【東京編⑥】乗り替わり
誠は愛馬を前にして固まってしまった親友に、思わず声をかけた。
「おい。……慎平、どうすんだよ。アトリエはお前が乗るのを待ってるぞ。こいつはまだ、お前と走る気でいるんだよ」
だが柚木は、動かない。いや、動けない。
今自分が乗れば、アトリエは完全に"また一緒に走れる"と思い込むだろう。せっかく良い人たちに出会えて穏やかな余生を送っていたのに、そんな期待をさせてはダメだ。
やっぱり、会うべきではなかったのかもしれない。
「む、無理……」
やっと喉から絞り出したのは、蚊の鳴くような情けない声だった。
「乗らないのか?なら、アトリエに自分の気持ちを伝えろ。お前が言わなきゃ、アトリエはずっと待ち続けるぞ。今日だけじゃない。明日も明後日もずっとだ」
誠の声は決して厳しくなかったが、同時に逃げ場を与えないものだった。これだけは代わってやれない。誠は騎手ではないから。アトリエの背中を知っているのは、柚木しかいないのだ。
柚木は観念したように深呼吸をすると、アトリエの太い首をそっとなで、吐き出すように語りかけた。
1年前と変わらず、手にぽかぽかとした体温が伝わる。ターフを駆けていたあの頃から、アトリエはずっと変わらない。
「アトリエ……元気そうで、ほんとに安心したよ。勝たせてあげられなくて、ごめん」
その事実は変わらない。だが、言わずにはいられなかった。
「俺は、もうお前には乗れない。一緒にレースには出られないんだ。お前は、ずっとここでのんびり"放牧"するんだよ」
その言葉の意味がわからないのか、アトリエは首をひねってみせた。そして動かない。
相変わらず"で、乗らないの?"の一点張りだ。こういう子供っぽくて自分の気持ちに素直なところは、半弟ドラクロワと共通しているらしい。
誠も困ったように声をかける。
「なあ、アトリエ。慎平はさ、もうお前に乗れないんだよ。乗りたくないわけじゃないぞ?ただ、何と言うか……規則の関係で、もう一緒に走れないんだよ。
わかってくれよ、ほら。久しぶりに遊ぼうぜ。お前の好きなリンゴもあるぞ」
アトリエは首をぶんぶんと上下に振った。
"そんなの知りませーん、聞いてませーん"とでも聞こえてきそうだった。
「いやぁ……参ったな。どうやらアトリエは納得してないみたいだぞ。背中に何か乗せないと動きたくないってさ。お前ら——どうするよ」
渉は柚木と誠を見て苦笑する。
その時、三人の中からすっと手が上がった。
「じゃあ、僕が乗ります」
次男の岳だった。
「え、岳くんが?」
誠は思わず聞き返した。
岳は迷いなく頷く。
「はい。僕が乗ります」
だが、その横で穣が困ったように口を開いた。
「いや、でも……アトリエは、柚木さんに乗ってほしいんじゃないのか?」
律も続く。
「そうだよ岳。さすがに違う人が乗ったら、アトリエだってわかるでしょ」
それもそうだ、と岳は少しのあいだ考える。それから静かに問いかけた。
「一つ、聞いてもいいですか」
視線の先には、誠と渉、柚木。
「アトリエが今後レースに出る可能性はあるんですか?
もし出られるなら……柚木さんが、また乗ることはできますか」
誠は短く息を吐いた。
「そうだな……それは"絶対に無理"ではないけど、限りなくゼロに近い」
少し間を置き、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「アトリエの名前は、一応まだ現役として登録されているんだ。失踪してから今までは"放牧中"にしてたから。再会できてないのに勝手に引退させるのは、どうにも気が引けてね」
そこで言葉を区切り、重く続ける。
「でも、現状のアトリエの成績は4歳で未勝利だ。そうなるとJRAの平地競走には出られない。出走条件を満たすレースが、もう無いんだよ」
黒木家の人間たちは、何も言わなかった。ぐっと感情を抑えて聞いている。
誠は続けた。
「障害競走なら出られる。だけど——慎平は平地の騎手免許しか持ってない。つまり、アトリエに乗れない」
渉が隣から静かに補足する。
「地方競馬に移籍する手もあるが、それも同じだ。アトリエが走れても、柚木はJRA所属。交流戦でもなきゃ、地方では乗らない」
淡々とした声だが、その奥には迷いがあった。
「それに、酷なことを言うようだが——柚木はアトリエだけの騎手じゃない。他の馬だって、こいつを待ってる。弟のドラクロワだってそうだ」
柚木は、最後に小さく漏らした。
「……アトリエもまだ現役とはいえ、1年もブランクがある。筋肉も落ちてるし、復帰するならまた調教しなきゃいけない。……今の幸せそうな生活を壊してまで、淡い期待に賭けるのは、違うと思う」
馬房に、しんと静寂が落ちた。
岳は、静かに頷いた。
「わかりました」
そして——迷いのない目で言った。
「なら、なおさら"乗り替わり"が必要でしょう」
皆の視線が一斉に岳へ注がれる。
「柚木さんは、もうアトリエの背中に帰ることはできない。でも——誰かがその背に乗らないと、きっとこの子は納得しません」
アトリエは、柚木の右側でじっと立ったまま、こちらを見ている。
「アトリエは、一人じゃなくて……誰かと一緒に頑張りたいんだと思います。走るにしても、そうじゃないにしても」
岳はそっと息を吸い、結論を告げた。
「だから――僕を、アトリエに乗らせてください。僕もアトリエと一緒に何かしたいんです」
その声は決して大きくなかったが、誰よりも真っ直ぐだった。




