覚悟はあるか
渉はもらった名刺をまじまじと見ながら、静かに話し始めた。
「……出版関係の方でしたか。
失礼ながら、これだけのご邸宅ですから、古くから土地をお持ちの名家かとばかり」
「ああ、それは妻の実家です」
博は息子の穣そっくりのスマートな笑顔で返した。
「岳父が新聞社の出でしてね。僕とは同じメディア関係でご縁がありまして、妻を紹介していただいて……それで、婿養子に入ったんです」
そこに、やや呆れたように博の妻——文が言葉を継ぐ。
「ほら……うちの父、もうとっくに仕事もやめて隠居してるのに、夫にまで"うちの球団を応援しろ"って。困っちゃいますよ、ほんと」
誠は、言葉を失った。博が目で示した先——そこに飾られていたのは、ガラスケースに収められた、巨人・長嶋茂雄の直筆サイン入りユニフォーム。
つまり、あの新聞社か。
これほどの品を飾っているということは、岳父がただの社員だったはずがない。
おそらく、社の中枢にいた人物——名の知れた重鎮か。
そしてこの博という男……
同じ出版・報道業界に身を置いていたとはいえ、そんな家に婿養子として入り、その一端を担う決意をしたのだ。
それは相当な覚悟がなければできないことだろう。
誠は思わず、さっきから一言も喋らず隣にちょこんと座っている小柄な男を見た。柚木慎平。
騎手と言う職業上160cmと小柄だが、背筋はぴんと伸びている。183cmの誠と恰幅の良い渉に挟まれているからか、細身で小さい柚木はいつもよりちんまりとして見えた。
柚木の実家は競馬関係者ではなく、式正織部流という千葉県のお茶の家元だ。3歳から日本舞踊を習っていた柚木は、当時から体幹が強く立ち姿が綺麗で、大人しくも凛とした不思議な少年だった。
そこに目を付けたのが、偶然中学で同じクラスにいた競馬一族出身の栗林誠である。当時既にかなり背が伸び、騎手の夢を諦めかけていた誠は——
「お前、馬に乗れる。
いや——馬に乗るための体をしてる」
などと言い、柚木にジョッキーになることを勧めた。そこから二人のコンビが始まり、20年近く"馬に乗る者"と"馬を育てる者"の関係が続いている。
(……俺が柚木を、お茶の家元からまったく違う競馬の世界に引き込んだ時も、それなりに覚悟はあった)
でも思い返してみれば、あれはまだお互いが中学生の頃だ。誠が「お前、ジョッキーになれる」なんて言っていたのも、半分は夢と勢いの中だった。
もっとも、残りの半分には「体幹が強いこと」「小柄なこと」「物怖じせず落ち着いていること」など、騎手に向いているという確信があったのだが……
それに比べて、黒木氏の選択は——
大人として、自分の意志で、他人の家の看板を背負うという決断。
……次元が違う。
「さて——何から話しましょう?」
博の声で、誠ははっと我に返った。目の前には、息子たちにそっくりの顔をした博のスマートな笑顔。
(もしあの子たちの写真を、加工アプリかなんかでいじったらこんな顔になるだろうな)
そんなくだらない想像が頭をよぎるが、今はそれどころではない。慌てて誠は鞄からタブレットを取り出した。
「と、とりあえずこっちから話させてください。先日、アトリエの弟……クロノドラクロワがデビューしまして。で、勝ったんです。これ、映像です」
動画を再生すると、柚木を乗せたドラクロワがアタマ差でゴールを駆け抜ける姿が映し出される。博と文は食い入るように画面を見ていた。
「おぉ……真っ黒でカッコいい馬ですね。何と言うか……黒い貴公子?とでも言いますか」
博の言葉に、とっさに誠・渉・柚木の頭に同じ画が浮かぶ。
——馬房でふんぞり返って寝ている姿。
——すぐ他の馬にケンカを売るヤンキーもどき。
——そのくせ歴戦の古馬と併せたらボコボコにされ、"わからせられました……"という顔でヘナヘナ戻ってくる、妙に人間臭い馬。
とてもじゃないが、博の言うような優雅な馬ではない。むしろその真逆だ。
思わず三人は、顔を見合わせて苦笑してしまった。




