身代わり最終日 4
「あ、きっとあなたのお母さんよ。ちょっと待って」
「え? おふくろが、なぜ今頃」
まだ、痛みは完全に消えていなかった。一人ソファに残されて、不安な気持ちになっていた。
おふくろが入ってきた。
一昨日とはまるで別人のように、心配そうな顔をしていた。しかし、騙されないぞ、と思う。オレはおふくろの裏の顔を知っている。《オレの体》の前だから、にこにこしているんだと思った。
「まあ、涼子さん。いよいよなのね」
少し、おろおろしているような口調だった。《オレの体》が小さなカバンを持っていた。それをおふくろに渡す。
「母さん、この中に正人の着替えとおもちゃ、絵本とかが入っている。これからしばらく正人をよろしくお願いします」
そうか、出産が近いから、正人を実家に預けるのか。たぶん、今夜のうちに生まれるだろうし、涼子が入院している間、オレも仕事がある。
「あら、いいのよ。私達も正人が来てくれるからうれしいの。あの、お父さんまでが、心待ちにしているのよ。もう正人の好きなテレビ番組も把握しているし、近くの公園へ行って三輪車で遊ぶんだって。どっちが子供なんだかわからないくらいはしゃいでる」
へえ、あの父さんが、と信じられない気持ちでいた。自分の子供には全く関心がなかったのに、孫はかわいいんだ。
小さい頃、オレを遊園地へ連れて行ってくれた時は、自分は関係ない顔でベンチに座り、煙草ばかり吸っていたくせに。オレには一緒に遊んでもらった記憶なんかない。いつでも不機嫌そうな顔をしていた。
関係ない所で少し嫉妬心。そして、今までのオレは、その父さんと同じ行動をしていたと気づいた。
「正人は今、お隣さんにあずかってもらっているから。一緒に行こう。やっぱり、こういう時に頼れるのは母さんしかいない」
《オレの体》は、本来のオレなら絶対に言わない台詞をはいた。おふくろも驚いていた。しかし、すぐに優しい笑みを浮かべていた。
「こっちこそ、頼ってくれてうれしいの。本当よ。涼子さん、正人のことは心配しないで、元気な赤ちゃんを産んでね」
おふくろは涙ぐんでいた。心底うれしかったみたいだ。
オレもジンとしていた。目頭が熱くなる。やばい、また《涼子》が涙ぐむ。女って奴はなんて面倒くさいんだ。
「生まれたら電話する」
「夜中でも起きるから、構わず電話して」
「わかった」
おふくろと《オレの体》は隣へ行った。
あんなに嬉しそうなおふくろは見たことがなかった。というか、まともにおふくろの表情なんて見たことも、気にしたこともなかった気がする。
いじめられていたと思われる涼子は、なんで嫌味の一つも言わないんだろう。今は《オレの体》に入っている。少しくらいなんか言ってもおふくろは何も言えない。
《オレの体》が戻ってきた。
「正人、大丈夫。バアバと遊ぶって喜んでいた。心配ない」
「そうか」
「どうしたの?」
オレのわずかな疑問の表情を読み取っていた。
「うん、・・・・母さん、うれしそうだったから」
「そう?」
「あんな顔、初めて見たかもしれない。なあ・・・・。今まで涼子、いろいろ言われていたんだろう」
なんでそんなこと、知っているのかという表情で見ていた。
「一昨日、すんごく散らかっていた家の中見られて・・・・・・」
「叱られたのね」
「ああ、ずっと長々と説教された」
《オレの体》がげらげらと笑った。
チェッ、なんだよ。しかし、オレもつられて笑っていた。今までならむっとして怒っていたはずのオレが、少しづつ変化していた。
「お義母さん、潔癖症だから、散らかっていると不機嫌になるの。私が帰ってきた時もこの家の中は相当だったから、あれじゃ、かなり叱られたわね」
まだくすくす笑ってる。
「なあ、なんでおふくろにいじめられてるって言わなかった?」
「ん、いじめられてなんかいないわよ。いつも叱られるわけじゃないし、言ったとしてもあの時のあなた、聞いてくれた? 自分の母親のことを、とやかく言われたら、それが本当のことでも気を悪くするでしょ。それはますます私たちの溝を深めるだけだったんじゃないかな。それにお義母さん、寂しいんだって気づいたの」
「えっ寂しい?」
