第9話:幼なじみは、仮デートを上書きしたい
管理表には、案の定、赤字が増えていた。
> 白瀬玲奈 弓道部の先輩/まだ振られておきます/放課後買い出し/仮デート疑惑
「疑惑で済ませてくれたのか」
「済ませたんじゃないよ。白瀬先輩が『仮』を提案して、莉愛さんが『デート』を主張して、一ノ瀬先輩が『記録上は不問』って言って、小鳥遊さんが『確認中』って言ってきたから、最大公約数を取っただけ」
「管理表って数学だったのか」
「もう何でもいいよ。私の朝食中に修正依頼を送ってこないでほしい」
こはるは味噌汁を見つめながら、かなり疲れた顔をしていた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「今日は何も増やさないで」
「昨日も言われた」
「昨日言ったのに増えたんだよ」
正しい。
「今日は本当に何もないはずだ」
「その『はず』が一番信用できない」
妹の信頼が日に日に減っている。
* * *
教室に入った瞬間、宮坂が俺を見るなり手を合わせた。
「佐倉」
「何だ」
「仮デート、おめでとう」
「祝うな」
「仮でもデートはデートだろ」
「買い出しだ」
「カフェに入ったんだろ」
「十分だけだ」
「十分デート」
「単位を作るな」
周囲の男子たちも、朝からすでに死んだ目をしていた。
「学園一の美少女と駅前カフェ……」
「しかも十分だけ……逆にリアル……」
「買い出しからのカフェはもう勝ち筋だろ……」
勝ち筋ではない。俺は何と戦っているんだ。
席に着くと、芽衣がこちらを見ていた。
「おはよう、悠斗」
「おはよう」
「昨日、白瀬さんと駅前に行ったんだってね」
「買い出しだ」
「うん。買い出し」
芽衣は素直に頷いた。素直すぎて逆に怖い。
「カフェにも入ったんだって?」
「荷物持ちのお礼に十分だけ」
「そっか。お礼なら仕方ないね」
「そうだな」
「じゃあ、私も今日、悠斗にお礼するね」
「何の」
「いつも隣を歩いてくれてるお礼」
「その理屈は雑じゃないか」
「白瀬さんが買い出しなら、私は買い足し」
「買い足し」
「今日の放課後、スーパー寄って。こはるちゃんにプリン買っていく」
宮坂が横から机に突っ伏した。
「佐倉、今度は幼なじみとスーパー……」
「スーパーだぞ」
「スーパーは重いんだよ」
「何が」
「生活感」
やめてほしい。駅前カフェより嫌な言い方だった。
芽衣は笑顔で続けた。
「あと、ブロッコリーも買う」
「なぜ」
「莉愛ちゃんに確認されたんでしょ? 家でも最後に食べるか確認しようと思って」
「管理表に野菜欄を増やすな」
「増やすのはこはるちゃんだよ」
「妹を巻き込むな」
その時、後ろから城ヶ崎が楽しそうに身を乗り出した。
「芽衣、スーパー行くの?」
「うん。近所のスーパー」
「強いね。白瀬さんが駅前カフェなら、芽衣は生活圏で殴りに行くんだ」
「殴らないよ。買い物するだけ」
「それが強いんだって」
一ノ瀬が前方から振り返る。
「放課後の寄り道ですか」
「一ノ瀬さん、スーパーって寄り道に入る?」
芽衣が聞くと、一ノ瀬は少し考えた。
「帰宅経路上で、買い物の必要性があるなら問題ありません」
「だって、悠斗」
「俺に言われても」
「ただし」
一ノ瀬が俺を見る。
「人だかりを作らないように」
「スーパーで人だかりは作らないだろ」
宮坂が遠い目で言った。
「お前がそう言うと不安なんだよ」
* * *
放課後。
校門前には、芽衣が立っていた。
昨日の白瀬先輩とは違う。そこにいるのが当たり前の人だった。
「行こ」
「どこへ」
「スーパー」
「本当にスーパーなんだな」
「本当にスーパー。駅前カフェじゃなくて、近所のスーパー」
芽衣はそう言って、俺の隣に並んだ。
いつもの帰り道。何度も歩いた道。
