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身代わり地蔵  作者: 五十嵐。
第二章
14/45

あれから

 オレは、寝室をそっと開けた。

 薄暗い部屋のダブルベッドの中で、背を向けて横たわる涼子。よく寝ているようだ。夕べも何回か授乳で起きたらしい。


 出産から早くも二週間がたっていた。娘の清乃きよのは二、三時間おきにおっぱいを欲しがる。仕事へ行くオレは、そのたびに起こされてはたまらないから、別々に寝ていた。和室で正人と一緒だった。

 ベビーベッドの中をそっと覗くと、清乃もスースーと寝息をたてていた。

 あどけない顔に顔がゆるむ。オレが腹を痛めて産んだ娘は、とりわけかわいい。皆、口々にオレに似ていると言う。こんなに小さくて、毎日顔も変わるのに、どうしてそんなことが言えるのか。どうせなら、涼子に似て欲しい。もうすでに娘の可愛い姿を願う親バカでもあった。

 

「じゃ、行ってくる」

 起こさないようにそっと言う。

 じゃあ、言わなきゃいいと思うが、こういう挨拶には意味があるおふくろがいつも言っていた。だから、言わないと落ち着かない。

 「行ってきます」という言葉には、その人が必ずここへ無事に戻ってくるという意味がこめられるらしい。「行ってらっしゃい」と返せば、もっといい。

 ふと思う。独り身だったら誰に言うんだろう。きっと家自体に言うのかもしれない。


 さあ、急がなければならなかった。のんびりしている時間はなかった。

「おい、正人」

 そう声をかける。


 オレは既にシリアルという簡単な朝食を済ませていた。正人にも小さな箱のシリアルと、ミルクを注いだボウルを用意しておいたから、もう食べ終わった頃だろう。

 そう思って台所へ入る。

「おい、行くぞ。早くしろよ」

「うんっ」

 張り切った返事が返ってくる。

 しかし、その返事に反して正人は動かない。それもそのはず、まだ食べていた。よく見るとまだ箱の中には中身がたくさん入っている。ぎょっとした。

 まさか、こいつ、食べ終わっていないなんて。

 

 正人の様子を見ると、ミルクの入ったボウルにシリアルの一粒を投げ込み、スプーンでぐるぐるとかき回している。

 正人は「ああ~」とか「ギャ~」とか言いながら、ミルクの渦に巻き込まれたシリアルをさっとすくい、やっとそれを口に運んでいた。それを満足そうに咀嚼している。


 オレは息を飲んだ。

 こいつは三十分も前から、ずっとこんな調子でシリアルを食べていたんじゃ、と気づいた。焦る。

「正人、早くしろっ。あと五分で出るぞ」

 しかし、正人は返事なしで、相変わらず一粒づつ、エイッとシリアルをボウルに投げ込み、それをすくって食べていた。


「あっ、また落ちました。うわあ、ぎゃあああっ、助けて~」

と叫びながら、荒々しくスプーンでかき回す。中のミルクがテーブルの上に、派手に飛び散った。

「助けて、助けて~、あああ」

 どうやら、シリアルを人に例えて、渦巻くミルクの海へ投げ込み、食べているらしい。これがもっと時間のある休日の朝食なら、オレでも温かい目で見てやれるだろうと予測できた。

 が、今は普通に仕事へ行く忙しい修羅場の朝なのだ。そんなどうでもいい遊びにつきあってはいられない。オレはそこまで人間ができてはいなかった。


 もう待てない。食べていなくてもしかたがない。

「行くぞ」

 正人はギョッとした顔を見せる。

「えっ、パパ、ボク、まだ食べてない」

「もういい。時間がないんだ。行くぞ」

と正人の腕を取った時だった。

 正人も咄嗟に抵抗したから、オレの手を振り払った勢いでボウルにあたり、カランという派手な音を立てて床に転がった。ミルクが床ばかりか、正人のズボンにもかかった。


「あっ」

 オレは凍りつく。

 正人は、その出来事にショックを受け、見るからに泣き出しそうになっていた。

 サイアクだ。もう家を出なけりゃ、正人を実家へおいてから出勤なんかできない時間に迫っていたのだ。


 涼子が入院していた時は、正人は実家にあずかってもらっていた。涼子が帰ってからは、オレが毎朝、正人を連れて一駅先の実家へ送り届けていた。涼子は授乳のため睡眠不足だし、外で遊びたい盛りの正人の相手までするのは大変だった。正人も思い切り遊べないから欲求不満になるだろう。

