第77話「心の傷」
馬車の整備で腕まくりをしていた老執事。その腕は細く、枯れ木一歩手前のように皺だらけで肉がない。
すぐさま身だしなみを整えれば、伸びた背筋によく似合う燕尾服を着こなした老人である。
魔導騎士の幼い頃よりも老けて、髪は白一色になってしまったが、一言多い性格や仕事には隙がなさすぎるところは変わらない。
「ようやく、だと?」
「はい。遅すぎます」
飄々と丁寧に。老執事は一切の動揺を見せず、むしろ余裕があるくらいの態度で受け答えを行う。
それに腹立たしさを覚えながらも、体の奥底が冷えるような疑念と喪失感を魔導騎士は味わっていた。
こんなにも身近で信頼してた相手が騙していた、という事実を受け入れるのは難しい。
「お前がライムを手引きして王都に入れたのか?」
「その通りでございます」
否定してほしかった。
しかしそんな淡い期待はさらりと崩されて、疑いが確信へと変わっていく。
魔物を王都に連れ込んだ人物。元から人型スライムだけでは無理なことも、人間の協力者――一定の信頼と地位を持つ者がいれば解決できる内容だ。
ドラコー家の執事。
その称号は重く、口に出すだけで信頼を得られるという類だ。
「いつ、から……」
「少し前に、女神様からお告げがありまして」
「………………?」
理解に苦しむというよりは、初めて出てきた情報に戸惑うという方が正しいだろう。
人型スライムが神言を聞いていたというのは知っている。しかし老執事がそうだという話は二十余年の人生で初耳だ。
執事としての完璧な振る舞いを乱さない老人は、誰にも聞こえない言葉に振り回されている様子がなかった。
「ボケたか?」
「大真面目でございます」
加齢による耄碌を心配したが、ゆっくりとした口調で否定された。
「自慢ではありませんが、昔から有能でした」
「……」
「故に、周囲にいる人間全てがくだらない生物にしか思えませんでした」
「性格が悪いのは筋金入りか」
「これくらいを受け入れられない他者が愚かなのです」
自己肯定感の塊である老人には心の傷というのはないらしく、鋼鉄の心臓で魔導騎士の皮肉を受け流した。
あまりにも自信満々に告げられてしまうと、本当に「度量が狭い自分が悪いのでは」と思いかねない。
「ですので女神に祈りました」
片眼鏡越しの真剣な瞳に、気迫が宿った。
それは厚い信仰の果てに取得したものなのか、生来の気質なのか。しかし一瞬とはいえ魔導騎士は気圧される。
夜風がざわりと動き始め、空の雲を静かに流して月光を少しずつ地上へと伸ばした。
「そして声を聞いたのです」
月光に照らされた老執事は、運命の糸を片手に掴んでいるような様相で真っ直ぐ立っていた。
魔導騎士の赤い瞳で見える糸。運命の女神が紡いだ紬糸を、老執事は把握しているのではないか。
危惧した通りならば恐ろしいこと限りないが、知っている限りでは老執事は魔法を使えないはず。
それすらも今は信用できない。
「私は女神に認められたのです」
顔中の皺が動くような満面の笑みで、老執事は蕩けるように吐息を広げた。
人間だと忘れるほどの表情の動きは自然なのに歪で、全身の毛が逆立つような不気味さを隠さない。
「そして私の人生は決まりました。
有能さを認めてくれた御方に全てを捧げるのだと」
ドラコー家でも熱心な女神信仰であることは理解していた。部屋の中にも小さな女神像を飾るほどなのだから、敬虔な信者としか捉えていなかった。
予想を上回る情熱と奉仕の精神を持ちながら、何故教会に入っていないのか。
魔導騎士の疑問を先回るように、老執事は話を続ける。
「しかし教会は私を認めませんでした。
女神の紡ぐ素晴らしい運命を全て伝えたというのに」
片眼鏡越しの瞳に憎悪が宿り、明かな苛立ちと怒りが皺を深くしていく。
「十数年かけて本物だと悟るような愚図共に用はありませんでした」
「……まさか」
「改めて。伝説の拝聴者は私のことでございます」
優雅な一礼は主人に対する最大の敬意を表しており、状況との不一致さから空々しいだけの作法と変わり果てた。
月光はまるで演劇の舞台で笑う道化を照らす光であり、全てを見透かす女神の片眼のように輝いている。
