#13 再生
それでも、命と生活を保障されたところで名前と生きがいを奪われた空虚感は埋められない。
新聞が書けない。記事が世に出ない。読者はいない。名前を呼ばれることもない。俺はただ生きているだけだった。食って寝て起きてまた食う。それだけの日々。
孤児院を出てから必死で築き上げてきたものが音もなく崩れていく。いや、崩れたのはとっくに前だ。俺はただその残骸の上に立っていただけだった。
次第に生活が荒れていった。
酒を飲むようになった。最初は一杯だけだった。それが二杯になり三杯になり、やがて毎晩になる。朝から飲むこともあった。酔えば余計なことを考えずに済む。
孤児だったこと。名前を失ったこと。書けなくなったこと。全部どうでもよくなる。酒は俺にとって初めての麻薬だった。ゆっくりと、しかし確実に俺を蝕んでいった。
そんなある日、ドレンツが店に来た。
「お前さん、最近どうだ」
「見ての通りだ」
「見ての通り、か」
ドレンツは俺の手元の瓶を見て静かに言った。
「酒はいい。だが、それで何かが変わったか?」
「変わらん」
「だろうな」
ドレンツは椅子に腰を下ろし、しばらく黙って俺を見ていた。それから唐突に言った。
「お前さん、うちに来ないか」
「うち?」
「後見人の仕事だ。準構成員としてな」
俺は笑った。乾いた笑いだった。
「俺が? しがない新聞屋だぞ?」
「新聞はもうできんだろう。だがお前さんには別の使い道がある」
「使い道ね」
「体を動かすのは性に合ってるはずだ。今まで鍛えてきたんだろう。それが無駄になることはない」
俺はしばらく黙った。床に転がっていた酒の瓶を見つめていた。それから、深く息を吐いた。
「わかった。やるよ」
正直に言えばほとんど投げやりだった。このまま朽ち果てるよりはいくらかマシだろう、という程度の。
「決まりだな」
ドレンツはそう言って立ち上がった。それから店を出る前に、振り返って言った。
「明日から来い。遅刻は許さんぞ」
最初は嫌々だった。
何しろ裏社会の仕事だ。後見人は義賊気質だが、所詮はアウトロー。盗賊の仲間入りをするようなものだ。
俺は新聞記者だった。市民の目であり、正義の味方気取りだった。そんな俺が裏の仕事を手伝う? 笑止千万だ。
だが、体を動かしていると余計なことを考えずに済んだ。孤児院で覚えたことだ。体を動かせば、心の空洞が少しだけ埋まる。
ドレンツは徹底的に叩き込んだ。尾行の仕方。身を隠す方法。護衛の技術。護身術。情報の集め方。人脈の築き方。金の流れの読み方。
裏社会の掟。誰が何を仕切っているか。どこで何を買い何を売るか。どこに足を踏み入れてはいけないか。
「お前さんは頭がいい。だが頭だけじゃ裏社会は渡れん。体で覚えろ」
ドレンツはそう言って、何度も何度も俺を叩き直した。時には厳しく時には笑いながら。俺は必死についていった。
いや、ついていくのが楽しかった。久しぶりに何かを覚える喜びがあった。記事を書くのとは違う。だが、体で覚えることは書くことと同じくらい俺に向いていた。
ある時から、ドレンツも驚くほどの速度で俺は成長していった。
「お前さん、才能があるな」
彼は珍しく感心したように言った。
「新聞屋のくせに」
「元新聞屋だ」
「そうだったな」
ドレンツは笑った。それから真顔で言った。
「だが調子に乗るなよ。裏社会は広い。お前さんが知っているのはまだ入り口だ」
「わかってる」
「わかってないから言ってるんだ」
ドレンツはそう言って、俺の肩を叩いた。
俺はその言葉を胸に刻んだ。そして再び歩き始めた。今度は新聞記者としてではなく、裏社会の住人として。
それが、俺の新しい生き方だった。




