【新潟記念①】因縁の相手
更新が遅れてしまい大変申し訳ございません。
なかなか納得のいく展開が思い付かず、お待たせしてしまいました……
先日初めて新潟競馬場に足を運びました。ローカル巧者の丹内騎手を生で見られたのが嬉しかったです!!
2026年8月初頭、美浦トレセン・朝6時。
ダービー5着で春のクラシックを終えたクロノドラクロワは、放牧から戻り8月末の新潟記念(G3/芝左2000m)に向けて調整を始めていた。
初の古馬混合戦に加え、因縁のレース・新潟大賞典と全く同じコースを走ることになる。陣営の中には眉をひそめる者もいたが、かといって他にドラクロワが好走しそうなレースも無かった。
同時期開催の函館や札幌は右回りのため適性外。8月中旬の中京記念(G3/芝左1600m)を使う手もあったが、鞍上に柚木慎平を確保できなかった。既に別の馬主から騎乗依頼を受けていたのだ。
騎手用の青いヘルメットを被った柚木を背に、ドラクロワは美浦のCコース(芝)を駆けていた。オープンクラスの古馬を追走する形で入ると、雄大な馬格と長い脚を武器にじわじわと相手に迫る。ストライド走法の弱点で初速こそ遅いが、トップスピードに乗ったときの勢いは圧巻で、ラスト1ハロンできっちり抜き去ってみせた。
《いいぞ!!この調子なら本番でも十分やれそうだ。斤量も軽いし、ここは1発で決めて重賞取りに行こうぜ》
技術調教師の栗林誠が、スタンドから無線越しに声を飛ばす。明るくなった美浦の空をちらりと見上げると、柚木は相棒の長く逞しい首をポンと叩いた。
◆◆◆
朝10時。
美浦トレセンの厩務員食堂には、遅めの朝食をとる若手騎手や厩舎関係者がぽつぽつと座っている。テレビにはレース映像が流れ、厨房の中からは時折油のはねる音と、金属同士がぶつかる高い音が響いていた。
畳の小上がりスペースでひとり卵丼をかきこむ柚木の背中に、そろりと影が差す。振り返ると、ジジグが山盛りのカレーライスを盆に乗せて立っていた。
「柚木さん。この前の青葉賞、ちょっといい?」
「あ……ああ」
ジジグは座卓に盆を置くと、しきりに周りを見渡し記者がいないか何度も確認する。広大な草原で見張りをするマーモットのような、どこかコミカルな動きだった。
そのマーモット——ではなくモンゴル人騎手は、次の瞬間甲高い声でマシンガンのように捲し立てる。
「ねえ。何で小森賢雄とダグラスファイターに負けた?あの時もっとドラクロワの首を押し下げてれば良かったね。そうすればストライドが伸びて、追い付かれる前にゴールできてたでしょ。それがクビ差で差し返されて、何あれ」
馬が走るとき原動力になるのは後ろ脚だ。後ろ脚で地面を蹴って尻が上がる時、反対に首は下がる。ラストスパート——所謂"追う"時には騎手が手綱を繰り、より深く首を押し下げてやる。すると尻はより高く上がり、より滞空時間が増え、空を飛ぶような——大きなストライドに繋がる。
「あの時、ドラクロワがダグラスに並んだのが残り400m地点だった。そこからゴールまでは約50~60完歩。1完歩のストライドをたった2cm伸ばしてれば、100~120cm分早くゴールできる計算ね。そしたら、クビ差——80cmは十分覆せたはずね!!」
「馬は機械じゃないんだ、そんな正確に走ることを前提にした仮説はあてにならないだろ。じゃあ逆に聞くけど、ダービーでのお前の逃げはどうなんだ?向こう正面で息も入れずに飛ばして、府中の2400が持つと思ってたのか。杓子定規な考え方をするからペース配分を間違えて惨敗したんじゃないのか」
普段なら何もいわない柚木が珍しく言い返す。色白の肌に青筋が浮かぶとまではいかなかったが、耳はほんのり赤くなっていた。
だが目の前の異端児は全く怯まない。浅黒い肌に埋もれた好戦的な瞳がきらりと光る。決して屈しないのだ。
「いや、そんなことない。俺ならドラクロワを勝たせてたね。あんた、上手いけど根性無いよ。最後の追い比べとか、フォームはギリ保ってたけどちゃんと手綱握れてなかったもん。見てたよ」
柚木は黙る。確かに残り1ハロンを切って腕の感覚が無くなったのは事実だ。前半で全くスイッチを入れなかったドラクロワに発破をかけるために、向こう正面の時点で手綱をしごいていたのだから。馬の消耗も考え、勝ちきることよりダービーの権利取りを優先したのは否定できない。
「日本のジョッキーに足りないのはパワーと闘志ね。ドイツのA・ラミーもフランスのE・ロメールも、オーストラリアのH・バレットだってあんなへっぴり腰で馬追わない。小森賢雄とか若いのは海外のやり方を取り入れてるけど、何で他のやつはやらない?」
「身体構造が違うだろ。日本人と欧米人の骨格は別物なんだ。小森の弟は体型があっち寄りだから応用できてるけど、素質で負けてるなら技術でカバーするしかない。お前だってアジア人体型ならわかってるんじゃないか?」
