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愛されホース




誠は一通りレクチャーを終えると、ひらりとアトリエの背から降りた。岳へ目配せし、静かに場所を譲る。


「最初は補助するよ。君の背丈ならそのまま乗れそうだけど、何かあったら怖いからね。

ジャンプしたら俺が足を持ち上げる。その勢いでアトリエに跨がって」


岳は小さく頷き、アトリエの左側に立った。普段は落ち着いている彼でも、さすがに緊張しているのか、動きがどこかぎこちない。


そのわずかな変化を、見逃さなかった男がいる。

柚木(ゆのき)慎平は静かに歩み寄った。


「怖い?」


問いは短い。だが逃げ道のない優しさがあった。

岳は一瞬迷った素振りを見せたが、正直に答えた。

「はい……少し。初めてのことに挑戦するのも怖いし、アトリエに認めてもらえるかわからないのも怖いです。何か……変な感じですね」


柚木は小さく頷いた。否定も慰めもせず、その気持ちをそのまま受け止める。


「そうか」

それから、真っ直ぐ岳の目を見た。

「そういう時はな、馬の目を見るんだ」


岳がはっと顔を上げる。

柚木は続けた。


「それから、胸を張って堂々とする。

君が不安だと――きっとアトリエも同じ気持ちになる」

視線の先には、静かに立つアトリエ。


「この子は、そういうことを自然に感じ取っちゃう優しい子だから」

柚木の言葉に続き、誠も少しだけ軽い調子で言った。

「そうそう。人間だって、おどおどしてるやつより、自信満々なやつの方が説得力あるだろ?馬も同じだよ。むしろ動物は、より直感的に相手を判断するぜ」


目をぱちくりさせる岳を見て、誠はにやっと笑った。

「君がアトリエを信じてるって、態度で示せばいいのさ。言葉はいらない。堂々としてろ」


岳は、ゆっくりと息を吸った。そして――アトリエの目を見る。

黒くて大きな瞳が、まっすぐこちらを見返していた。そこには疑いも、拒絶もない。ただ、「次は何するの?」という素直な光だけがある。


岳は小さく頷いた。

「……はい。やってみます」

その声はまだ少し震えていたが、もう逃げる声ではなかった。

一歩、アトリエに近づく。その背中はさっきより、ほんの少しだけ大きく見えた。




岳は一度、深く息を吸った。

「――いきます」

短く誠に声をかけ、右足で地面を蹴る。

誠が即座に反応し、左足をぐっと持ち上げた。その反動を使って、岳は体を浮かせる。


右足が大きく弧を描き――

アトリエの背を越えて、静かに鞍へと収まった。


「よし。手綱は離さないで。背筋、伸ばしてみて」

アトリエが急に動き出さないよう、誠は馬の正面に立ったまま声をかける。

岳は慎重に手綱を握り直し、鞍の上でもぞもぞと腰を動かし重心を探った。ゆっくりと前を見据えて背筋を伸ばす。


――安定した。


アトリエはというと、振り落とそうとする素振りもなく、じっと立っている。わずかに耳を動かし、不思議そうにはしているが、新しい相棒を拒む気配はない。


「オッケー。怖いとか、ヤバいと思ったらすぐ言ってね」

「大丈夫です。……ちょっと高いけど、いけます」


誠は小さく頷き、もう一方の手綱を軽く引いた。

「じゃ、行こうか。――常歩(なみあし)な。

軽くお腹を足で圧迫してみて。蹴らないで、優しくね」


岳は恐る恐る、そっと足に力をこめた。温かさと柔らかさが伝わってくる。生き物に乗っているという感覚がダイレクトに伝わり、緊張からかまた少し背筋を伸ばした。

合図に応じて、アトリエがすっと歩き出す。


カッポ、カッポ――


驚くほど滑らかな常歩だった。

機嫌がいいのか、軽く首を振りながら、中庭をゆったりと回り始める。その様子を見て、渉と柚木が目を合わせ――同時に頷いた。


「見たか、慎平。やっぱりだな」

「はい。……もう完全に、パドックのつもりですね」


柚木は静かに続ける。

「僕らを"お客さん"に見立ててるんだと思います」


渉が苦笑する。

「現役の頃からパドック好きだったからなぁ。レース前だってのに、毎回愛嬌振り撒いてたよ。沢山写真も撮ってもらって……走るより、人が好きなんだろうな、あいつ」


その言葉に、穣が首をかしげた。

「あの。馬って……自分がこれから走るとか、見られてるとか、わかるものなんですか?」


柚木が少し考えてから答える。

「そうだな。全部じゃないけど……ある程度は、わかってると思う」

「ある程度?」

渉が小声でそっと穣に教えてやる。

「馬は頭がいいし、周りの空気を読むんだよ。レース前にちゃかちゃかしてイレ込む馬、いるだろ? あれは雰囲気で"何か始まる"って察してる」


「あ……なるほど」穣は小さく頷き、少し頭を下げた。

「馬にも意思があるってことか。ただ訳もわからず走ってるわけじゃないんですね。……何か、ごめんなさい」

「いやいや。謝るなって」


やや固まった空気をやわらげるように、柚木が付け加える。

「……アトリエの馬券、よく売れてましたよね」

「ああ、売れたな」

渉が懐かしそうに笑う。

視線の先では、アトリエが得意げに首を揺らしていた。首を小気味良く動かし、踏み込みが良い。現役の時より太めな印象はあるが、毛づやも良く、人懐っこい仕草も相まっていかにも"買いたくなる"馬だ。


「愛嬌あるし、現役中は1度も掲示板を外さなかったからな。ヒモにするには、ちょうどいい馬だった」


ほんの一拍、間。


「……勝たせてやれなかったのは、申し訳ないけど」


それでも――


「愛される馬だったよ、あいつは」

その言葉にためらいは全く無い。中庭を回る蹄の音だけが、静かに響いていた。

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