第7話 迷いの報告とカレーパンのご褒美
二十階――レストランホールの一角。
仮設の衝立が並び、即席の本部が設けられている。
外では皿の音とコーヒーの香りが漂っていた。
その穏やかな空気の中で、ここだけが不自然に冷たかった。
奈々花は、一呼吸置いてから、衝立の向こうへ足を踏み入れた。
窓際の椅子に、玄武小鉄が座っていた。
小柄な体を背もたれに預け、腕を組んでいる。
太い眉が影を落とし、吊り上がった目が彼女を射抜いた。
「地下の管理室の件を報告します」
奈々花は姿勢を正し、淡々と声を発した。
「安由雷警部補と岡本巡査は、エレベーターのシステムについて、管理責任者の大路氏に詳しく聞き取りを行っていました」
「ふん」
玄武は、手にしていたペンを指で転がしながら続きを促す。
「呼び出しボタンを押した際のロック機構やエレベーターの選択優先順位――その詳細を、何度も確認していました。
……特に、安由雷警部補の方が主導で聞いていました」
「なるほどな。――で、様子はどうだった?
自分の推理に、確信が持てたようすだったか?」
玄武の口元に、わずかに嘲るような笑みが浮かんだ。
奈々花は小さく息を吸い、ためらいがちに続けた。
「いえ……安由雷警部補が、説明を聞いた後に、一瞬ですが明らかに動揺していました。
……何か、計算が狂ったような……」
「動揺?」
玄武の眉がわずかに動く。
「はい。恐らく、考えていた推理の一部が崩れたのかもしれません。
残念ですけど、犯人のあてが――」
「何が残念なんだ」
玄武の声が冷たく遮る。
「え……だって、犯人を逮捕することが、私たちの使命――」
「バカなことを言うな」
玄武は机の上のペンを置き、立ち上がった。
「もう、犯人も犯行方法も分かってる。
この後の会議で、俺が解決してやる」
彼は窓の外――夕暮れに沈む街を見下ろし、鼻で笑った。
奈々花は唇を噛みしめた。
自分でも、なぜ反論したくなるのか分からない。
業務として報告しているだけなのに――胸の奥が、ざわつく。
「やはり噂だけの男だったな」
玄武の口角が吊り上がる。
「“二十四時間のアユライ”だの、“現場の天才警部補”だのと持てはやされてきたが――結局は、実力が無ければメッキは剥がれるんだよ」
奈々花は、何も返さなかった。
手のひらの中で、爪が自分の皮膚を押しつけているのが分かる。
痛みで、感情を抑え込むように。
(……違う。あの人は、そんな人じゃない)
(だけど、今の私は、“報告者”でしかない)
玄武が振り返る。
「よくやった、坂下。――引き続き、動向を見ておけ」
「わ……分かりました」
奈々花は短く答え、敬礼して踵を返した。
衝立の中に残された空気には、二つの違う温度があった。
上司の“確信”と、部下の“迷い”が、静かに交錯していた。
*
同時刻。
事件当日、吉川志季が夜食を買いに訪れた――その店『レモンマーメイド』のイートインに、二人はいた。
ホットコーヒーと、この店自慢のカレーパンが二つ、トレイの上で湯気を上げている。
安由雷は、ビル管理室を出てから一言も口を利いていなかった。
いつになく険しい顔をしていた。
「まったく、今の若いものは理解ができませんよね」
悠真が、コーヒーにシュガースティックを三本分入れてかき混ぜた。
「いや、ちがうな。
理央ちゃんの方がずっと若いのに、僕より全然しっかりしてるから、若いからというのは違うな……」
**安由雷 理央**――それは安由雷の高校二年生の妹だ。
悠真は時折、兄時明の頼みで彼女の相談相手になっている。
だが実際には、ゲームのギルドや先輩の話など、相談をしているのは、もっぱら悠真の方だった。
安由雷は下を向いたまま。
聞いているのか、聞いていないのか分からない。
「そうだ、先輩。
今度、理央ちゃんに“次”を持ってきてって伝えてもらえませんか」
……
「先輩、……先輩!」
「ん?」
ようやく安由雷が顔を上げた。
「理央ちゃんから借りた二十巻までは読んだので、続きを持ってきてほしくて……」
「なんの話だ?」
「今、理央ちゃんに漫画を借りてて――あ、『エロイカより愛をこめて』っていう昔の漫画なんですけど、その続きを貸してほしくて」
悠真が焼きたてのカレーパンを頬張った。
「エロイカ……か、分かった」
安由雷は面倒くさそうに答え、ブラックのコーヒーをひと口すする。
――『エロイカより愛をこめて』。
それは、安由雷の母が学生時代に夢中になっていた少女漫画だった。
そして妹の理央も、小学生の頃に全巻を読み終えて、すっかり影響を受けていた。
作文のテーマ「将来なりたいもの」で、理央はこう書いた。
“インターポールの情報員になって、美術品窃盗犯を追いかけ、世界中を駆け回りたい”
安由雷は、ふっと目を細める。
(あのころの理央は、真剣に情報員になろうとしてたな……)
――そういえば、主人公のグローリア伯爵に、英語の口癖があった。
理央がよく真似していたのを覚えている。
だが今は、どうしても思い出せなかった。
*
「だけど、先輩はいいですよね」
悠真は自分のカレーパンを二口で食べ終え、トレイの上のもう一つを見つめながら言った。
「ん?」
「あの片耳ピアスくんが言ってたじゃないですか」
「尾藤か?……なにを」
「パンを買う前なら変更は聞くけど、買った後なら無視するって。
でも、僕もよく先輩のホカホカ弁当を買いに行かされて、から揚げ追加とかの電話が買い終わった後に来ても、ちゃんと戻って買ってくるでしょ」
「あ~、そうだな。……なんでだ?」
「だって買ってこないと、先輩、僕のを取るじゃないですか。
僕だって、《《買う前ならいいけど、買った後は無効》》にしたいですよ」
その瞬間――安由雷の表情が変わった。
(買う前は有効で、買った後は無効――)
安由雷は、長いまつ毛の目をゆっくりと閉じた。
(……そういうことか!)
安由雷の頭の中で、思考をせき止めていた何かが、音を立てて砕け散った。
「それもいいぞ」
トレイの上から視線を逸らさない悠真に、安由雷が言った。
「え?」
「もう一つ、食べてもいいぞ」
「え、いいんですか!? やった!」
悠真が嬉しそうに、熱々のカレーパンを大きな口で頬張った。
――バディの助言。
事件解決のご褒美は、「この店自慢のカレーパン」。
それは、確かにうまかった。
悠真が食べ終わるのを待って、二人は静かに席を立った。
そして、隣のビジネスビルへ戻っていった。
安由雷の中で、今回の事件のすべての結論が出ていた。
一方、悠真の中にも――
**“動く密室殺人の犯人は第一発見者で、凶器は別のものが運んだ”**という、まったく別の結論が出ていた。
次回――いよいよ、“推理対決”が始まる。
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【これで、この殺人事件を真相に導くための情報は、すべて開示されました】
――あなたは、もう犯人が分かりましたか?




