【エリカ賞②】替える?替えない?
2025年12月14日(日)。
その日は2歳馬にとって初のG1、阪神ジュベナイルフィリーズ(牝馬限定/阪神芝1600m・外)の開催日だった。
私——スターフィーユは、厩務員さんとパドックを歩きながら、時折お客さんの方に顔を向ける。耳に鉛筆を挟んだおじさんに、カメラを構えた若い女の人。奥の方には、小さな子を連れた家族もいた。
(さあ、今日は誰と目が合うかな?)
(私を買ってくれてる人、いるかな)
私たちウマは、目が横についているので視野がとっても広い。前を向いていても、左右や斜め後ろに何があるかわかる。
だけど全部同じように見えるわけではない。両目で見る正面がはっきりわかるのに対して、片目で見る左右の景色はかなりぼやけてしまう。だからちゃんとお客さんの顔を見たいときは、顔自体をそちらに向ける必要があるのだ。
1人目——鉛筆おじさん。最初に目が合った。
でもよくよく見ると、視線が私の目から首、脚、お腹、お尻——と、せわしなく動いている。それに私が前を通りすぎると、すぐに後ろの馬を見始めた。どうやらこの人は、まだ買う馬が決まっていないらしい。きっと私たちの体や歩様(歩き方)をじっくり眺めて、誰に賭けるか判断しているんだろう。
(んー。残念、違うかも)
2人目。おしゃれな格好で、一眼レフを首から下げている若い女の人。競馬女子——所謂"ウマ女"かな。
この人は、私が通りすぎてもずっと私を見てくれた。……レンズ越しにだけど。でも、ちゃんと馬が驚かないようフラッシュはオフにしてくれてるし、鞄にちっちゃな芦毛の馬のマスコットが付いている。芦毛好きなのかもしれない。
(あんまりお尻は撮らないでね)
(恥ずかしいから)
3人目。そのカメラのお姉さんの後ろから、ちょこんと頭を覗かせている男の子。真顔なのが気になるけど、くるんとした天然パーマと、二重の大きな目がとっても可愛い。おじいちゃんに抱き上げられて、ライ◯ンキングのシンバみたいな格好でパドックを眺めている。
「ふふ、こうちゃん。見える?おうまさん」
お母さんらしき女の人が、その子に話しかけた。
普通の子供なら、ここで「うまー!」とか、「きゃー♡」とか、年相応の反応をするだろう。
しかしその子は、『うむ。いい眺めだ』とでも言いそうな顔ですましていた。そして私をガン見してくる。幼児とは思えない謎の貫禄で、これでもかと熱い視線を送ってきた。
(すごい見てくる……)
(え、目からビーム出してる?)
(怖い怖い怖い)
1歳の子供に見られているだけなのに、何故かすごく緊張してきた。ついチャカついて(歩みが速くなるなど、落ち着かない様子を指す)しまい、厩務員の人がそっと首を撫でてくれる。
でも、もっとドキドキしたのは次の瞬間だった。その子の左にいたサラリーマンらしき二人組が、急にこっちを指差したからだ。
「あっ!!あいつだわ、"強烈ドリフト野郎"と同じ馬主。クロノレーシングの馬」
(えっ!?)