今度はジジグが黙った。手足が長い欧米の騎手は、アジア人騎手と比べてより強く馬に力を伝えられる。小柄で手足も短いジジグが、時折つんのめるようにしてまで手綱を繰っているのを柚木は知っていた。
「……それでも、気持ちはあんたより俺の方が強いね。あんた、死に物狂いで勝とうと思ったことある?付きっきりでサポートしてくれる調教師がいて、負けても馬を用意してくれる牧場がいて。複勝・ワイドの魔術師だか知らないけど、単勝で支持されなきゃ永遠に"対抗"でしょ」
そう言うとジジグは皿に視線を落とし、無言でカレーを混ぜる。ルーが湯気を立てて、ごろりとした野菜のかけらが姿を覗かせた。
◆◆◆
それからしばらくは特に何事もなく過ぎた。しかし枠順が発表され、ドラクロワの隣の欄を見た途端に柚木の胸は再びざわつくことになる。別の馬の調教で栗東トレセンにいたこともあり、すぐに柚木はある場所へ車を走らせた。
久しぶりに会う親友の妻は、前にも増して堂々としていた。元々しっかりした性格だが、今やジョッキーの妻に特有の達観した空気をまとっている。2度にわたる夫の落馬、そして危険に身を置く人間との間に子を持ったことが、彼女を進化させたのだろうか。
「あっ、柚木さん!!遠いところからありがとう」
「いや、栗東に用があったんで。それよりすみません、急に面会したいなんて言って」
「いいのいいの。ほら、この通りうちの人は元気だし」
「おおーっ、慎平ちゃん!!わざわざ来てくれたんか……悪いなぁ、明後日レースやろ?」
親友の顔は相変わらずゆるかった。ストレッチを終えたのか、ベッドの上で軽く足を動かしている。
「リハビリ、ええ感じや。最初は復帰まで半年かかるって言われてたけど、早ければ秋開催に間に合うわ」
「大腿骨だったっけか」
「そそ、前やったところと同じ。綺麗に折れてくれてたから、もう1回ボルトで繋いだ」
「順調そうだな……安心した」
「でも完全やないからね、焦らへん焦らへん。……で? 用事ってなん?」
柚木はタブレットで仮出馬表の画面を開き、ドラクロワの隣の欄を軽く指し示す。それは牝馬マイスターの優一が乗っていた数少ない牡馬。そしてドラクロワの兄——未勝利で引退したクロノアトリエが、現役最後のレースで激しく競り合った相手でもあった。
「この馬——ザナバザールの鞍上だけどさ。何で直前でジジグに変わってんだよ。お前が怪我してからはずっと弟の賢雄が乗ってたろ」
「あー、それな。賢雄に先約があったんよ。で、先約の馬が抽選対象だったから、抽選漏れたらザナバザール乗りますってなってたん。2番手扱い」
「じゃあ、先約の馬が抽選を通ったのか」
「せやな。そんで賢雄が乗れんくなって、急遽鞍上を探してたら、ジジグが"その馬乗りたいねー!!"って」
無駄に再現度の高い物真似に、柚木の眉が僅かに歪んだ。それを察したのか優一は元のゆるふわ顔に戻る。
「慎平ちゃん。ザナバザールのこと気にしてる?」
「いや……何て言うか、嫌な方向に運が向いたなって。賢雄も賢雄だよ、兄貴のお手馬くらい優先すりゃいいのに」
「あいつの中でザナバザールは期待値が低いんよ。僕がギリギリで未勝利戦勝たせたはいいけど、その時無理させてもうたんや。そんで怪我して、1年半棒に振って。オープンクラスになったのも最近やし、それも1着馬が降着になって繰り上がったからや。何て言うか、誇れる昇級やない」
その"期待されていない馬"にアトリエは負けたのだ。ハナ差4cmで。あの4cmが無ければ、最後の追い比べで無理やりにでも馬の首を押し下げていれば、今でもターフを駆けていたのだろうか。先日ジジグから言われた"根性無し"という言葉がちくちくと刺してくる。
当時の自分の判断は否定したくない。より激しく追ってハナ差で勝った優一は、未勝利脱出と引き換えにザナバザールを壊した。対してアトリエは勝つことはなかったが、今は東京の黒木家でのんびり余生を過ごしている。
だがジジグにあんなことを言われた今では、我が身可愛さに"勝たせられなかった"という本質をねじ曲げている気がした。あのモンゴルの青年は、いつだって人の痛いところをピンポイントで突いてくるのだ。それはレースでも同様で、競馬ファンから"ヒットマン"と言われるのも納得できる。
因縁のレースと同じコースで、因縁の相手と走る。おまけに相手の背には、先日ひと悶着あった男が乗っている……
陣営が牧場のトラウマ打破に向けて意気込むなか、柚木だけが不吉なものを感じてそわそわしていた。
ザナバザール(Zanabazar)
2021年生 牡5 黒鹿毛
父:サンクチュアリ
母:ジェプツンタンパ
母父:ラムタラ
調教師:池波泰寿(栗東)
生産牧場:ノーザンファーム(安平町)
馬主:神田勝ホールディングス
勝負服:白、青駒形、青袖
戦績:26戦4勝(4-2-1-19)




