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初めてのレース

新馬戦前の初々しくも緊張した空気の中。

パドックから本馬場に続く地下馬道を歩きながら、クロノドラクロワはふと、母クロノマキアートの言葉を思い出していた。



「サラブレッドは走る生き物よ。

——なら、争いも走って決めなさい」



クロノドラクロワ、牡2歳。

彼が生まれて初めて"本気で"ゴールを争った相手は、2年前、まだ当歳馬だった頃に現れた。

相手は同じ日に生まれた芦毛の牝馬。血縁で言えば従妹。

だが、牧場ではいつの間にか——

「双子の妹」と呼ばれる存在になっていた。


なぜ、そんなややこしい関係になったのか。

理由は単純だった。

彼女の母、クロノシネマは出産時に命を落とした。

残された仔馬は、最初こそ人の手で授乳されていたが、ある日の放牧で伯母のクロノマキアートに懐いてしまった。


マキアートの方も拒むことはなかった。

亡き妹の子を静かに受け入れ、自分の息子ドラクロワと一緒にいるよう促した。

こうして、偶然同じ日に生まれただけの二頭は、"双子"として育てられることになった。


——だが。

ドラクロワにとって、それは到底面白い話ではなかった。

なぜ、自分以外の仔馬が母の乳を飲んでいるのか。

なぜ、昨日までいなかったはずの存在が"妹"なのか。

体はぐんぐん大きくなっても、この状況を理解できるほど心は育っていない。

だから放牧のたびに、ドラクロワは"妹"に当たった。

砂をかけた。しっぽに噛みついた。彼女がマキアートに乳をねだれば、唸り声を上げて追い払った。

それでも彼女は、しばらくすると何事もなかったようにひょこひょこと戻ってくる。その無邪気さと図太さが、余計に癪に障った。


そしてある日。とうとう、母マキアートの堪忍袋の緒が切れた。

「どうして仲良くできないの!

少しは優しくしなさい。妹でしょう」


違う。

妹じゃない。従妹だ。従妹と言ってもほぼ他人。

いきなり現れたやつ。

母を横取りして、平然とそこにいるチビだ。


「従妹だろ!!」ドラクロワは吠えた。

「なんでそいつに母ちゃんが取られなきゃなんないんだ!シネマのおばちゃんが死んだのは、俺には関係ないだろ!」

「ちょっと……!」マキアートが止めるが、ドラクロワは聞かない。

耳を強く絞り、鼻息荒くまくし立てる。

「生意気なんだよ!せめて俺が先に飲んでから、お前の番にしろ。立場ってもんを考え……」


そのときだった。

「……そう」

マキアートは、深く息を吐いた。

怒鳴らず、責めもせず、ただ二頭を静かに見つめる。

「そんなに争うなら、もういいでしょう」

いつもと違う母の声色に、ドラクロワは一瞬たじろいだ。

次の瞬間、母は思いもよらないことを言った。


「今から、あなたたち二頭で競争しなさい」


「……は?」

間の抜けた声が漏れる。と同時に、噛みつく。

「いや意味わかんねーし!!」


「あら、そうかしら」

マキアートは動じない。煽っているような素振りさえ見せた。

「サラブレッドは走る生き物よ。

——なら、争いも走って決めなさい」


「う……」

確かに。

走ればはっきりする。本能で自分の方が上だと示せばいい。

口で言うよりずっと簡単で、ずっと残酷で、そして——

サラブレッドにとって、最も正しいやり方だった。純粋な力でねじ伏せれば、さすがにこのぼけ~っとした生意気な"妹"でもわかるだろう。


だが、何を言ってもどっしり構える彼女の底知れない恐ろしさが頭をよぎり、一瞬迷いが出た。

「…………」


と、母はなおも続ける。

「それとも何かしら。まさか、そんな元気のいい利かん坊が——」

「あ、いや……」

「こんな小さな女の子に負けるのが、怖いんじゃないでしょうね」


挑発は見事に突き刺さった。

「……やるよッ!!やればいいんだろッ!!」




ドラクロワは、胸の奥がじりじりと熱くなるのを感じていた。

——負けるわけがない。


そう思う理由はいくつもあった。

まず体の大きさが違う。自分は同じ月齢の牡馬より一回り大きく、足だって長い。すなわち、他の馬より少ないストライドで前に進むことができる。

「走る」という行為そのものが、生まれつき自分の味方をしているようなものだ。

放牧地で他の男の子たちと駆けっこをすれば、決まって自分が一番だった。逃げるでもなく、追うでもなく、ただ走りたいままに走れば勝てた。

それぐらい、自分の脚には自信があった。


対して、あの芦毛の“妹”はどうだ。

いつもぽわ〜んとしていて、怒っても驚かない。堂々としていると言えば聞こえは良いが、走る前からのんきで、緊張感というものがまるで無い。

度胸だけは自分よりある気がするが、その分スイッチが入るのが遅いタイプなんじゃないか?とドラクロワは勝手に決めつけていた。


——力なら自分が上。

——体が大きいし、脚も長い。

——他の子には負けたことがない。


至極当然のように、勝つ未来しか見えていなかった。


マキアートは、そんな2頭を優しく、しかし鋭い眼差しで見渡した。早くも気合をみなぎらせて前脚を地面に打ちつけるドラクロワと、その横でまるで風景の一部のように静かに瞬きをしている芦毛の仔馬。

ニ頭の性格の差は、誰が見ても明らかだった。


だが母であるマキアートの瞳には、不思議な確信めいたものが宿っていた。

「じゃあ——」

彼女は頭をすっと上げ、放牧地の端の一本の木を示した。

その太い枝の上には小さな巣があり、縁に小鳥が一羽止まっているのが見えた。親鳥が餌を取りに飛び立つ直前らしく、しきりに羽を震わせている。


「あそこの木の上に小鳥がいるでしょう?ほら、今にも巣から飛び立ちそうよ。

あの鳥が空に向かって飛び立ったら——スタートしなさい。木の辺りまで走ったら折り返して、ここに戻ってきたらゴールよ」


ドラクロワの耳がぴんと立つ。

風の音、草のざわめき、"妹"の静かな息づかい。すべてが彼の胸の鼓動に飲み込まれていく。

対して"妹"は、相変わらず穏やかな顔のまま、小鳥をじっと見つめていた。

緊張していないのか、しているけれど表に出さないのか……

少なくとも、ドラクロワには理解できなかった。

(なんでそんな顔していられるんだよ……!

レースって言われたらもっと身構えるだろ普通!)


苛立つように地面を蹴るドラクロワ。

けれど"妹"は尾を軽く振っただけで動じない。

そして——

小鳥が巣の縁で一度だけ羽ばたき、空に向かってふわりと浮かび上がったその時。

マキアートが叫ぶより早く、大地を蹴りつける轟音が放牧地に響いた。

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