宝するかなって思いまして」
母親ってこういうもんか。
「ご自分の洋服とかは?」
翔子は微笑んで首を振る。
「私、別にいいんです。でも久しぶりに一人で買い物をして、自由が楽しかった半面、なんだか寂しくなっちゃって」
「淋しい?」
ずっと家に子供といるんだから、独身の時のように一人でのびのびと買い物をすればいいのに。なぜ寂しいんだろう。
「うちの人、私が喜ぶって思って一生懸命に考えてくれたから、出かけたんです。もちろん、主人には寂しくなったなんて言いません。ここだけの話にしてくださいね」
中野が考えてくれたから、外へ出たってこと。それはそれほど翔子ちゃんにとってはうれしくなかったことらしい。
「私、一人で外にいて、なんだか自分だけがいらない存在なんじゃないかって気がしちゃったんです。私なんかが家にいない方が、あの人、思い切り琴音と一緒に遊べるのかもしれない。私を追いやってのんびりしているんじゃないかって」
「え、まさか」
あの中野に限ってそれはないだろう。
「だって、あの人、私には近寄ってこない。私が琴音から離れて、洗濯とか料理をしていると、琴音に近づいてきてを抱っこ。そんな時、すごく嬉しそうにしているんです。そんな笑顔、全然私には見せてくれない。絶対に私のこと、避けてるってすごく思いました」
中野は、あのハワイの出来事から翔子ちゃんを避けていた。もしかするとまた、入れ替わって襲われるんじゃないかっていう恐怖だ。
「今日の涼子さんって、いつもと感じが違う。なんでだろう」
翔子ちゃんが意味ありげに見ていた。
どきりとしたオレは平気を装って、ハーブティーを一口飲んだ。さらにケーキを一口サイズに切って、口に運ぶ。
「そう?」
そりゃそうだろうな。いつも話している相手なら、相手の様子が違うのはわかるだろう。
「まさか。今、旦那さんと入れ替わってたりして」
う~ん、鋭い。実に女は鋭いぞ。
やばいと思った。
どうしよう。打ち消す? いや、ここで慌てて否定したらだめだ。平然としてろ。
「そっ。今、私、旦那と入れ替わってんの。あはは」
そう言って笑った。
一瞬、翔子ちゃんの顔がマジになる。けど、すぐに破顔一笑した。
「いやだ。本気にしそうになっちゃった」
「あら、本気にしてくれなかったんだ」
ほっとしたのも顔に出さず、澄ましてにっこり笑う。
「きっとあの旦那さんなら、絶対に違いますってムキになって否定すると思うし、今日の涼子さん、すっぴんでしょ。髪型もいつもと少し違うからかな。肌きれいですね。どんなお手入れされているんですか」
「そう? ありがとうございます。友達から聞いた自然素材の洗顔フォーム使ってるの。後で見せてあげる」
そう、風呂の湯垢もばつぐんに落ちる優れものだ。
「はい。ぜひ教えてください」
何とか涼子として受け入れてくれたようだ。
「私、うちの人のこと、智くんって呼んでるんですけど、智くんと出会った時、すっごく新鮮だったんです」
翔子ちゃんが少し遠い目をしながら、語り始めていた。
「智くんっていつも自然体で、工作とか絵とかになるとすっごく夢中になって、嬉しそうに話をするんです。私、すぐに好きになっちゃいました。でも、私、頭のどこかでは、いざとなると智くんも他の人と同じだと思ってたんです」
中野との出会いを話していた。
「他の人と同じって、どういうことですか」
そのあたりの意味がわからない。
翔子ちゃんは、ちょっと伏し目がちになり、含み笑いをする。オレの背中がゾクっとした。かわいらしいと思っていた翔子ちゃんの顔が、すべてを知り尽くしています、みたいな大人びた夜の女みたいな顔に見えたから。
「普通の男性って、何度か二人で会っていると、それとなく二人の関係を意識してくるでしょう。ただの友達なのかとか好きなのか、このままつきあっていくのか、もっと接近してもいいのかっていう計算も念頭にあると思うんです」
うん、まあそんなとこだ。
オレの場合、女の子とつきあうには、好みのタイプ、気のつく子とか、話しやすい人を意識する。そして顔見知りになったら、メルアドとかラインで繋がって、二人きりで会ってくれるかどうか誘ってみる。もし、承諾してくれるなら、こっちに気があるからだろうと推測できるから、行動のみ。
それからは何度か二人きりのデートをして、つきあって欲しいと言ってみる。そんなのが普通カップルのパターンだろう。もし、その場で向こうにその気がなければ、その時に言ってくれるし、そうなったらさっさと諦めればいい。
つき合いはじめたら、彼女がどんなことに喜ぶかとか、興味があるのか関心がむく。お互い好きだと言う気持ちが高まれば、お互いに接近することを企むことになる。そういうことも女性は期待するだろうし、男はその気配を感じ取って、ちょっと金のかかりそうなレストランを予約したり、デートの場所を選んでいく。
