星の娘
2023年4月。
春の牧場は、静かな緊張に包まれていた。
この年、姉妹である二頭の繁殖牝馬が、ほぼ同時期に出産を控えていたからだ。
姉の名前はクロノマキアート。デビュー前に屈腱炎を発症し、レースに出ることなく牧場に帰った。
妹はクロノシネマという。現役時代は三勝をあげるもオープンクラスにあと1歩届かず、条件クラスで引退し繁殖入り。
お互い母になっても放牧地で並んで草を食む、仲良し姉妹。
なのだが、問題がひとつ……
「だから、何度も言ってるじゃないですか……」
黒木牧場の事務室では、一人の青年が苛立ちを隠しきれない様子で帽子のつばをいじっていた。
机には付箋が沢山貼られたスタッドブックと、血統について記された書類の束。何度も読み返したのか、所々シワや折り目が付いており、ホッチキスの針は取れかけている。
「クロノマキアートの用途変更を検討させてください」
青年はまっすぐな目で相手の方を見た。その相手——青年の父親、牧場長の黒木渉は、息子のしつこさに辟易しながらもちらりと書類の方に目を向ける。
「僕なりに彼女のことを考えた結果です」
その青年——黒木徹はそう言うと、1つ目の書類をすっと前に押し出す。
「別に僕は、彼女を厄介払いしたいわけじゃないんですよ?ただ、少なくとも現状より上手く……使うというか、もっと向いていることをさせたいんです」
表紙をめくる。それは、繁殖入りしてからのマキアートの産駒成績だった。
「2014年。4歳で繁殖入りしてから、今年で10年目です。
さて、無事に生まれた仔はいったい何頭でしょう」
「…………」
「3頭!!!」
徹は書類を放り投げた。床に散らばった紙には"不受胎"の文字、文字、文字——
「不受胎3回に死産が1回、それに流産が1回。無事に生まれたのは2016年生まれと2019年生まれ、あと2021年の2歳馬だけですよ」
「あ、あぁ……」
渉はきまりが悪そうに立ち上がると、乱雑に書類をかき集める。
「それに――」
徹は止まらない。
「2016年生まれは未勝利で引退、2019年生まれは地方競馬に移籍して、この前やっと1勝したじゃないですか。これ、はっきり言ってかなりひどいですよね」
「…………」
渉は何も言い返さなかった。皺が増えた手の中で、紙がくしゃりと音を立てる。
「マキアートは、繁殖牝馬に向いていないんです」
徹はそう言いきり、今度は2つ目の書類をちらつかせた。クロノシネマの繁殖成績。
「一番仔、クロノメリエス——12戦2勝」
「二番仔、クロノサニー——15戦2勝」
「三番仔、クロノセピア——18戦3勝」
「どうです?姉妹でも、ここまで違うんですよ」
「……あぁ」渉はぐうの音も出ず、ただただ息子の話を聞いていた。
「マキアートに使っていた種付け料を、もっとシネマに回しましょう」
徹はそう言いながら、付箋を付けたページを父親に見せる。
「今までは血統とクロス重視でディープブリランテを付けてきましたけど――」
ページをめくる。
「同じディープ系なら、キズナやコントレイルに切り替えるべきです。うちの牧場にとっては高い。でも、シネマならきっと元を取ってくれる。……何しろもう、結果を出しているんですから」
「だからって……」渉が口を開きかける。
「マキアートを繁殖から外すのは……」
その言葉を遮るように、徹は一歩踏み出し声を張り上げた。
「繁殖牝馬だけが、マキアートの役割ではないでしょう!」
事務室の空気がピシッと張りつめる。冷たいガラスのコップに急にお湯を注いだように、崩壊の兆しが見えた。
「……リードホースをやらせましょう」
徹は窓を開け、気分を落ち着かせるために空気を吸った。春風が事務室に流れ込む。ピリついたこの場には場違いなほど柔らかく、暖かかった。
「マキアートはもう13歳です。今さらセリに出したって大した値は付きません。血統がいいわけでもない。そもそも、全然仔馬を産まない牝馬を欲しがる人なんてまずいないでしょうし」
徹の言葉は冷たいが、実際何も間違っていなかった。
「でも――性格は穏やかで優しい。面倒見もいいですし、落ち着いています」
徹は、静かに言った。
「産めないなら、育てればいい。それも、立派な仕事です」