(強烈ドリフト野郎……)
その言葉のインパクトに興味を引かれたのか、周囲のお客さんが一斉に私を見た。いつもちらちらお客さんを見ているくせに、こういう時は妙に恥ずかしい。
おまけに、"強烈ドリフト野郎"が誰のことなのかも一瞬でわかってしまった。
私と同じクロノレーシング所有の馬は、沢山いる。だけど、そんな極端な走り方をするのは1頭しかいないではないか。あの馬に決まっている。
『"お兄ちゃん"……!!!』
◆◆◆
遡ること1日前、12月13日(土)。
東京に住む"もうひとつの黒木家"の次男・黒木岳は、リビングのこたつに大きな体を押し込み、みかん片手にじっとテレビ画面を睨んでいた。
《……続きましては、阪神競馬場第9レース・2歳1勝クラス、エリカ賞。芝内回り2000m、コンディションは不良。今年は少頭数の8頭で争われます》
《①、ベーターリッチ。+12キロ、単勝34.9倍》
《馬体重増ですが、特に腹周りが太いとは感じられません。成長分と見て良いでしょう》
《②、マンハッタントーイ。+2キロ、単勝4.4倍》
《前走の未勝利戦では、折り合いを欠きつつも能力差で押しきりました。今日もテンションの高さが気になるところです》
《③、ビスコンティ。+6キロ、単勝16.2倍》
《中京2歳ステークス7着から3ヶ月の休養。叩き1戦目で仕上がりはまずまずでしょう》
《④、クロノドラクロワ。+6キロ、単勝55.6倍》
《初の右回りコースとなります。パワーとスタミナに定評のある血統なので、今日の不良馬場は追い風になるかもしれません》
《⑤、ロイヒトトゥルム……》
「…………」
「岳!」
「何?」
振り向くと、三つ子の末っ子・三男の律が立っていた。お煎餅とジュースを持って、にっと笑っている。
「俺もこたつ入れてよ」
「別にいいけど」
「今日のレース、あの子出るの?ドラクロワ」
「出る。今パドック歩いてる」
画面の中には、やる気マンマンで堂々と歩くドラクロワの姿。踏み込みが良く、絶好調に見える。
「この前のレースは負けちゃったんだっけ?俺と穣は予定があって行けなかったけど……岳は父さんと見に行ったんでしょ」
律はお煎餅を手刀で割ると、コップに三ツ矢サイダーを注いだ。
「負けたよ。まあ……そんなに人気してなかったからしょうがない。勝ち負けよりレースを現地で見たかったって部分もあったから」
岳は寝転びながら、壁に飾られた2枚の写真を眺めた。兄・クロノアトリエと、弟・クロノドラクロワ。どちらも父の博が撮ってくれたものだ。
「今日は?上から数えて何番目」
「…………6番目」
「うん?全部で何頭出てるの?」
「…………8頭」
「…………」
「…………」
律はそれ以上聞かず、バリバリとお煎餅を食べ始めた。リビングに、気まずい空気が流れる。
◆◆◆
阪神競馬場。エリカ賞発走時刻の15分前、13時50分。
パドック裏で、柚木慎平は究極の選択を迫られていた。
(手前を替えさせるか……)
(それとも、替えさせないか……)
初の右回りコースに向けて、ここ数週間でとにかくスムーズにコーナリングができるよう調教を詰んできた。
……が、これが絶望的なまでに上手くいかない。何度柚木が促しても、頑なにドラクロワは手前を替えようとせず、コーナーで盛大にドリフトを繰り返すのである。
左回りが得意なドラクロワの走り方では、右回りのコースを走ったときに様々な問題が起こる。特にコーナーを曲がる時に重心が外側に動き、大きく外に膨れてロスが生まれてしまうのだ。
それを防ぐために、コーナーを曲がる際に脚を出す順番を入れ替え、重心を内側に移動させる必要がある。所謂"手前を替える"というものだが、これがドラクロワは一向にできない。
こういった馬に対して、騎手が手綱を操作したり体重移動を行ったりすることで馬の動きを制限し、無理やり手前を替えさせることも理論上はできる。しかしその分馬にストレスを与えてしまうため、必ずしも手前を替えることが最適とは言えないのである。
恐らくドラクロワも、無理やり手前を替えさせるよりは、手前を替えずに走った方が余裕を持って走るだろう。コーナーで外に膨れる以上、他の馬より余計に走ることは覚悟しなくてはならないが、スタミナと根性でカバーできる可能性もある。何より今までの経験からして、ドラクロワが一番体力を消耗するのは怒ったときだということを、柚木は薄々感じていた。
(脳はめちゃくちゃエネルギーを消費するらしい)
(機嫌を悪くして無駄に体力を使われるなら、100m余計に走った方がマシかもしれない……)
(いや、でもそれじゃ右回りを克服しようっていう今回の目的が……)
柚木はちらりとモニターを見る。
《5回阪神3日 天候/曇 芝/不良 ダート/重》
今日の馬場は不良(コースの水分含有量が最も多い状態。表面に水溜まりができ、ぬかるんでいる)で、内側などは芝が所々はげていた。となると、馬群そのものが内を嫌って外寄りに動くだろう。多少外に膨れても、他の馬とそこまで差がつかない可能性がある。
「…………」
柚木の中で、作戦は1つに絞られた。今後の成長を考えると、あまりよろしくない判断ではあったが……
◆◆◆
13時5分。ファンファーレとともに、8頭の若駒がゲート前で輪になって回る。
クロノドラクロワは、これ以上無いほど集中していた。前をチャカつきながら歩く馬の尻も、調教で散々古馬の尻を見てきた今では全く気にならない。
先日、厩舎で聴いたマイルチャンピオンシップ(G1)のラジオ中継。4コーナーを過ぎて、先頭を行く1番人気の馬に最後までしつこく食い下がった馬——15番人気、単勝130倍のスーパースナップ。その大激走は、ドラクロワの心に再び火をつけた。
(枯れかけてたスナップがあれだけやったんだ)
(俺だってこれからいくらでも強くなれるはず)
奇数番号の馬が先にゲートに入る。その様子を見ながら、ドラクロワは軽く脚を動かした。
(……??)
