第15話:幼なじみは、逃げ道まで知っている
翌朝、管理表は更新されていなかった。
食卓に置かれているのは、味噌汁と焼き鮭と、こはるの疲れきった顔だけだ。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「今日は管理表、出しません」
「本当に?」
「本当にね。昨日、更新しないって決めたからさ」
こはるはそう言いながら、箸で焼き鮭を器用にほぐした。
「ただし、座席メモは保管中です」
「保管するな」
「危ないものは事前に把握しておかないと、もっと危ないでしょ」
「理屈が危ないんだよ」
こはるは死んだ目で俺を見た。
「前に一ノ瀬先輩、斜め前に芽衣ちゃん、後ろに莉愛さん、入口から白瀬先輩と雫ちゃん。お兄ちゃんの周り、もう地図だけで不穏なんだよ」
「俺の席を災害区域みたいに言うな」
「災害区域じゃないよ。発生源周辺」
「もっと悪い」
朝から、やっぱり負けた。
* * *
教室に入ると、座席は当然のように昨日のままだった。当たり前だ、席替えは昨日したばかりである。それなのに、自分の席へ向かうだけで妙な緊張感があった。
前には一ノ瀬。斜め前には芽衣。後ろには城ヶ崎。右には宮坂。配置を再確認しただけで、少し胃が重くなる。
「おはよ、悠斗」
後ろの席から、城ヶ崎が明るく声をかけてきた。
「おはよう」
「今日も後ろからじっくり見てるね」
「授業を見ろ」
「悠斗の後頭部も視界には入るからさ、これは不可抗力」
「不可抗力の使い方が間違ってる」
前の席では、一ノ瀬が姿勢よくノートを開いている。
「城ヶ崎さん。授業開始前とはいえ、後方からの過度な接触は控えてください」
「声かけただけじゃん」
「積み重なると環境になります」
「一ノ瀬さん、言い方がもう風紀の資料なんだよね」
斜め前の芽衣は、こちらを見て少し笑った。
「悠斗、目の下に少し疲れ出てるよ」
「朝から配置の確認をしたせいだ」
「昨日、自分で人だかり止めたから、緊張したんじゃない?」
「……まあ、少しはな」
「珍しいことしたもんね」
「みんなして珍しい扱いするな」
宮坂が右から小声で言った。
「佐倉。俺は今日も防波堤としてここにいるぞ」
「頼もしいな」
「ただし、限界は早い」
「頼もしくなかった」
* * *
午前の授業は、昨日よりはましだった。少なくとも、人だかりはできていない。昨日、俺が自分で言ったせいか、教室の視線はまだ残っているものの、直接集まってくる生徒は減っていた。
ただ、減っただけだ。
城ヶ崎は後ろから、小さく折りたたんだメモを回してくる。
> 後ろ席、思ったより楽しい
> でも声かけると一ノ瀬さんに怒られる
俺は返さず、そのまま机の端に伏せた。すると斜め前から、芽衣がそっと消しゴムを置いてくる。
「落ちてたよ」
「俺のじゃない」
「じゃあ、予備」
「予備を置くな」
「斜め前なので」
意味が分からない。
一ノ瀬が前から振り向く。
「橘さん。不要な物品の移動は、授業環境を乱します」
「予備だからね」
「予備という名目でも、不要であれば不要です」
「じゃあ、必要になったら使ってね、悠斗」
「橘さん」
宮坂が横で頭を抱えた。
「斜め前、強いな……。後ろより静かな分、余計に刺さる」
「実況するな」
昼休み前には、俺の机の上に、なぜか予備の消しゴムと、城ヶ崎からのメモと、一ノ瀬が配った小テストの訂正プリントが並んでいた。自分の席なのに、情報置き場みたいになっている。
俺は深く息を吐いた。斜め前の芽衣が、それを見逃さなかった。
「悠斗」
「何だ」
「今日の帰り、少し遠回りする?」
