【東京編⑤】ホースマンの責任
文の言葉を聞き、柚木慎平はしばらく黙っていた。やがて静かに、言葉を探すように口を開く。
「名前ひとつ取っても――馬の一頭一頭には、本当に沢山の思いが込められています」
その言葉に迷いはない。
「馬は、人の手がなければ生きていけません。牧場のスタッフ、馬主、厩務員、調教助手、調教師……そして最後に、僕たち騎手。
沢山の人たちがバトンを繋いで繋いで――やっと、ターフと言う晴れ舞台に立てるんです」
文はじっと、全てを受け止めるように聞いている。
「僕は……これからアトリエに会うのが、とてつもなく怖いです。彼を勝たせてあげられなかったのは、紛れもなく僕なので」
その懺悔に対し、文は変に慰めることはなかった。ただ事実として耳を傾ける。
「騎手は色んな人の思いを最後に引き継ぐ、言わば――アンカーです。馬の一生も背負っています。
どんなに沢山の人が見守ってきても、レースが始まれば、馬が頼れるのは騎手しかいません」
それはホースマンのなかでも、騎手にしかわからない苦しみだった。どんなに多くの人間がバトンを繋いでも、最終的にたった1人の人間によって勝敗は決められる。
「アトリエはターフを去っても、運良くあなた方と出会えた。でも、そんな幸運な馬は本当に一握りです。
……だから、僕にアトリエに会う資格があるのか。
正直、自信がありません」
文はしばらく黙って、ただ静かに柚木を見つめていた。やがて、柔らかな声で問いかける。
「クロノアトリエには、現役時代ずっと乗っていたんですか?」
「……はい。乗り替わりなしで、8戦ずっと」
「アッくん――アトリエと過ごして、そろそろ1年になりますけどね。
彼、とっても賢い子なんですよ」
文は少しだけ、目元を優しく緩めた。
「うちの息子は三つ子でそっくりでしょう?
でもね、アトリエはそれぞれをちゃんと見分けてるみたいなんです」
柚木は思わず目を瞬かせた。
確かに、馬は人の顔を覚える。だが――三つ子を見分けられるとはさすがに聞いたことがない。
「例えば毎日、息子たちが餌やりを交代でやってるんですけど。律のときだけ、もっと欲しいってねだるんですよ。同じ顔でも、この子だけは甘いってちゃんとわかってるみたいで」
思わず、あの天真爛漫な末っ子の笑顔が脳裏に浮かんだ。胸の奥が、きゅうっと締め付けられる。
文は静かに続けた。
「きっとアトリエにとって、"いつも背中に乗っていた人"は特別なはずですよ。だってあの子は、自分の運命を――あなたに、8度も託したんですもの。
……会ってあげてください」
それは責める言葉でも、慰める言葉でもない。
ただ事実をそっと手渡すような、やわらかな声音だった。
廊下の突き当たりから続く中庭の一角に、アトリエの馬房は建っていた。母屋の端に寄り添うように建て増しされていて、家屋と馬房でL字型を描いている。まるで、東北地方の曲がり屋のようだった。
「あ。もう散歩に出ちゃったのか……すみません。入れ違いだったようです」
馬房の中は空っぽだった。恐らくいまの時間帯は、三つ子たちが敷地内を散歩させているのだろう。
「この時期は暑いので、扇風機を付けっぱなしにしています」
博はそう言うと、壁に掛けてあった作業服を取り、手早く羽織った。布地は着込まれて柔らかくなり、ところどころに汗や土の染みが残っている。
「今は夏休みだからいいんですが……平日はやっぱり排泄が一番困りますね。多いときは一日に十回くらい、ボロの掃除をします。尿に関しては――最近はバケツを持っていくと、それに合わせてしてくれるようになりました」
言いながら博は、立てかけてあった清掃用のフォークを手に取り、慣れない腰つきでボロ(馬糞)を集め始める。見ていられなくなり、誠がすっと横から手を添えた。
「基本的には、息子たちが世話をしています。あとは週に何回か、乗馬クラブの方や獣医さんに来ていただいて、指導やサポートを。
……この通り、私はまだまだでして」