「正人を見ているとね、少しだけお義母さんの気持ち、わかる気がする。こんなに可愛がって育てても大きくなったら、自分で大きくなったような顔をして、外へ出ていってしまうんだろうって。たまには帰ってきてくれればいいけど、あなたってまったく帰らないでしょ。だから、お義母さん、ここへ来るの。でもあなたに気兼ねして、あなたのいない時間に来る」
そういうもんなのか。実家へ帰ること自体が面倒だった。おふくろはオレの顔色ばかりうかがっていたから、それも鬱陶しかった。
「あなたのお父さんも仕事人間だったし、ずっと孤独だったと思う。そう思うとお義母さんがかわいそうになって。優しさを持って近づいていけば、いつかはわかってくれる、そう思ってた。それにしても、あなたの体で優しい事言ったら、お義母さん、すぐにわかってくれたわね。私も驚いた。これからはもっと実家へ帰ったり、うちにも呼びましょうね」
「う・・・・ん」
オレにそんなことができるのか。まだ躊躇していた。そうすることがいいとわかっていても、実際に優しくすることが恥ずかしい気がする。
そう思っていると再び陣痛が始まっていた。《オレの体》は時計を見て、立ち上がり、台所へ行く。
何かを作っていた。さっき食べたばかりなのに、今度は野菜スープを手にしていた。
「もうそろそろ十分間隔になる。病院へ行くわよ。その前にもう少し何かを口にして」
「野菜スープなんて、いつの間に、こんなもの・・・・」
冷蔵庫にはなかったはずだ。また涼子のマジックか。
「冷凍庫、見てなかったんでしょ。時間のある時にスープ、カレー、お肉もいろいろ一回の食事分に分けて冷凍してあるの。そうすれば毎日買い物しなくて済むし、時間がかからないから便利でしょ」
うん、確かにそうだ。主婦の知恵だ。
「冷凍庫なんて、氷かアイスクリームだけのものだと思ってた」
スープを口にしていた。うまいし、早い。やっぱり家にいてもあの、憧れていたシャープな涼子だった。
人っていうのは、怒りをぶつければ即、その怒りが返ってくる。そういうもんだ。それに対して優しさはわかりにくい。でもそういう気持ちで近づいていくといつかはわかってくれる、と涼子は言った。それは口で言うほど簡単ではない。
怒りの光はすぐに反射するように鋭いものだ。優しさの光は穏やかでほんのり淡く、その温かさに気づきにくい。でも、その優しさを向けようとする心、それが大事なんだ。
オレがこんな事を思うなんて、信じられなかった。これも涼子の頭がそうさせているんだろう。
スープを飲みながら、そういう事に気づくことができてうれしいと思った。
「さあ、タクシーを呼んだ。病院へ行こう。私、経産婦だからたぶん早い」
「そうか、いよいよか」
《オレの体》がじっと見つめてきた。
「ごめんね、こんなことになるなんて考えてもみなかった。本当にごめん。男のあなたに出産を経験させるなんてこと、ひどいよね。私」
ううっ、よせ。そんな感じで話をするな。また、視界が潤んできている。いくら涼子の体でも、オレが泣くってことになるのは許せない。冗談じゃない。妻の目の前で泣けるか。
しかし、涙はあふれ、こぼれていた。
ギョッとした。《オレの体》も涙ぐんでいたからだ。ったく、オレの体を泣かせるなよ、涼子。もうどうでもよくなった。
男が泣くときは、おぎゃあと生まれてくるときと母親が死ぬ時だって聞いたことがある。オレは今から一人の人間をこの世に送り込もうとしているんだし、感動したんだから泣いてもいいだろう。
「いいんだ。オレが先に身代わりを使ったんだし、もう産む覚悟してる」
マンションの前でタクシーを待つ。
その間に、一言、聞きたかったことがあった。
「なあ、涼子はまだオレのこと、好きだって言ってくれただろう。オレのどこが好きなんだ? こんなに自分勝手で、周りのことを全然気にしないような奴のどこがいいんだ」
《オレの体の涼子》は、きょとんとした顔をしていたが、すぐに破顔した。
「ね、怒らないで聞いてね」
「え、うん」
ぐっと構えていた。また、涼子の毒舌がさく裂する気配だった。
「あなたのいいところって、そんなにないの。でも、その頼りないところとか、ストーカーにも呆れられそうなくらい周りを見ていないあなた、私が守ってあげたいって思う。この人は私がいなきゃダメなんだって思わせてくれるから」
「・・・・・・」
怒るなって言われていたけど、ひどいだろう、今のコメントは。しかし、確かに顔を見ながら聞いていると、それが本当に愛おしいと思っていることが伝わってきていた。
