第5話 パンと煙草と軽口の中の真実
安由雷は、もう一人――どうしても話を聞いておきたい男を呼んでもらった。
その男は、尾藤淳。
東部コンピュータ社の社員で、殺された馬場雷太の正面の席に座っていた。
尾藤は、今年入社したばかりの新人で、馬場から仕事の指導を受けていた。
ニキビ顔で、髪の毛は茶色く、片耳にピアス。
サイドを刈り上げ、前髪だけを長く残している。
洗ったままのような自然な髪型で、見るからに現代っ子だった。
安由雷は、早速質問を始めた。
「あなたは、社員の本郷健次郎さんを知っていますか?」
「いいえ」
尾藤は落ち着かない様子で、首を左右に振った。
「亡くなられた馬場さんが、誰かにお金を貸しているという話は聞いていましたか?」
「いいえ」
尾藤は、自分の世界以外にはまるで興味がないような男だった。
「馬場さんは、どんな人でしたか?」
尾藤は少し考え、ためらいながら口を開いた。
「これ、本当のこと、言っていいんすか? 外にはもれないすか?」
「ええ、約束しますよ」
安由雷は、静かに頷いた。
横で聞いていた悠真は、年齢的には近いはずなのに、
尾藤を見ていて、世代の壁のようなものを感じていた。
(今の若い者は……)
そんな言葉が、充分に若い彼の口からこぼれそうになる。
「そうっすねぇ。
あの人、頭カタイくせに、めっちゃ優柔不断で。
よくおれが夜食の買い出しに行かされてたっす……」
「はぁ、夜食の買い出しに?」
「そうっす。
で、おれが買い出しに行ってる途中に、あの人の気が変わると携帯に電話してきて、パンの変更や追加をしてくるんすよ」
「パンの変更……?」
「そうっす。パンを買う前ならいいんすけど、
買い終わって戻ってる途中でも電話してくるときがあって。
そんときは無視してやるんすけど、ほんと面倒くさい人っすよ」
最近まで一緒に働いていた上司を“あの人”呼ばわりする尾藤を、
安由雷は理解できなかった。
尾藤はさっきから右足の貧乏ゆすりが止まらず、
腕時計を覗いたり、窓の外に視線を向けたりと、落ち着きがない。
安由雷は、静かに話題を戻した。
「――あの日、午後六時過ぎに、馬場さんに電話が来ましたよね。
覚えていますか?」
「ええ、六時四十分頃だったすよ」
「何か話している内容で、記憶に残っていることは?」
「そうっすねぇ……何度も言ったんですけど、
電話で、“七時か、分かった”って、あの人が言ってたっすよ」
「その他には?」
尾藤は下を向き、頭を掻きながら考えていた。
貧乏ゆすりは、まだ続いている。
「これも、前の刑事さんに言ったすけど……“奥さん”とか」
「奥さん?」
安由雷は、思わず身を乗り出した。
――それは、資料に載っていない言葉だった。
「あっ、そうそう。
……“着いた”とか、“来る”とか、そんなこと言ってたっす」
一瞬、室内の空気が変わった。
安由雷の頭の中で、閃光が走る。
悠真も、息を呑んだ。
「馬場さんは、たしか独身ですよね?」
「ええ、そうっす」
「その時の馬場さんの声や表情は?」
安由雷が視線を向けた。
「うーん、……分かんないっす」
その言葉に、室内の空気が一度だけ沈黙した。
事件の重さを知らぬ声と、知ってしまった者の沈黙が、そこにあった。
静寂。
換気扇の音だけが、低く続いていた。
やがて、安由雷は小さく息を吐いた。
「――ありがとうございました」
尾藤はきょとんとした顔で立ち上がり、
軽く頭を下げて、ドアを閉めた。
*
再び、室内に沈黙が戻る。
安由雷は、灰皿を見つめ、タバコを取り出した。
――チャ。
ライターを擦る音が、妙に大きく響いた。
白い煙が、ゆらりと立ち上がる。
蛍光灯の下で揺れるその線が、まるで思考そのもののようだった。
――“奥さんが着いた”。
それは、何を指すのか。
灰皿の上で、煙が細く折れ、ゆっくりと消えていく。
そのかすかな揺らぎの向こうで、安由雷のまつ毛が――静かに影を落とした。