なんだか、そんな恋の駆け引き、遠い昔のようにも思えた。
「でも、智くんは他の人と違っていたんです。どこかへ出かける時も私から誘うし、行先は任せると美術館、アートギャラリー、水族館とか。別にどこでもよかったんですけねど。二人きりで夜遅くなっても、じゃあって言って、すんなり帰っちゃって、男性としての下心が見えてこなかった」
ああ、それは草食男子ってやつだ。その場合、友人と一緒にいる感覚だけで、異性を全く感じていないパターン。
「翔子さんは、早くそういう関係になりたかったんですか」
思い切って聞いてみた。
「はい。その方が手っ取り早くて愛情がわかりやすいでしょ」
率直な言葉に、共感度満点の相槌が打てなかった。
やっぱり翔子ちゃんってちょっと違う。
「だから、酔っぱらったふりをして、ラブホテルで休みたいって言ったんです。そうしたら本当に私のこと、心配して介抱してくれた。嘘だって言えなくなっちゃうくらい申し訳なくて。もう大丈夫って言ったら、一人で帰ろうとするから、一緒に泊まっていってって言ったんです。そうしたらどうしたと思います?」
うん、男なら接近していくだろう。場所も場所だし、状況が整っている。今まで普通の友達だった人が女性だったと気づき、そういう関係が始まる、そんな瞬間。
オレならとりあえず風呂に入って、相手の出方を考えるかな。あっちもその気なら、態度や目線でわかるだろう。
「あの人、ソファへ寝ようとしたんです。この人、本当に純粋なんだなって思いました。そしてますます好きになったんです。それで、なにもしないから一緒にベッドに寝てって言って、結局襲っちゃいました」
本来なら、襲ってしまう行動に出るのは男側だろうが、そんなこと気にしない様子で翔子ちゃんはあっけらかんとしていた。
それはもう中野から聞いていた話だったから、冷静に受け止め、涼子のふりをして驚く真似ができた。よく考えるといつも中野は翔子ちゃんに一方的に襲われている。
「私、もともと人の温もりに飢えてるんですって。だから、男の人に抱かれていると安心できるんです」
それは初耳だ。
人の温もりに飢えているって、どういうことだ。好色ってことなのか。
「親からの愛情不足で育った子供は、いつもその心が満たされずにいて、女の子は成長すると人の温もりを求めて男に走る人が多いそうです」
「翔子さんがそれってことですか」
「はい。男女の心理学を勉強している男の子に聞いたんです。だから、お前はすぐに男と寝たがるってクドクドと説教されました。でも、それもベッドの中だったから、何言ってんのって思ってました。全然、説得力なし。その時はふんって感じで気にも留めていなかったんです。でも、その人と別れてから、もう寂しくていられなくて、ああ、私って本当にそうかもって思えたんです」
親からの愛情不足、翔子ちゃんはそういう家庭環境に育ったってことなのか。
「涼子さんだから言うんですけど・・・・・・。私、子供の頃、親から虐待されて育ったんです」
「えっ」
「母が学生の時に生まれて、父はいません、っていうか、わからないみたいで。それから母は恋人を作って、いつも私、邪魔者にされていました。その彼と何かがあれば、必ず私のせい。喧嘩したのも私がいるから、そしてバイトを首になったのも私のせいでした。それでも母は絶対に手はあげませんでした。けど、口でグチグチと言われたんです。それも痛かった。何日も放っておかれたこともあります。あんなにひどい母親なのに、帰ってこないと不安になるんです。とうとう捨てられたのかなって。誰にも相手にされず、必要とされないことってものすごく悲しくて、空しいんです。罵倒されてもいいから、母にいてもらいたいって思うんですよ。それから叔母がそのことに気づいて私を引き取ってくれました」
結構悲惨な話だった。そうだ、女ならこういう時、共感する。
「つらかった・・・・・のね」
翔子ちゃんは諦めた笑顔を向ける。
「はい。つらくなかったって言ったらうそになります」
翔子ちゃんは、小学校の時にやっと近所の人に虐待されているということを通報されて、叔母に引き取られたそうだ。そのおかげでぐれなかったと笑みを見せる。けど、落ち着いた生活に慣れると本当の親じゃないっていう気持ちがあって、いつもどこかで遠慮していた。その遠慮を叔母達も気づいて、高校になるとギクシャクしたという。なんか、そんなことが目の前の翔子ちゃんに起こったこととは思えない。信じられなかった。
「それでも短大まで行かせてもらいました。感謝しています。でも私、満たされなかったんでしょうね。いつもどこかに穴がぽっかり空いていてそこに隙間風が吹いているような感じで。本気で誰かに甘え方を知らなかったんです」
翔子ちゃんは続ける。
「そんな私が男の子とつきあい始めて、初めてベッドインしたとき、すごくうれしかった」
