第79話「ごめんなさい」
手のひらで転がる綺麗な飴を一口。
蜜を固めたお菓子。聖女も喜んで食べる甘いもの。
それを誰かに奪われないよう、苦しいのも我慢して胃の奥へ呑み込んだ。
大丈夫。ジャルネット村の瘴気は消えて、村人達は家に帰ることができた。
これから第二王子を始めとした王族達が支援のために動いてくれる。美味しい林檎が旬の時期を迎えると、華やかな香りを放つだろう。
だから役目は終わり。暗殺者としても、侍女としても――聖女から離れよう。
涙で目を真っ赤にした聖女と話した直後、第二王子に声をかけられた。
年老いた侍女長達を差し置いて、聖女の側付きという栄転。努力が実ったなんて、甘いことは考えない。
案の定、第二王子が笑みを浮かべながら渡してきたのは一粒の飴玉。
とても綺麗な猛毒。
浄化遠征で成功の見込みがない場合、これを食べさせろと指示を受けた。
他にも暗殺計画は進んでいるらしいことは会話の端々から感じ取れたが、決して追求はしなかった。
聖女の成功は第二王子の手柄。聖女の失敗は死でもって異世界の少女が償うもの。
聖女が息絶えたならば、もう一度召喚すればいいのだから。
女神が選ぶ次の神子など待っていられないのは、若侍女も同じだった。一刻でも早くジャルネット村を救いたい気持ちで、飴玉を隠し持つ。
ポケットにずっと忍ばせていた。聖女に「甘いものはいかがですか?」と問いかければ、成功したのと同じだ。
警戒心の薄い聖女。簡単に殺せるくらい、信頼してくれた。
きっと第二王子からしてみれば、浄化遠征は成功しない方がいいのだろう。夜間に襲われたという話を聞いて、少しだけ怒りを抱いた。
ジャルネット村で今も苦しんでいる人達がいる。優しくて、温かい――素敵な村。救うためならば、なんだってしてみせる。
だからありがとう。そしてごめんなさい。
本当は一緒にいられるような人間ではない。。
信じてもらうたびに痛みが走って、笑いかけてもらうたびに息苦しくなって、距離が近くなると指が震えて止まらないのだ。
浄化遠征の成功を第二王子に褒められても心をは落ち込むだけで、小声で告げられた「あとは食べさせるだけだな」には吐き気がした。
だから自分に食べさせた。
これ以上恩人を騙したくない。ジャルネット村を救ってくれた、聖女。
臓腑が溶け落ちるような熟れた苦痛に、視界の半分以上は暗闇に染まるほどの目眩。心臓の鼓動に合わせて全身を巡る死の澱み。
歩く。聖女の部屋から一歩でも遠ざかり、悲しませないように。
暗い廊下で体を揺らして、曲がらない膝を使って前に傾きながら進む。
誰かにぶつかったのはわかっても、その顔すら見ることができない。
ごめんなさい。
本当は怖い。殺そうとしていたのがバレることも、ジャルネット村の皆に顔向けできないまま終わることも。
もう一度、あの林檎パイを食べたいのに。口の中に広がるのは熱くて苦い、粘度の高い液体ばかり。言葉を吐き出すだけで、胃腸ごと出てきそうなくらい、吐き出すのを止められない。
ごめんなさい。
やっぱり死にたくない。
感謝も、謝罪も。何も終わってないのに、命を捨ててしまった。
逃げるための口実を並べて、楽になろうとしただけ。間違ったことだとわかるから、後悔が頭の中を埋め尽くして思考を塗り潰す。
ごめんなさい。
まだ生きていたい。
でも遅いことくらいわかっている。
ジャルネット村を救ってくれて、ありがとう。
信じてくれて、頼りにしてくれて、ありがとう。
飴玉を疑いもせずに受け取ってくれた純粋さを教えてくれて、ありがとう。
もらって、くれて、頂戴してばかりでごめんなさい。
お返しができないまま逃げようとして、ごめんなさい。
もしも運命の女神が許してくれるのならば、次こそは――。
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聖女が手を必死に握り、何度呼びかけても反応はなかった。
