#1 王都の鷹
雨の匂いがした。
窓の外では、夕暮れの光が鈍く翳り石畳の街並みが少しずつ濡れ始めていた。王都の空は低く垂れ込め、今にも泣き出しそうな気配を漂わせている。
俺は編集室の机の上を片付けながら今日の新聞の売れ行きを頭の中で計算していた。三面記事の連続強盗事件が思ったより読まれたらしい。リネットが置いていった集計表によれば、今週は先週より四十部ほど多く捌けている。大した数字じゃないが、悪くない。
「王都の鷹」――それがこの新聞の名前だ。週に一度、ろくに売れもしない記事を並べてそれでも律儀に活字を組んで刷っている。零細タブロイド紙。それが俺の商売だ。
「ボス、そろそろ上がりますか?」
受付からひょっこりと顔を出したのはリネットだった。赤茶の髪を結って胸元に垂らし、丸いメガネの奥でクリクリとしたアイスブルーの目を瞬かせている。二十過ぎ。この新聞店唯一の従業員であり、受付嬢であり事務員であり、経理であり時には給仕でもある。
「そうだな。雨も降りそうだし――」
言いかけて、俺は言葉を切った。リネットの表情が少し変わったからだ。彼女はこういう顔をするとき、決まって厄介事を持ってくる。
「どうした?」
「……特集第二部の注文が入りました」
俺は手を止めた。
特集第二部。この零細新聞が特集を組むこと自体が稀だ。ましてや第二部など、創刊以来一度も出したことがない。
これは符牒だ。
「...知ってる奴か?」
無駄だと思いながらも念のため確認するが、案の定リネットは黙って頭を振った。
「わかった。応接室に通せ。それとボスはやめろ。ただの雇用主だ」
「はいはい、ボス」
リネットは軽く流して、受付へと戻っていく。彼女は俺がただの新聞屋でないことを薄々勘付いているが、生来の気質なのだろう。あまり気にしていない。その鈍感さだか気遣いだかに何度助けられたかわからない。
俺は椅子から立ち上がり、廊下を奥へと進んだ。
応接室は二階の一番奥にある。ドアを開けると、薄暗い室内が広がっていた。燭台の灯りが一つ、テーブルの上で揺れている。革張りの椅子が四つ。壁際には古びた本棚。一見すると、ただの応接室だ。
ただし窓は一つもない。壁には至るところに武器が隠され、床にはトラップが仕掛けられている。天井裏には火薬と毒物。もしもの時は、この部屋そのものが武器になり、迷惑な来訪者に相応の「応接」をすることになる。
俺はテーブルを挟んだ側の椅子に座り、待った。
数分ほど経っただろうか。ノックが鳴った。
「どうぞ」
ドアが静かに開き、一人の女が入ってきた。
腰まで届くダークヘアをアップにまとめ、黒いゴシック調の貴婦人ドレスを纏っている。帽子を被り、胸元は大きく開きロングスカートの片側には深いスリットが入っていた。歩くたびに、白い脚が覗く。
...美人だろう。間違いなく。
「夕暮れに美女か。まるで舞台劇のワンシーンだな」
俺が軽口を叩いても、黒衣の女は表情一つ変えなかった。どこか近寄りがたい雰囲気がある。冷たいというより、感情を削ぎ落としたような――そんな印象だ。
俺は着席を促すと、女は帽子を取って黙って従った。軽くアップにまとめた髪が、燭台の灯りを柔らかく反射する。
「用件を聞こう」
女は俺を真っ直ぐに見た。ルビーレッドの瞳。深い色だ。
「忠告よ。明日のパーティーは辞退した方が良いわね」
俺の眉が、ほんの少しだけ動いた。
明日のパーティー。武装盗賊団「山猫」との会合。奴らは都市近郊を縄張りにする盗賊団だが、ただの盗賊ではない。武力、統率力に優れ、武器の質も騎士団に引けを取らないほど洗練されている。
希少な魔術や呪法を使うという噂もあり、騎士団や治安部隊の出身者がいるのではないかと言われている。猫などと可愛らしいものではなく、獰猛な肉食獣みたいな連中だ。
俺の後ろ盾である「後見人たち」も、奴らを厄介な隣人と位置付けていた。会合とは言っても、明日の催しが度を越さないよう監視するだけだ。
山猫が主催する不愉快な催し――見せかけの違法取引を行い、王都の治安部隊を罠に嵌めて一網打尽にすること。俺は死者を可能な限り抑えることと、民間人に手を出さないよう監視する役目を担っている。
それが後見人が山猫の行動を黙認する条件だった。
街道や山林ならともかく、街中でことを起こすなら街のルールには従ってもらう。それがアンダーグラウンドであっても、越えてはならない一線がある。
当然、何もかもが極秘事項だ。後見人の中でも一部の者しか知らない。何故この女が知っている?
「誰の差し金だ?」
女はいたずらっぽく笑った。だが、目は笑っていない。
「秘密よ」
「忠告はしたわ。それじゃね」
女は立ち上がり帽子を被り直した。名前も告げず、あっさりと扉へ向かう。
「待て」
俺が声をかけると、女は足を止めた。振り返らない。
「名前くらい名乗ったらどうだ」
女は少しだけ横顔を見せた。スリットから覗く脚が、わずかに動く。
「シディア。そう呼ばれているわ」
「偽名だな」
「あら。人聞きが悪い」
女――シディアは小さく笑うと、そのまま部屋を出て行った。静かな足音が廊下に消えていく。
俺は一人、応接室に残された。燭台の炎がわずかに揺れている。
壁の外では、雨が本格的に降り始めていた。石畳を打つ音が、二階の奥まで届く。俺は椅子の背にもたれ天井を見上げた。
シディア。聞いたことのない名前だ。だが、あの女は符牒を使った。特集第二部。アンダーグラウンドでもごく一部の者しか知らない情報だ。
後見人絡みか、それとも、別の組織か。山猫の関係者か。あるいは――王国の諜報員か。
わからないことだらけだ。
だが、一つだけ確かなことがある。明日は予想外の何かが起こる。
俺は立ち上がり、机の引き出しから短剣を取り出した。掌で重みを確かめ、腰の後ろに差す。それから部屋の隅に隠した火薬の袋を確認する。
「ボス、お客さん帰りました?」
廊下からリネットの声がした。
「ああ。帰った」
「変わった人でしたね。こんな時間に、一人で」
「そうだな」
俺は編集室に戻りながら明日の準備を頭の中で組み立てていた。雨は、まだ降り続いている。
夜が更ける。王都の鷹は、明日も飛ぶのだろうか。
少なくとも、俺は飛ぶつもりだ。
誰が相手であろうと。




