前編: 潮目
“胃袋を掴む”とは、どうすればいいのだろう。
ソフィア・リンドールは、目の前のスープ皿をじっと見つめて考えた。
ただいま恋愛真っ最中の部下が言うには、男性は美味しい手料理を振る舞ってくれるような女性を好み、それを“胃袋を掴まれる”と表現するらしい。
西海の島々を領土とするリンドール候爵家の第三子であるソフィアは、貴族令嬢としての教養も、海の民として非常時に生き延びる術もきっちりと教育されている。
魚を釣って捌いて焚き火で焼く事ならできる。
けれど、ディナーのような料理となると、全くのお手上げ状態だ。
――腕の良い料理人を雇えば……違う、違う、絶対そういう事じゃない
「どうしたの、ソフィア? スープに砂でも入ってる?」
ゆっくり顔を上げると、銀を思わせる灰色の瞳と目が合った。
「少し考え事を」
ソフィアはそう答えて、スープを口に入れた。
「美味しいです」
二枚貝の旨味に、この島の酒の風味がほんのりとする。
スープを作ったのは、向かい側に座っている男だ。スープ横の皿には、切り身にした魚に香草をまぶして焼いたものが乗っている。
サラダのトマトや葉野菜は、おそらく庭で育てたものだろう――自分より、よっぽど料理上手じゃないか。こちらが胃袋を掴まれてどうする。
ソフィアは彼――オーウェンが好きだ。
たとえオーウェンが、何日前に櫛を通したのか分からない、もつれた黒髪をしていても、決まった仕事をしている様子がなくても。
オーウェンはいつも穏やかで、聞き上手だ。
出会った時、体調の悪いソフィアに、そっと手を差し伸べてくれたのがオーウェンだった。後から、具合の悪い時に1人で砂浜にいるなんて、自殺行為だと説教をくらったが。
リンドールの娘が、船酔いするなんてありえない、恥ずかしくて誰にも言えないと、ソフィアは思っていた。
「あのね、船酔いなんて誰にでもある事だよ。君が乗って来たあのデカい船の船長だって、前の日に飲み過ぎて、胃の中全部を海にぶちまけた事があるはずさ」
それはただの二日酔いでは?――ソフィアは思わず声をあげて笑った。
とはいえ、出会ってから何年もたつ若い男女に――いつしか島を訪れる度にオーウェンの家に寝泊まりするようになった仲なのに――恋愛的なあれやこれやが皆無という事は、推して知るべしというものだ。
「オーウェン」
ソフィアは精いっぱいさり気なさを装って口を開いた。
「実は、当分こちらに来られない事になりました」
この雑然とした小さな家も好きだったのに。
「当分って、どのくらい?」
オーウェンは顔をしかめた。
「今は大体2ヶ月に1度だろ? 半年?」
「未定です。私は、正式に兄の補佐官に決まりました」
オーウェンは小さく口笛を吹くと、嬉しそうに笑った。
「それはそれは。おめでとう、ずっとその仕事をしたがってたものね」
「ありがとう。ただ、本島での仕事が中心になるので、この島の麻の買い付けは別の者が担当することになるはずです」
きっともう会えない。
できる事なら泣きたかった。
もっと可愛らしい言い方ができたなら、よかったのに。
けれど、幼い頃からずっと“手のかからない良い子”だったソフィアは、自分の望みを言う事に慣れていなかった。
物事はいつでも兄と姉が、時には末っ子の妹の癇癪が優先された。
両親がソフィアを蔑ろにしてきたわけではない。
ただ、ソフィアは賢すぎた。
人の表情から、相手が何を思っているのか、ほぼ正確に読み取れた。
誰かが困るのは嫌だった。
譲って、譲って、いつしか自分の望みが分からなくなった。
今だってオーウェンに怒ってほしいのか、気持ち良く別れの言葉を言ってほしいのか分からない。
「分かった」
オーウェンは顔色一つ変えずにそう言った。
少しはしんみりして欲しかったと、ソフィアの思いは複雑だった。
「出発は明後日だね?」
「ええ、そう。いつも通りの予定です」
「じゃ、それまでに荷物をまとめておくよ」
「荷物? 何の?」
「俺の荷物。まさか身一つでついてこいなんて男前な事、言わないよね?」
「えっ? えっ?」
オーウェンは微笑んでいた。
ソフィアは、彼の瞳に宿る思いを読み取って、息をのみ胸を押さえた。
「あなたは……私のことが、好きなのですね?」
「何をいまさら」
「その、つまり……友達というよりは女性として?」
「もちろん」
「でも、その、私達はキスもしたことがないでしょう?」
オーウェンは、お手上げだとばかりに両手を上げた。
「ソフィア、ソフィア、ソフィア! 君と違って俺に読心術はできない。下手に手を出して嫌われたくはないよ」
「そんな素振りさえ見せてくれなかったじゃないですか」
「それはこっちの台詞だよ。俺は君と友達のままでいるのは我慢できる。でも会えなくなるのは嫌だ」
ソフィアは火照る頬を両手で包んだ。
「私だって、会えなくなるのは嫌です。それと……友達のままでいるのは、私は我慢できません」
「うん」
「だから……」
「だから?」
「だから、本島に着いたら私の恋人になって下さい」
ソフィアは、久しぶりに自分の望みを口にした。
「光栄だよ、ソフィア」
それから2日後、港に現れたオーウェンを見て、ソフィアは危うく『誰?』と叫びそうになった。
長めの黒髪をきれいに後ろに撫でつけて無精ひげを剃ったオーウェンは、思っていた以上の美男子だった。
彼は手慣れた様子で出港準備を手伝い、あっという間に船乗り達に受け入れられている。
オーウェンは、天性の人たらしだなとソフィアが考えている裏側で――
「お前、やっと本島で囲ってもらえるのか。長い間よく頑張ったな」
部下たちが2人の関係を大きく読み違えていて、オーウェンに同情的だった事を、ソフィアは知らない。