呼吸は数分前に止まっており、青白い顔に熱が戻ってくることはない。
心臓や脈が動かなくなった体は、力が込められることはないだろう。
「エリ!エリ!!」
泣きながら何度も名前を呼ぶ聖女の声で、存在が骨壷騎士達にもバレてしまった。
しかし若い侍女の死に対し、誰も声をかけられなかった。間抜け騎士も驚きのあまり言葉を失っている。
胃の中にあるもの全てを魔法で作った水で吐き出して浄化したというのに、死神の指が魂に触れる方が早かった。
理知的な黒が印象に強い、花開く前の美しさで散った貴族の子女。
冷や汗騎士が知ったらどうなるのか。そしてどうして死を選ぶことになったのか。
助けられなかったことを悔やむ魔導騎士は握り拳を固めて、顔を俯かせたまま無言を貫く。
もしも人型スライムがここにいたのならば、救えたかもしれない。
運命の女神の力を持つ魔物は、縁の糸が見える。死に向かう若侍女にいち早く気づいて、行動できたのではないか。
今さら縋っても意味のない推察が頭に浮かび、口内を強く噛む。血が一筋、顎へと向かって垂れていく。
「なんでぇ……」
目の前の現実を受け入れてしまった聖女は泣き崩れ、遺体が横たわるベッドのそばでへたり込んでしまった。
誰もが息を止めそうなほど重い雰囲気の中、老執事がそっと動き出す。
「聖女様。彼女は貴方を殺すつもりでした」
感情のこもらない、事務的な声だった。
しかし場違いな内容に誰かが怒りをぶつけようとする前に、執事は言葉を続ける。
「それでも救いたいですか?」
性格の悪い老執事だが、思い悩む相手に笑みを向けることはしない。
片眼鏡越しの瞳で相手をまっすぐに捉え、導き出される答えを静かに待つ。
「当たり前です!!」
きっと聖女は深く考えていない。
目の前に垂らされた救いの糸を、蜘蛛が作り上げた細くて弱いものだとしても手繰り寄せるように。
女神の声を聞き続けている老執事へと、はっきり告げた。
「エリを助けたい!!」
運命の女神が微笑む瞬間だった。
「浄化を」
「……え?」
「あとは女神様の気まぐれ次第です」
戸惑いは一瞬で、針型杖を支えに立ち上がった聖女から強い光が放たれる。
魔法使い百十人程度の浄化。大規模な瘴気を浄化するのは難しく、普通であれば人間を蘇らすなど一億人集まっても無理な話だ。
それこそ天地がひっくり返らない限り――しかし今は天の女神と地の男神の加護が、揃ってしまった。
――どうしましょうか?
――神域を冒涜する内容だ。
――もう一度怒られる?
――勘弁してくれ。
――では奇跡を。代償は空から飛来してくれるわ。
神言を全て聞いた老執事は、計画に狂いはないことを再確認した。
しかし計画外のことに関しては寛容な計らいを示すような、星の煌めきを宿した糸が星空から伸ばされてきた。
それは遺体の中心部、心臓へと吸い込まれるように溶け消えた。死神の指が魂から離れ、解き放つ。
「エリ、お願い……」
聖女の涙が頬を叩いた矢先、閉じられていた瞼が痙攣した。
光が収縮して消える頃、ぼんやりとした様子で若侍女が黒い瞳を動かす。
「聖女様……?」
「エリ!よかった……よかったぁ!!」
大声を上げて歓喜の涙を流す聖女につられるように、若侍女も大粒の涙をこぼす。
何度も「ごめんなさい」を繰り返し、一生分謝った後でようやく本当に伝えたかった言葉を紡ぐ。
「ありがとうございます……!」
神の奇跡を目の当たりにした部屋の者達は、二人の少女が落ち着くまで黙って待つことにした。
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待ち望んでいた光を感じ取り、雲の上にいた存在は視線を地上へ定める。
弱々しくも、確かな証明。隠れた土竜が出てきたのを喜ぶように、大きな月に向かって吼えた。
そして女神は微笑む。運命の外にいるものが、渦中を荒らしにやってきた。奇跡を生贄に、破滅が襲来する。
女神の高笑いは、人型スライムの興味を外に向けるには充分なものだった。