「あなたの短所を愛してるのよ。私って変わり者よね」
と、アハハと笑う。
「涼子っ」
「あ、ごめん。でも本当に好きなのは、あなたの笑顔。子供のような無邪気な笑顔が好き」
そこへタクシーが滑り込んできた。オレ達の目の前に止まる。
いざ、出陣ってとこだな。
オレも涼子の笑顔が好きだった。この毒舌さえ、緩和してくれれば、オレももうちょっと笑顔が作れる、そう思った。
涼子の体はお産、二度目だったから、順調に進行して、病院へ着いて二時間で女の子を生んだ。
病院へ着いた時間が、ちょうど日勤と準夜勤の申し送りの時間帯で、看護師もそうだが、医者もダブルでそのままオレの出産に立ち会っていた。
そして極めつけは、大学病院の医学生たちだ。一日の研修を終えて帰宅するときだった。そこへすぐに産まれそうなオレが飛び込んできたから、勉強熱心な奴らは再び白衣を着用し、お産の見学をすることになった。
またまた涼子の神聖なる場所を大っぴらにさらけ出すことになった。それはごく、自然なことで、あたりまえのことなんだけど、夫の立場としたらちょっと複雑だ。
人手が足りずに不安な出産を迎えるよりはいいが、人が多すぎだろう、と苦笑をせざるを得なかった。
おまけに、そのギャラリーを前にして、オレ達は素のまま、言い合った。
あまりの痛さにオレが呼吸法を忘れると、涼子の叱責が飛んだ。もちろん、涼子はオレの体に入っている。オレの体が女言葉を使うのだ。
「なにやってんのっ。ちゃんと呼吸しなきゃだめじゃない」
「わかってる。いてぇんだからしかたねぇだろう」
「痛いのは当たり前でしょ。あなたは赤ちゃんを産んでるんだから」
「うるせえな。痛いもんは痛いんだ。そう言ってなにが悪いっ」
「ガラの悪い言葉、使わないでよっ」
「お前こそ、女言葉使うなっ。気色わりイ」
と、陣痛の合間にかわしていた。
もちろん、医者も看護師、医学生たちはオレ達の会話に面食らっていた。
ひそひそと、お姉系と男言葉を使う妙な夫婦と噂されていた。
オレ達は怒鳴り合いながらもお互いの手を繋ぎ、励まし合っていた。
その夜。
病室に移され、オレは涼子の体の中で眠っていた。オレの体の涼子は、看護師に消灯だからと病院を追い出され、しぶしぶマンションへ戻っていった。
朝、目覚めるとオレはいつものベッドで眠っていた。何度も腹を探ったのは言うまでもない。元の体に戻っていた。安堵した。
この三日間、涼子の体でいろんなことを学んだ。母親としてのこと、家事も奥が深いことがわかった。何しろ、ここまででいいという境界線がない。掃除も片付けも、終わりがないのだ。
オレが興味を持ったのは洗濯干しだ。これはいつか、乾燥機に頼らず、すべてをきちんと干せるようになりたいと思った。ゲームのようで面白いからだ。
そして、オレの営業成績も上がった。もちろん、涼子のおかげだ。「クマの手」クリニックとの契約がうまくいった。オレの会社から、メインとなる検査用医療機器を買ってくれることになり、ライバル社からは細々とした医療器具を買うことになったと聞く。
オレも社長に褒められた。こんなことは初めてだった。うれしいもんだな。
オレは少しづつ、人の顔を意識して見るようになった。なるほど、と思った。人っていうものは会話をする間でもその表情を変えると気づいた。
オレ達は、これからも時々お互いの体で、入れ替わろうと話していた。夫婦としてのマンネリ化を防ぐため、そしてお互いの立場と状況を分かり合うために。
「オレもまた、あの婆さんのとこ、行って回数券を買おうかな」
「え? 婆さんって誰?」
涼子はあそこの常連だって言ってたから、あの婆さんで話が通じると思っていた。
「ほら、水晶地蔵の、レンタルしてくれる婆さん」
まだ、涼子が思案していた。婆さんじゃなくて、女神だったかなとも思う。
「あの【観の手】駅のガード下よね。私が行くといつもロマンスグレーの素敵な男性が座っているわよ。だから、信用する気になったんだもん。ちょっと好みのタイプだったし」
ロマンスグレー? なんだそりゃ。しかし、確かに同じ場所だ。
「そう、同じとこ。でもおばさんだったぞ・・・・・・。夫婦でやってんのかな」
オレ達はその不思議にお互い、顔を見合わせていた。




