【東京編⑩】僕は馬に乗りたい
黒木岳は、地上2メートル近い高さから、馬の背に揺られていた。目の前で、クロノアトリエの耳がぴこぴこと動いている。
(高い)
(あったかい)
最初に頭に浮かんだのは、あまりにも素朴な感想だった。
保育園の頃、動物園でポニーに乗ったことがある。
けれど――サラブレッドは、体格もパワーも比べものにならない。
一歩、また一歩。
常歩のリズムに合わせて、腰に"ほわん、ほわん"と馬の動きがはっきり伝わってくる。より生き物に乗っている感覚が強い。落馬しないよう、岳は無意識に手綱を強く握りしめた。
(柚木さんは……)
(こんな凄い生き物に乗ってたのか)
しかも――
(走ってる状態で?)
レース中のサラブレッドは、時速60キロ以上で走る。
(車並みだ)
(そんな生き物に、手綱と鐙だけで乗って)
(制御して……勝つことまで考えてた)
畏敬の念を抱かずにはいられない。自分など、常歩ですらまだおっかなびっくりだ。もしアトリエが本気で走り出せば、きっと一瞬で背から転げ落ちるだろう。そうなれば、ただでは済まない。
「…………」
「どうした? 岳くん。怖い?」
黙り込んだ岳を気遣ったのか、下から誠の声が飛んでくる。
「あ、いや……大丈夫です。ちょっと、いろいろ考えてました」
「そうか? ならいいけど……」
岳は一度アトリエの首筋に視線を落とし、そして言った。
「あの……」
「ん?」
「僕、もっと乗馬を上手くなりたいです」
それを聞いて、誠の眉がわずかに上がる。
「今、初めて乗って……怖さもあるけど、前よりもアトリエと繋がれてる感じがします」
「おぉ」
「それに、アトリエがうちに来てから僕の世界は明らかに広がっていると思うんです。もっとこの子と頑張りたくて、だから……練習、したいです」
その一言で、誠の胸の奥が強く揺れた。
『俺は馬に乗りたい』
25年ほど前に親友が口にした言葉が、鮮やかによみがえる。
――2001年。中学1年の夏。
当時既に背が伸び、騎手の夢を諦めかけていた栗林誠は、偶然同じクラスだった柚木慎平の才能を見抜き、彼を馬の世界に引き込んだ。
夏休みの間、午前中は乗馬を教え、午後はファミレスで知識を叩き込む。夜になるとお泊まり会と称して自宅に上げては、古びたVHSを教材にレースの研究をした。
周囲からは少なからず反対された。特に元騎手である父・栗林康成は、"てめえの未練に人様の子を巻き込むんじゃねぇ"と、真っ向から現実を突きつけてきた。
正直言うと、そこを突かれては誠も何も言えなかった。"自分の夢を背負わせている"という後ろめたさは、確かにあった。
それでも誠は止まらなかった。何としても柚木の才能を開花させるために、持てるものは全て親友に叩き込んだ。
ところがある日、乗馬クラブでの練習中に、馬が興奮して突然立ち上がった。柚木の小さな体は地上2メートルから投げ出され、宙に舞う。
誠は反射的に体を投げ出し、落ちてきた柚木を受け止めた。そのため大事には至らなかったが――
その夜、誠は康成にこっぴどく叱られ、柚木の家まで連れていかれて土下座させられた。
"もう彼を競馬の道に引き込まない"そう約束させられかけた、そのとき。
柚木の父で茶道家の柚木重成が口を開いた。
「栗林さん。うちは代々続く茶道の家です。正直、競馬のことなど何も知りません。
人が命を懸ける世界だということすら、最近まで意識したこともなかった」
静かな声だった。だが、重みがあった。
「……けれど、誠くんは真剣でした。夢を語るその姿には、強い信念と誠意を感じました。
息子の慎平も、誠くんと出会ってから少しずつ変わっていった。今までどこか淡々としていて、目標や欲を表に出さない子でしたが……最近は、違う。家族の目にも見えるほどに、毎日に色が付いたんです」
康成の目の色が変わり、場の空気が静まり返る。
続けて、柚木の母も口を開いた。
「私は……少し怖かった。息子が大怪我をしそうになるのを見て、心臓が止まりそう だった。
でも、息子は誠くんが来るのを、ずっと待ってたみたいに思えたんです。だから……誠くん、あなたが責任を持ってくれるなら……私も、応援したい」
さらには柚木本人までこう言い出す。
「……俺はこれからも、馬に乗りたいです。
正直……最初はよくわからなかったです。でも……誠があんなに本気で信じてくれて……俺には、才能があるって。俺が気づいてないだけだって……
そんなふうに言ってくれる人、初めてでした。だから、やってみたいです。俺に新しい世界を見せてくれたのは、誠だと思います」
――記憶が、ふっと途切れる。
「…………」
「栗林さん?」
岳の怪訝そうな声で、誠は我に返った。
「あ……いや、ごめん。いろいろ考えてた」
「ええ? 何ですか、それ。さっきの僕と同じ状態……ふふっ」
岳が珍しく声を出して笑う。誠もつられて、少しだけ口元を緩めた。
「乗馬を上手くなりたいんだっけか」
「はい。もっとアトリエに乗りたいです。……アトリエが認めてくれてるかは、まだわかんないですけど。僕はこの子を信じて乗るだけです」
「少なくとも、"何だコイツ"とは思ってないよ」
誠はきっぱりと言った。
「もっと仲良くなれるさ」
そう付け足すと、手綱を引き、アトリエをゆっくり馬房の方へ誘導した。
「とりあえず今日はここまでにしようぜ。君もアトリエも――休む時間だ」