(何か地面が濡れてんな)
(ぬちゃぬちゃして気持ち悪ぃ)
だが、すぐに切り替えてゲートに体を滑り込ませる。
《さあ。各馬、ゲートインを終え……スタートしました!!》
◆◆◆
飛び出した瞬間、ドラクロワの目の前に広がったのは——所々濁った水溜まりが浮き、蹄に蹴りあげられて荒れに荒れたターフだった。
(げ!!)
(何だよこれ)
しかし勢い良くゲートを出てしまった以上、止まるわけにもいかない。とりあえずドラクロワは、1コーナーを目指して走り始めた。
すると、他馬が次々と外に進路を取り始める。よく見ると、外側の方は水溜まりこそあるものの、内側ほど馬場が荒れていなかった。
(そ、そうか)
(みんな走りやすい方に行ってるんだな……)
(俺も外側に出た方がいいのかな?)
《本日の馬場状態は先週からの雨で絶不良の状態。内ラチ沿いは何と芝がめくれあがっています。各馬外に進路を取りますが——④クロノドラクロワ!!ただ1頭、内側を攻めています。鞍上は複勝・ワイドの魔術師、柚木慎平ですが——これは一体どういう意図でしょうか!?》
(おい!!みんな外に行ってるぞ!?)
(何かお客さんもざわついてるぞ)
(俺たちも行った方がいいんじゃねぇのかよ)
ドラクロワは焦るあまり、つい外に持ち出そうとした。ところが柚木は、すぐドラクロワの左肩に鞭を入れ、内に残るよう指示してくる。
「まだだ!!ドラクロワ、お前はまだ内にいろ」
(はああああ!?何でだよ。内にいるの俺たちだけだぞ。ポツン状態だぞ!!)
「もう少し走ればわかる!!」
(いやだから何をわかるんだっつーの!!)
1コーナーから2コーナーを曲がるときにも、とにかく柚木は内へ内へと走るよう促した。あまりのしつこさに辟易したドラクロワは、何とか外への膨らみを抑えて向こう正面に入る。
《④クロノドラクロワ、向こう正面に差し掛かりましたが……まだ!!まだ外に出しません!!田んぼを跳ねるカエルのように、荒れた馬場を力強いストライドで駆けています——場内ざわめき!!》
(ああ——もう!)
(お前がそんなに言うなら外には出さねぇよ!!)
(その代わり何があっても知らねぇぞ——)
ドラクロワは抵抗をぴたりと止め、ひたすら馬場を蹴りあげた。その瞬間、ドラクロワの広い視界から他馬は消え、自分と柚木の息遣いしか聞こえなくなる。
《あっと④クロノドラクロワ、ここで一段ギアが上がったか!!内側から一気に捲りをかけていきました——現在3番手!!3番手で3コーナーに差し掛かります》
(あれ?)
(いつの間にか前にいねーか?)
その時。
「いいぞドラクロワ。もう外に出ていい!!」
今まで内側主義者だった柚木が、いきなり真逆のことを言ってきた。
(は?)
(は???)
頭は真っ白——
だが、脚は我慢を忘れ、自然と外に膨らみ始める。重心は外側に移動し、みるみるうちに内ラチから体が遠ざかる。
《さあ、3コーナーから4コーナーへカーブ……》
《ん?》
《あ……》
《あぁーーーーっと!!!④クロノドラクロワ!!ここで大きく、大きく外に膨れたーー!!!》
《こ、これはひどい!!!最内から……一気に大外へ!!場内声も出ない!!強烈なドリフト!!》
『だぁぁぁぁあああ!!!!』
(ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい)