空気全てを掌握したように老執事は姿勢を崩さず、顔を上げる。呆然としているはずの、幼い頃から変わらない貴族の子息を見据えるために。
「それで?」
しかし予想は裏切った。
有能で、全てを見透かすことができる老執事が――見誤った。
「ライムを俺と引き合わせて、聖女様に近づけて……計画通りだったか?」
「……」
「違うよな。性格の悪いお前は、最悪を迎えなかったことに苛立ったよな」
きっとドラコー家当主では見抜けなかっただろう。彼はとても優しくて、有能な人物が腹黒くなる必要もないほど素直なのだから。
一言多くて、しかし有能で世話焼きな、いつも性格の悪い老執事。それを理解しているのは、皮肉にも老執事が少しだけ馬鹿にしていた坊っちゃまだった。
生まれた時からそばにいる、好きになるには一癖ありすぎる老執事との付き合いも二十年を超えている。
「お前ならば直接聖女様に引き合わせることも可能だったのに、俺に出会わせた理由は……」
「買い被りすぎでございます。私は」
「俺にライムを殺させるつもりだったんだな」
老執事のよく喋る口が閉じた。
沈黙は肯定となり、二人の間に重い空気が滞留して澱んでいく。
「……」
「おや?私はまだ話すことがありますが、よろしいのでしょうか?」
背中を向けた魔導騎士に向かって、剽軽な声で問いかける。
しかしそれに応えることはなく、魔導騎士はその場から離れていった。
後ろ手を組んだ老執事は背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま、その背中が視界から消えても立ち続けていた。
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クッキーを食べ続ける聖女は、突如として部屋から走り去った魔導騎士について口に出す。
「どこ行っちゃったんでしょうか?」
「おそらくセバスさんのところですね」
慣れたように笑う美しい令嬢は、優雅な仕草で紅茶を味わう。
それに見惚れる男装女騎士は報告や仲間のことがすっぽりと頭から抜け落ち、女性としての理想像を目に焼きつけていた。
「あの燻銀執事さんですね!いきなり会いたくなっちゃうくらいの仲なんですか?」
「ケイジ様は素直ではないけど信頼してる形で、セバスさんは……」
少しだけ間を空けた令嬢は、和やかな微笑みで告げる。
「初めて親愛を覚えた、くらいでしょうか」
「え?そんなに重い感じですか?」
いつも表情を崩さない老執事の顔を思い浮かべながら、聖女は訝しげに言う。
それが面白かった令嬢は吐息まじりの笑い声を漏らしながら、普段の二人の姿を容易に思い浮かべた。
「だってセバスさん、ケイジ様の前だけ笑うんですもの」
皺さえ固そうな老人が、魔導騎士を揶揄ったりする時は心底楽しそうに笑う。
頬の筋肉が急に柔らかくなったかのように、口角を吊り上げるのだ。
客人相手にもニコリとも返さない老執事だというのに、それに魔導騎士だけが気づいていない。
「ケイジ様、誤解していないといいのだけれど」
老執事は意地悪をしているのではなく、試しているのだと。
もしも魔導騎士が求めれば、彼は全てを教える心構えでいるのに。
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「また間違えました」
老執事が独り言を空気に落とすように呟いた。
――ええ、そうね。
鼓膜に響く神言は鈴の音のように軽やかで、心地いい。
いつもであれば感激で体が震えるはずなのに、今だけは少しだけ耳障りだと感じてしまう。
「私は周囲の人間がくだらない生物にしか思えません」
――変わらないわね。
「そうでないと説明がつかないからです」
――有能って無能と紙一重だったかしら?
誰にも理解されない。同時に誰のことも理解できない。
思考が最初から違うのだ。効率など手順化できるものではない、もっと根本的な部分で異なっている。
だから違う生き物だ。愚鈍で、役立たずな、何一つ伝わらない相手だと認識していた。
「坊っちゃまもそうであれば、よかったのに」
女神の運命の糸では修復できない溝を、胸の奥で感じ取る。
鋼鉄の心臓を持つ性格の悪い老人も、時には傷つくことだってあるのだった。