「いやいや。ここまでしていただければ、十分すぎますよ」
渉はゆっくりと首を振った。
「都心で馬を飼われていると聞いて、実は少し不安もありました。ですが、こうして実際に拝見して……本当にアトリエのことを考えてくださっているのが、よくわかりました。
暑さ対策も、衛生管理も、しっかりされています。
飼い葉桶も寝藁も綺麗ですし、何よりすぐ家族が気づける場所に馬房を作ってくださっている……
――よく、ここまでされましたね」
最後の言葉は、感心というより少し胸が詰まるような声音だった。
誠も柚木も、黙ったまま頷くしかなかった。
"偶然拾われた馬"ではなく、"ここで大切に暮らす家族の一員"として迎えられた――
その事実が、痛いほど伝わってきたからだ。
十分ほどして、三つ子がアトリエを連れて戻ってきた。三人とも乗馬用の防護ベストを着て、ヘルメットを被っている。暑くても安全が最優先なのだろう。
「すみません!ちょっと遅くなりました」
穣がそう言いながら、アトリエの手綱をそっと引いて誠たちの前に連れてくる。
誠は、その瞬間——胸の奥の何かが、ふっと力を失うのを感じた。
クロノアトリエが、元気に、ここにいる。
はねた前髪に、太い流星。人懐っこい目付き。1年前より筋肉は落ち、かわりに柔らかな肉付きになっていた。
だが毛並みは艶やかで、目は穏やかだ。
何より——生きて、無事で、ここにいる。
1年前。2024年9月——
アトリエが失踪したとき、誠は気が狂いそうだった。眠れない夜が数えきれないほど続き、腹を空かせていないか、怪我をしていないか、そればかりが頭を離れなかった。
国道をフラフラとさまよい、車に——
そんな最悪の結末を、何度も夢に見た。
そして何より、未勝利のまま終わらせてしまったこと。自分たちホースマンの判断が、彼の運命を狂わせてしまったのではないか——その負い目は消えなかった。柚木は一人で抱え込んでいるが、決して彼一人の責任ではない。
それが今、こうして。
縁あって、この家族のもとで元気に暮らしている。
確かに、失踪から数ヶ月後にSNSでアトリエの写真を見つけたときは腰を抜かしたし、都会で馬を飼うなんて、にわかには信じがたかった。
けれど——今日一日で、その迷いは静かに消えた。
デビュー前に思い描いていた未来とはまるで違う。
だがこれは、アトリエにとって最高の結果に違いない。ただそれが、ターフの上ではないだけで……
「…………」
柚木慎平は、ただ黙って、かつての相棒を見つめていた。
もう、同じターフを駆けることはない。勝たせることはできなかった——その事実も消えない。
それでも。
アトリエの澄んだ瞳だけは、不思議とあの頃のままに見えた。
そのときだった。
アトリエが、すうっと柚木の右側へ歩いていき——
そこで静かに立ち止まった。
「……え?」
黒木家の人間たちには、その行動の意味がすぐにはわからなかった。
だが誠と渉、そして柚木には、瞬時に理解できた。
(一緒に走るのを待っている……)
——装鞍所で、鞍をつけるとき。
——パドックで、騎手が跨るとき。
アトリエはいつも、柚木の右側に寄り添って、彼を待っていた。
アトリエは、自分が二度とレースに出ないことをまだ理解していないのだ。きっと"今回の放牧は長いなぁ"くらいにしか思っていないのだろう。
慣れ親しんだ牧場や厩舎を離れて東京に来ても、親戚の家にしばらく預けられた感覚でいるのかもしれない。
だからこそ、この何気ない仕草は。
あまりにも優しく、そしてあまりにも残酷だった。
柚木の胸の奥に、静かに、深く突き刺さった。
アトリエはそんな相棒の様子に首をかしげ、"乗らないの?"とでも言いたげにじっと見つめていた。
"騎手は色んな人の思いを最後に引き継ぐ、言わばアンカーです"という柚木の言葉は、JRA騎手の池添謙一氏の言葉からいただきました。
同氏がブラストワンピース号(2018年有馬記念の勝ち馬)の引退の際にSNSで綴った言葉を用いています