何でもないように言われた。でも、その言い方は、朝の「疲れてる」と同じ種類だった。
「遠回り?」
「うん。いつもの道じゃない方」
俺は少し黙った。昨日からずっと、席だの配置だの管理だの、周りから見られることばかり続いている。だから、自然に口が動いた。
「……じゃあ、今日、少しだけ頼む」
言ってから、自分でも少し驚いた。俺から頼んだ。
芽衣も、少しだけ目を丸くした。
「うん。任せて」
城ヶ崎が後ろから机に顎を乗せる。
「え、今の何? 悠斗から誘った?」
「誘ってない。遠回りを頼んだだけだ」
「それ、かなり強いんだけどなー」
一ノ瀬が前から静かに振り向いた。
「放課後の遠回りについて、帰宅時間が大きく遅れない範囲であれば問題ありません。ただし、目的は明確にしてください」
「目的はね」
芽衣が少し考えた。
「避難かな」
「何からですか」
「悠斗の席から」
宮坂が机に突っ伏した。
「ついに本人が避難を始めたぞ……」
* * *
放課後。校門前にいた芽衣は、いつものように自然だった。白瀬先輩のように絵になるわけでも、城ヶ崎のように空気を引き寄せるわけでもない。でも、そこにいるのが当たり前すぎて、逆に逃げ場がない。
「行こ」
「どこへだよ」
「遠回り」
芽衣はそう言って、いつもの帰り道とは違う方へ歩き出した。
駅へ向かう通りではなく、住宅街の細い道。コンビニの角を曲がって、古い駐車場の横を抜ける。昔から知っているはずなのに、最近はほとんど通っていなかった道だ。
「こっち、久しぶりだな」
「中学の時、悠斗が人に疲れるとこっち通ってたんだよ」
「そんなことまで覚えてるのか」
「うん」
「……怖いな」
「便利でしょ」
否定できなかった。
芽衣は歩幅を俺に合わせながら、淡々と続ける。
「白瀬さんは駅前に連れていける。莉愛ちゃんは遊びに連れ出せる。一ノ瀬さんは図書室に連れていける」
「小鳥遊は確認に来るな」
「そう。雫ちゃんは家まで来るよね」
芽衣は少しだけ笑った。
「私は、逃げ道を知ってるよ」
軽い声だった。でも、言っていることは軽くなかった。
「悠斗が、どの道なら黙って歩けるか。どこで立ち止まるか。何を買うと、ちょっと機嫌が戻るか」
「……把握されすぎている」
「幼なじみだからね」
その言葉は、もう何度も聞いた。なのに今回は、少し違って聞こえた。
* * *
遠回りの途中に、小さな駄菓子屋があった。まだ残っていたのか、と思うくらい古い店だ。芽衣は迷わず中に入る。
「入るのか」
「入るよ。悠斗、ここのラムネ好きだったでしょ」
「……好きだったけどな」
「今は?」
「嫌いではない」
「じゃあ、好き寄りだね」
勝手に分類された。
店のおばあさんが、芽衣を見るなり笑った。
「あら、芽衣ちゃん。久しぶりねえ」
「こんにちは」
「そっちの子も、昔よく来てた子じゃない?」
「佐倉です」
「ああ、こはるちゃんのお兄ちゃんかい」
俺の認識は、ここでもこはる経由だった。
芽衣は棚からラムネを二本取った。それから少し考えて、こはる用に小さなチョコも取る。
「またこはるに何か渡すのか」
「更新料じゃないよ」
「本当かよ」
「今日は、避難協力費」
「また新しい名目を作るな」
会計を終えて外に出ると、芽衣はラムネを一本俺に渡した。
「はい」
「いくらだ?」
「今日はいいよ」
「また対価とか言うなよ」
「言わない。今日は私が連れてきたからさ」
炭酸の瓶を開ける音が、夕方の住宅街に小さく響いた。派手なことは何もない。ただ、昨日までの駅前や教室より、呼吸はしやすかった。
「こういうところ、まだ残ってたんだな」
「残ってるよ。悠斗が通ってなかっただけ」
「そうか」
「うん」