 そういう判断で、実家とオレ達が決めたことだった。


 オレは構わず、正人の腕をとる。

「いい、そのままで行くぞ」

「えっ」

 たちまち顔を歪め、半泣きになる正人。

「すぐに乾く。行くぞ、今、家を出ないと間に合わんっ」


「いやだ。冷たい。着替える、もっと食べる」

 ぐずぐず言い始めた。

 そのぐずりの声もオレの勘に触った。うまく立ち回れなかった、オレへの文句のように聞こえたからだ。かっとしていた。

「食べろって言われた時にちゃんと食べないからだろっ。お前が悪いんだ。行くぞ」

 こみ上げる怒りのまま、怒鳴っていた。

 「原因あれば結果に出る」というように、「ぐずりだせば、怒りも増発」と、うまくマッチする。正人が本格的に泣き出した。ここでのシナリオとしては完璧な行動。

「やだ、行かない。食べる。冷たい」


 万事休すだった。オレは髪をかきむしる。

 泣きたいのはこっちの方だ。なんだってこうなるんだ。なんでこいつは普通に朝ごはんが食えんのだ。犬の方がずっと利口で言うことをきく。

 それでもオレは、大きく息を吸い込み、自分の気を落ち着かせた。

「正人」

 少し優しい声を出した。オレにしては百歩譲るくらいにかなりの努力をしている。優しい父親の仮面がピキピキといっていた。しかし、正人(敵)は無情にもそこに付け込む。

「やだ。お祖母ちゃんとこ、行かない。うちにいる」


「正人、ダメだ。ママは疲れている。お祖母ちゃん、正人と遊ぶのを楽しみにしているんだ。昨日もそう言ってただろう。今日は何して遊ぶんだろうな。楽しそうだな。パパも行きたい」

「じゃ、パパが行けばっ」

 そう突っ込まれて、再びオレは怒鳴りたくなるのをかろうじてこらえた。

 深呼吸をしろ、やさしい父親の仮面、仮面をかぶれ。ガラスの割れやすい仮面であってはならない。

 しかし、正人は次々と攻撃をしてくる。こっちが下手したてに出れば、子供とはこんなふうにつけあがってくるのだ。

「やだ、お祖母ちゃんと遊ぶの、つまんない」

「ダメだ。ママは清乃のことで精いっぱいなんだ。もう少し休ませてやろう」


 後から考えると、これは絶対に言ってはいけない禁句だったとわかった。この言い方なら、ママは新しい妹の清乃のことに夢中だ、正人のことは二の次だというニュアンスにもとれるのだ。

 ただでさえ、突然現れた自分以外の子供に、母親がかかりきりになっているのだ。今まで両親の関心を百パーセント自分に向けられていたものが、新参者にとられているのだ。その存在に嫉妬をするのは当たり前だった。

 たちまち、正人の顔が歪んだ。

 オレはそれを深く考えず、椅子の上の正人を抱き上げようとした。だが、正人は身をよじってオレの手をクニャリとかわし、ミルクの海の床の上に落ちるようにして、座り込んだ。ピシャリと派手な音を立てた。ミルクが飛び散る。


 それがオレの完全なる怒りを誘った。もろいガラスの仮面は粉々になっていた。

「まさとっ」

 大声を出した。

 その声にびくっと体を震わせ、正人は、二、三秒の間のあと、大音響で泣き出した。

「やだぁ、ママがいいっ。パパもやだっ。お祖母ちゃんとこ、いかない。きよの、病院に返してきてっ」

 グア~と頭に血が上っていた。サイアクだ。再び髪をかきむしる。


 オレが何をしたっていうんだ。

 毎朝早く起きて、まず洗濯機をまわす。あとで涼子が起きてそれを干すことになっている。

 そして、正人を起こして着替えさせ、飯を食わせて一緒に出掛ける。実家に送り届けて、そのまま出勤。帰りも実家により、正人を連れて帰る。その際、夕食に必要な食料品も買う。

 今までのオレとは違う健気な夫になっているんだ。もう少し恩恵を受けてもいいだろう。

 

 最初はその計画通り、事がスムーズに運んでいた。正人もお祖母ちゃんちで遊ぶことを楽しみにしていたからだ。しかし、毎日なら疲れてもくるだろうし、飽きるのだろう。オレでさえ、こんな忙しい生活がいつまで続くんだろうとため息をつくこともあった。


 もうオレはミルクだらけで泣き叫ぼうが構わず、正人を無理にでも連れて家を出るつもりだった。床の上で泣きじゃくる正人を抱き上げようとしたとき、寝室のドアが開いて涼子が出てきた。


子供が抱きかかえられることを拒む時、実に見事に体をくねらせて、親の手からするりと逃げます。

その動作、「合気道」にも似た技があります。後ろから抱きすくめられた場合、どうやって逃げるかというテクニックで、子供がすり抜けるように体をくねらせ、逃げると教えられました。


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