なのに、今日は宮坂の「生活感」という単語が頭に残っていて、妙に落ち着かない。
「悠斗」
「何」
「今、ちょっと意識したでしょ」
「してない」
「嘘。顔に出てる」
「白瀬先輩みたいなことを言うな」
「白瀬さんは昨日の人。今日は幼なじみの日」
「勝手に日を作るな」
「作らないと取られるでしょ」
軽い口調だった。
でも、最後だけ少し本音に聞こえた。
俺が何か言う前に、芽衣は先に歩き出す。
「ほら、遅い。今日はプリンが売り切れる前に行くんだから」
* * *
スーパーに入ると、芽衣は迷わなかった。
入口のかごを自然に一つ取って、俺に渡してくる。
「持って」
「俺が持つのか」
「荷物持ちでしょ?」
「白瀬先輩の買い出しと同じ扱いにするな」
「じゃあ、幼なじみの買い足し」
言葉が増えていく。管理表がまた厚くなりそうだった。
芽衣は棚の間を歩きながら、次々と商品をかごに入れていく。
「こはるちゃんはプリン。お母さんにはヨーグルト。悠斗は?」
「俺の分まで買うのか」
「ついで」
「ついでで俺の好みを把握するな」
「今さら何言ってるの。悠斗、ここのコーヒーゼリー好きでしょ」
「好きだけど」
「ほら」
かごにコーヒーゼリーが入る。
それだけのことなのに、なぜか白瀬先輩とのカフェより逃げ場がなかった。
「悠斗」
「何」
「昨日のカフェ、楽しかった?」
急に来た。
芽衣は棚を見たまま聞いている。俺の方は見ない。
「楽しいというか、白瀬さんに全部持っていかれた感じだった」
「うん。分かる」
「分かるのか」
「白瀬さん、綺麗に攻めるもんね」
芽衣はヨーグルトを手に取って、少しだけ笑った。
「私は、綺麗には無理かな」
「芽衣?」
「だから、スーパー」
そう言って、芽衣は俺のかごにブロッコリーを入れた。
「なぜそこでブロッコリー」
「生活感」
「宮坂みたいなことを言うな」
「でも、そうでしょ」
芽衣は今度こそ、こちらを見る。
「白瀬さんは駅前でカフェに入れる。莉愛ちゃんは教室で距離を詰められる。一ノ瀬さんは生徒会室に呼び出せる。雫ちゃんは家に来る」
「並べるとひどいな」
「私は、隣の家から来る」
隣の家から来る。
その言葉で、昔のことを思い出した。
小学校の頃、芽衣と一緒に帰っているところを、同じクラスの男子にからかわれたことがある。
「佐倉、橘といつも一緒じゃん」
「付き合ってるのかよ」
その時、俺は何も考えずに言った。
「幼なじみだから」
芽衣は、少しだけ黙った。
その沈黙は、本当に短かった。
当時の俺なら、気のせいで済ませられるくらいの間だった。
でもすぐに芽衣は笑って、
「そうそう、幼なじみだから」と続けた。
それで、その場は終わった。
誰もそれ以上からかわなかったし、俺たちの距離も変わらなかった。
だから俺は、たぶん安心した。
幼なじみという名前は、近くにいても不自然じゃない。
離れなくても、理由になる。
でも、その名前を出した時、芽衣が一瞬だけ黙った理由までは、俺は見なかった。
「だから、スーパーくらい付き合ってよ。……ね?」
芽衣の声で、今に戻った。
幼なじみだから。昔から、その言葉でいろんなことを通してきた。
でも今、その名前だけで芽衣を棚に戻すのは、少し違う気がした。
「……プリンだけじゃなかったのか」
「ブロッコリーもあるよ」
「そこは増やさなくていい」
芽衣は満足そうに笑った。
* * *
会計を終えて袋詰めをしていると、背後から震える声がした。
「佐倉……?」
振り返ると、宮坂がいた。
両手にカップ麺を持っている。完全に普段の買い物だった。
「宮坂」
「お前……幼なじみとスーパーで袋詰め……?」
「偶然だ」
「偶然でその生活感は出ない」
「何を言ってるんだ」
宮坂は俺と芽衣と買い物袋を順番に見た。
プリン。ヨーグルト。コーヒーゼリー。ブロッコリー。