渉は、深く息を吐いた。吐き出した息は長く、重い。
「マキアートも、シネマも……うちの牧場生え抜きの牝系なんだ」
窓の外に広がる放牧地を、渉はしばらく見つめていた。
「あと数年で開業50年目だぞ。何世代も、何世代も……ここで生まれて、走って、血を繋いできた。
そういう"自家製の牝系"なんだ」
言葉の端々に、誇りと執着が混じる。
「だからこそだ。繁殖牝馬として、血を繋ぎたい。
それが牧場の役目だろう」
徹は、父の言葉をすぐには否定しなかった。一度だけ小さく頷き、それから静かに言った。
「……その気持ちは、わかります」
渉の方をまっすぐ見据える。
「もし、マキアートしかいなかったら。僕も、こんなことは言いませんでした」
間を置いて、続ける。
「でも――妹が。シネマがいます」
徹の声は落ち着いていたが、芯があった。
「シネマの子供たちは、結果を出しています。いずれ引退して、牧場に戻ってきて……また、次の世代にバトンを渡してくれる」
机の上のスタッドブックに、そっと手を置く。
「血は、もう繋がっています。だったら……」
徹は、言葉を選ぶように一拍置いた。
「マキアートに、同じ役目を無理に背負わせる必要はないんじゃないですか」
渉は、何も言わなかった。否定もしない。肯定もしない。ただ、ゆっくりと目を伏せる。
その沈黙が――
すでに、答えに近いものだった。
渉は結局、その場では結論を出さなかった。
だが――数日後、牧場長としての判断を下した。
「今年、マキアートが受胎しているシビルウォーの仔が無事に生まれたら……その時は、本格的に用途変更を考えよう」
徹は、それで十分だった。条件付きではあったが、父が一歩踏み込んだのは確かだったからだ。
同時に渉は、もう一つの決断も受け入れた。
クロノシネマに、これまでよりも高額な――より"今の時代に合った"人気種牡馬を配合すること。
牧場は、静かに運命の時を迎えた。
そして、4月27日。黒木牧場では、偶然とは思えないほどの巡り合わせが起きていた。
クロノマキアートとクロノシネマ。姉妹である二頭が、隣同士の馬房で、ほぼ同時に産気づいたのだ。
厩舎の空気が張りつめる。スタッフが慌ただしく行き交い、声が飛ぶ。
先に生まれたのは、クロノマキアートの仔だった。
父シビルウォーの、大きく、しっかりとした――青鹿毛の牡馬。
力強く長い脚をばたつかせる仔馬を見て、渉は思わず胸をなで下ろした。
だが、その安心は長く続かなかった。
隣の馬房。クロノシネマの出産が、想定よりも長引いていた。ディープブリランテを父に持つ芦毛の牝馬は、難産の末に何とかこの世に姿を現した。
その直後だった。シネマが大きく体を震わせ、崩れるように横倒しになった。
子宮動脈破裂による、出血性ショック。獣医が駆け寄り、必死の処置が施されたが――
クロノシネマは、仔馬を残したまま、静かに息を引き取った。
今年も姉妹で草を食み、
今年も姉妹で母になり、
そして――片方だけが、より期待されていた方が、
"来年"へ駒を進められなかった。
その日の黒木牧場には、二頭の仔馬と、一つの取り返しのつかない空白が残った。
やがてその芦毛の仔馬は、伯母クロノマキアートに懐き、同じ日に生まれた従兄と"双子"になり、放牧では何度も並んで大地を駆けた。
2年後。"双子"は順調に成長し、同じ栗林厩舎に入厩することが決まる。そして"兄"——「クロノマキアートの2023」には、黒木家の三つ子によって「クロノドラクロワ」という名が付いた。
一方で、"妹"——「クロノシネマの2023」には名前がまだ無かった。
そんな折、かつてシネマの主戦を務め、墓参りに牧場を訪れた柚木慎平が、彼女を見てこう呟いたのである。
「額に星があるな。死んだ母さんにそっくりだ」
その頃「クロノシネマの2023」はまだ毛色が濃い状態で、亡き母クロノシネマ譲りの丸い星がはっきりと判別できた。
柚木の言葉を耳にした陣営は、そこから「星になった母に届く走りをするように」「ターフの一番星になるように」という願いをこめ、「星の娘」という意味の名を彼女に与えた。
その名は——
スターフィーユ(Star fille)。