オレが目を見開いたから、翔子ちゃんは慌てて付け加えた。
「あ、あっちのことも好きですけど、もっと別のことがうれしかったんです。私、誰かと一緒に密着して寝ることってなかったから。心が満たされたって感じました」
まあ、その気持ちもわからなくはないが、・・・・。
「男の子が体を求めてくることも、私はこの人に必要とされているって思って、嬉しかった。体を密着させることにも安心感を覚える。だからそれから大勢の男の子とつきあいました。誰かと一緒にいないと寂しくて仕方がないんです。いつでも抱ける、都合のいい女だって言われたこともあります」
いいのか、こんな話をオレが聞いても。話の悲惨さに体に力が入っている。
「小さい頃、抱っこしてもらえないとか、かわいがられていない子は、情緒不安定になったりしやすいんですって。女は触れられて安心する生き物らしいんです。そういう安心感が必要なんですって。私、母に抱きしめてもらった記憶なんて全然なかったから当然ですよね。それどころか、母が近づいてくるときはまた怒鳴られるっていう恐怖を感じていました。叔母もいい人でしたけど、小学校に上がっていましたし、抱っこをしてもらえる年じゃなかった。誰にも抱きしめてもらったこと、なかったなって思いだしたんです」
「そレを教えてくれた彼だって、私の体目当てだったんですよ。そんなことがわかっても一人になると寂しい。満たされない感が強くて、別に体だけの関係でもいいかって思ってました。そんな時、智くんに出会ったんです」
「今までの男の人って二、三回デートをすると体を求められました。智くんってそういうことなかったから、私のこと、大事に思ってくれると気づいたんです。この人と一緒になれたら幸せになれるかもって」
なるほど、中野は女心がわかっているようで割と疎い。というか、異性とつきあっていることを自覚していなかったのかもしれない。翔子ちゃんはそんな中野の素朴さに惹かれたってことだ。
「そうだったんですね。そういうことなら、ご主人に避けられているってこと、寂しいわね」
翔子ちゃんにはそんな事情があった。
「ご主人は、このこと知ってるの?」
「あ、私が愛情不足だってこと? いいえ、知りません。話したことないし、別に隠しているわけじゃないけど、寂しいから他の男と寝てたなんて、あまり言えないし」
そりゃそうだ。まったく男関係がないとは考えていないだろうが、寂しいからそのたびに体を許していたなんて聞きたくないかもしれない。けど、翔子ちゃんの事情にちゃんと耳を傾ければ、受け入れられると思う。
「ねえ、もし私がうちの人にこのことを言って、旦那さんに伝えてもらったら、少しは翔子さんの心なんかわかってもらえると思うけど、それって嫌?」
それは翔子に、過去のことをぶちまけると言う意味でもある。勝手に中野に話せることではない。
「井上さんが、このことを打ち明けてくれるってことですか」
意外そうだった。
「すべてを打ち明けることで、翔子さんのことがもっとわかってもらえると思うの。翔子さんが何を考えているのか、どうして欲しいのか」
「それってつまり、今のままで家庭内離婚をしているより、イチかバチか過去のすべてを打ち明けて、あの人の判断に任せるってことですね」
翔子ちゃんがすんなりとそう言った。
そのまま家庭内離婚が続くより、すべてを告白して、中野に翔子ちゃんのこと、すべてわかってもらう方がいいと思った。そのうえで、二人がこれからどうすればいいか考えればいい。中野はたぶん別れるとは言わない。琴音ちゃんがいるからだ。けど、夫婦関係は破たんしている。しかし、中野は翔子ちゃんのことを恐れているが、嫌いなわけではなかった。なぜ、翔子ちゃんが中野を襲うのかがわかれば、避ける必要がないと思う。それにもう入れ替わりはできない。みがわり地蔵たちが拒否をしていた。それだけでも中野にとっては朗報なはず。
「わかりました。私達、それしかもう道は残っていないのかもしれません。智くんに言っちゃってください」
「えっ、いいの?」
自分から言っていいかと言ったくせに、そうあっけなく承諾されると驚いていた。
「はい。もうこれ以上、私達の仲が壊れることはないと思います。そうなったらそうなったで、琴音を挟んで生きていきます。私、このままの状況で我慢します」
驚きの選択をしていた。女ってどうしてこう大胆に物を決められるんだろう。覚悟を決めるとものすごい。男にはとても真似できない。
「じゃあ、翔子さんの家庭環境から人の温もり欲求までを話します。いいですか」
「はい。もし、そのことで智くんと話し合うことになったら、私、全部打ち明けるつもりです」
翔子ちゃんはそんな大胆な発言を、食べ放題に行って皿に盛ってあった肉全部食べちゃいましたと語るように淡々と言った。恐れ入りました。