なぜか絶望した顔になる。
「白瀬さんとの駅前カフェはまだ分かる。いや、分からないけど、分かる。でも幼なじみとスーパーは駄目だ」
「何が駄目なんだ」
「近い。距離が生活に近い」
芽衣がにっこり笑った。
「宮坂くん、カップ麺だけでいいの?」
「今それを幼なじみヒロインに言われたくない」
「ヒロインって言わないで」
芽衣は笑っている。でも、少し嬉しそうだった。
宮坂はスマホを取り出そうとした。
「これは男子共有案件だ」
「やめろ」
「管理表にも必要だろ」
「もっとやめろ」
俺が止めるより早く、芽衣が言った。
「こはるちゃんには、私から言うよ」
「言うな」
「プリン買ったし」
「買収する気か」
「お礼」
完全に使い方を覚えていた。
* * *
家に着くと、こはるが玄関で待っていた。
「お兄ちゃん」
「なぜ今日もいる」
「芽衣ちゃんから連絡が来た」
隣で芽衣がプリンの袋を掲げる。
「こはるちゃん、お疲れさま。更新作業のお礼」
「芽衣ちゃん……」
こはるはプリンを見た。少し揺れた。
だが、すぐに顔を引き締める。
「物で買収しようとしても、管理表の公平性は守るから」
「公平性があったのか」
「あるよ。たぶん」
こはるは袋を受け取り、管理表を取り出した。
「で、何て書けばいいの」
「書く前提なのか」
「もう書かない方が不自然」
芽衣が少し考えて、言った。
「近所の買い物。プリン。ブロッコリー」
「それだけ?」
「あと、帰り道」
「それは前からある」
「じゃあ、更新じゃなくて継続で」
「継続」
こはるがペンを止めた。
「芽衣ちゃん」
「何?」
「その言い方、一ノ瀬先輩みたいになってる」
「え、やだ」
「やなんだ」
芽衣は少しむっとした顔で、俺を見る。
「じゃあ、こうして」
「どうして」
「幼なじみ買い足し」
こはるが固まった。
「……何それ」
「分かんない。でも、白瀬さんだけ仮デート疑惑なのはずるい」
「ずるいのか」
「ずるい」
芽衣はまっすぐ言った。
そこへ、俺のスマホが震えた。城ヶ崎だった。
『芽衣、スーパー行ったんだって? 生活圏強すぎない?』
続けて白瀬先輩。
『こはるさんから、買い足しの件を聞きました。橘さんらしいですね』
一ノ瀬。
『帰宅経路上の買い物であれば、記録上は問題ありません』
小鳥遊。
『白瀬先輩の仮デート疑惑と比較して確認します』
もう駄目だった。こはるがスマホを見て、真顔になる。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「更新依頼、また四件来そう」
「すまん」
「芽衣ちゃん」
「何?」
「プリン、もう一個ある?」
「あるよ」
「許す」
「買収された!」
こはるは管理表に赤字を書き足した。
> 橘芽衣 幼なじみ/弁当/朝・帰り道予約/幼なじみ買い足し
そして、その横に小さく追記する。
> ※生活圏が強い
「こはる」
「何」
「その注釈いるか?」
「いる。比較のため」
「比較するな」
芽衣はその表を見て、小さく笑った。
「生活圏、強いんだ」
「嬉しそうにするな」
「うん。ちょっと嬉しい」
その顔を見て、俺は何も言えなくなった。
* * *
夜、管理表の画像がこはるから送られてきた。
『今日の更新分』
> 白瀬玲奈 仮デート疑惑
> 橘芽衣 幼なじみ買い足し ※生活圏が強い
『なんで比較欄みたいになってるんだ』
『みんなが比較するから』
『破棄しよう』
『無理。プリンもらったから今日は働く』
妹が完全に管理表に取り込まれていた。
俺はベッドに倒れ込む。
昨日は学園一の美少女と駅前カフェ。
今日は幼なじみと近所のスーパー。
誰とも付き合う気はない。
そのはずなのに、俺の放課後は、駅前と生活圏の両方から挟まれ始めていた。