芽衣はラムネを両手で持ちながら、少しだけこちらを見る。
「悠斗さ。最近ずっと、誰かに連れていかれてたでしょ」
「否定しにくいな」
「今日は、自分で頼んだよ」
「遠回りをな」
「それでいいよ」
芽衣は笑った。
「頼まれた幼なじみは、強いので」
* * *
帰り道の途中で、スマホが震えた。城ヶ崎からだった。
『悠斗、今日芽衣と遠回り? それ強くない?』
続けて一ノ瀬。
『遠回りにより帰宅時間が遅れる場合は、事前申告が望ましいです』
白瀬先輩。
『今日は橘さんとご一緒なのですね。佐倉くんからお願いしたと伺いました』
小鳥遊。
『佐倉先輩が自分から頼んだ件について確認します』
俺はスマホを伏せた。
「情報が早すぎる」
「こはるちゃんにチョコ買ったって送ったからね」
「そこから漏れたのかよ」
「たぶん」
「たぶんで済ませるな」
芽衣は悪びれない。
「でも、今日のは管理表じゃないでしょ」
「じゃあ何なんだよ」
「帰り道」
その一言は、やけに強かった。管理表でも、座席表でもない。ただの帰り道。なのに、今の俺にはそれが一番逃げ場のないものに思えた。
* * *
家に着くと、玄関にはこはるが立っていた。猫のぬいぐるみを片手に、もう片方の手には芽衣が買ったチョコを持っている。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「今日は管理表を更新しません」
「いいことだ」
「座席メモも更新しません」
「かなりいいことだ」
「でも、新しい紙が必要かもしれない」
「やめろ」
こはるは、チョコを見つめながら言った。
「芽衣ちゃんから『避難協力費』をもらったよ」
「ただのチョコだろ」
「名目があると、紙が発生するんだよ」
「発生させるな」
芽衣が俺の後ろで、少しだけ笑った。
「こはるちゃん、書かなくていいよ」
「本当に?」
「うん。今日は、悠斗が自分で頼んだから。私の欄じゃなくて、悠斗の欄だと思うんだよね」
こはるが止まった。俺も止まった。
「悠斗の欄?」
「うん。たまには、悠斗が自分で動いたことにしてあげてもいいんじゃない?」
芽衣はそう言って、俺の方を見た。
「ね?」
「俺に振るな」
こはるはしばらく黙っていた。そして、ものすごく嫌そうな顔で、ノートの切れ端を取り出した。
「管理表じゃないからね」
「分かってる」
「座席メモでもないからね」
「じゃあ何なんだよ」
「今日の覚え書き」
「結局、紙じゃないか」
こはるは赤ペンではなく、普通のシャーペンで小さく書いた。
> 佐倉悠斗:自分から遠回りを頼んだ
その下に、少しだけ迷ってから追記する。
> ※少しだけ成長
「こはる」
「何」
「消してくれ」
「嫌」
「なぜだよ」
「これは残すの」
こはるは小さく息を吐いた。
「お兄ちゃんが全部流されてるだけじゃない証拠だからさ」
その言葉は、今日二度目に効いた。
芽衣が横で、少しだけ満足そうにしている。
「よかったね、悠斗」
「よくはない」
「照れてる」
「照れてない」
「そこは、覚え書きに書いてもいい?」
「書くな」
こはるが即答した。
「もう紙を増やさないでよ」
正論だった。
* * *
夜、こはるから画像は送られてこなかった。代わりに、短いメッセージだけが来た。
『今日は管理表更新なし』
続けて、もう一通。
『ただし、覚え書きは保管中』
俺はスマホを置いた。
管理表は更新されなかった。座席メモも増えなかった。ただ、家のどこかに、俺が自分から遠回りを頼んだという覚え書きが一枚増えた。
誰とも付き合う気はない。
そう言ったはずなのに、今日は自分から、幼なじみに逃げ道を頼んでいた。




