黒木家と馬
「黒い貴公子ね……」
渉は苦笑しながら、一息ついて口を開いた。
「確かに、見た目はなかなかのものです。ほぼ真っ黒——青鹿毛という毛色なんですが、ほとんどいないんです。サラブレッド全体の半数くらいは、クロノアトリエのように茶色い体に黒いたてがみの鹿毛なんですよ。だから、あの黒さと逞しさは目を引くでしょう」
博と妻の文はこくこくと頷きながら聞いている。
「それに、まだ2歳で未熟な部分は多いですが、身体能力は高いと思います。負けず嫌いですし、根性がある。言ってしまえば——"競走馬らしい"馬ですね。だから先日のデビュー戦も、最後の最後まで諦めずに粘って勝てたんでしょう」
渉の言葉を受けるように、誠が続けた。
「ドラクロワは、今はデビュー戦を終えて休養に入っていますが、10月から11月頃にまた出走する方向で考えています。ちょうどこれから、府中や中山——関東圏の競馬場が開きますし、大きなレースも増えてくる時期ですから」
「それは楽しみです」博は嬉しそうに笑った。
「実は私、若い頃は府中に住んでまして。生まれは新潟なんですけど、大学進学のタイミングで上京して10年ほどお世話になりました。
あの頃は確か、ビワハヤヒデにナリタブライアン。あと、スペシャルウィークやグラスワンダーの時代でしたね。20世紀の終わり頃……今よりも、競馬が世間一般に開かれていた時代です」
一度言葉を切り、懐かしむように頬をゆるめた。
「私は競馬には疎かったんですが、大学時代の友人にね……ちょっと重度の馬券師がいまして。
"一文無しになったから泊めてくれ"なんて、レース帰りによく転がり込んできたものですよ」
隣にいた文がくすっと笑い、反対側の誠と渉、そして柚木もつられて肩を揺らした。
(ああ、この人は"語り方"がやさしい)
誠はふと、そんな感想を抱いた。
景色や人の表情を、そのまま心の中で大事にしまい、柔らかく取り出して見せてくれるような語り方。それは誰にでもできることではない。
彼の息子——三つ子の少年たちが、ああいう落ち着いた空気をまとっている理由が、また少しわかった気がした。
応接室の緊張がすっかり解けたあと、博は仕切り直すように再び口を開いた。
「では、こちらからもお話ししましょう。アッくん——クロノアトリエのことですね。ここで話すのも何ですから、直接彼に会って話をしませんか?」
そう言うと、博は応接室から廊下に出た。日本家屋特有の長く真っ直ぐとした廊下だ。先頭を行く博のあとを、誠、渉、柚木が静かに続き、文がその背中を見守るように最後に部屋を出る。
前を行く三人は、自然と会話を弾ませていた。
「アトリエの馬房とかって……どうしました?業者さんとかに頼んだんですか」
「そうですね。僕らは素人ですし、乗馬クラブの人とか牧場の方に話を聞いて、その手に慣れている工務店を紹介していただきました」
そう言うと、博は妻に聞こえないよう声を落とし——
「去年のボーナスは、全部アトリエに消えましたよ」
と涼しい顔でとんでもない事実を暴露した。
誠と渉は思わず顔を見合わせる。
返す言葉を探すより先に、そのスケール感にただただ圧倒されてしまう。
柚木は三人の後ろを静かに歩きながら、博の大きな背中越しに伝わってくる「責任」と「覚悟」の空気を、黙って受け止めていた。
だがそれは穏やかでどっしりとしており、決して重苦しい雰囲気ではない。博の人柄によるものだろう。
すると、文がふいに口を開いた。柚木と同じく物静かそうな女性だが、落ち着きと芯の強さを感じる。
「柚木さん。私、美術関係の仕事をしているんですけどね。といっても、描く方——アトリエではなくて、ギャラリー——売る方なんですけど。
作家さんの中に、馬の絵だけを描く方がいらっしゃるんですよ。以前、どこかの競馬場でもお仕事をされた方で」
柚木の眉がぴくりと動いた。表情は変えないが、少し興奮しているのがわかる。胸の奥がふっと熱くなった。
「その方がいつも仰るんです。サラブレッドは走る芸術品だって」
文は微笑むと、言葉を紡ぐようにゆっくり語る。
「馬を実物でちゃんと見たのは、クロノアトリエが初めてです。すごく……綺麗でした。植物しか食べないのに、どうしてあんなに体が逞しくなるんでしょうね。それでいて目は優しい。
立っているだけであんなに惚れ惚れするんですから、走ったら、もう……」
柚木の胸に、温かいものが広がっていく。
自分が誉められているわけではないのに、なぜこんな気持ちになるのだろう。勝負の世界に生きているからか、ついこんな大事な感情を忘れてしまってはいないだろうか。一番馬の近くにいるというのに。
と、文がふと思い出したように問いかけた。
「そう言えば、息子たちがアトリエの弟くんに名前を付けていましたけど、クロノアトリエという名前は、どんな由来があるんでしょう?」
柚木は一瞬考え、丁寧に言葉を選ぶ。
「……"クロノ"は、冠名です。牧場や馬主の目印のようなもので、所属する馬たちに共通して付けます。クロノ◯◯、というようにですね。
後ろの"アトリエ"は……父と母の名前から連想したそうです。
父はケイムホーム。母はクロノマキアート。"ホーム"と"アート"を合わせたら……自宅で絵を描く、そんなイメージが出てきて……
そこで"アトリエ"になったと聞きました」
静かな廊下に、しばし余韻のような沈黙が降りた。
やがて文は、そっと微笑む。
「素敵ですね」
その言葉は、決して大げさではなく。
けれど、何より温かかった。




